第49話 決意
それから三ヶ月が過ぎようとしていた。
富岡の日向館には、季節の移ろいとは裏腹に、どこか落ち着かぬ空気が漂っていた。
兵糧の不足は、武蔵辺りから運び込まれる雑穀と、近頃評判の妙な甘味によって一時の猶予を得ている。
だが、それはあくまで“繋ぎ”に過ぎない。
焼かれた米倉の記憶はまだ生々しく、城内の奥には見えぬ焦りが燻っていた。
その最中――重臣の一人、猪狩筑後が、慌ただしく座敷へと駆け込んできた。
この猪狩筑後は岩城領と大和田領の境界を監視している猪狩一族の当主である。
「隆時様、申し上げます。隣領・大和田に関する急報にございます」
控えていた者たちの視線が、一斉にその男へと集まる。
「……申せ」
富岡大和守隆時は低く促した。
「は。大和田慶久殿、ついに床を離れぬ身となり、もはや長くはないとのこと。加えて、嫡男はあの”不精者”と評判の童、――領内では家中が割れ、親族筆頭の大和田慶光・小野田久秀両名がそれぞれに別の動きを見せているとの噂にございます」
ざわり、と空気が揺れた。
「それだけではございません。相馬中村においては大和田との確執が深まり、すでに関係は険悪。さらに津島方面からは、伊達の重臣・桜田が兵を差し向ける構えとも聞き及びます」
「……それは確かか」
重臣筆頭の佐藤刑部左衛門忠光が口を挟む。報告の男は一瞬言葉を濁した。
「は。ただし――いずれも、伝わり方に微妙に差異がございます。相馬の件に関しては、“すでに大和田を見限った”との話と、“盛胤公は怒ってはおられぬ”との話が混在しております」
「伊達はどうなのだ」
「桜田の名は確かに出ております。しかし規模は定かではございません。小競り合いに過ぎぬとの見方もあれば、本格的な侵攻の兆しとする声もあり……」
場に沈黙が落ちた。
情報は多い。だが、すべてが綺麗に噛み合っているわけではない。
誰かがぽつりと呟く。
「……出来すぎておるな」
その一言に、数人がわずかに頷いた。
だが同時に、別の声も上がる。
「だが、筋は通っておる。慶久が倒れ、内が割れ、外から圧をかけられている――ならば動けぬのも道理」
「兵の動きはどうだ」
「大和田は津島方面に兵を寄せているとのこと。こちらへの備えは薄いとの見方が大勢にございます」
「……それも、都合が良すぎる」
疑念と納得が、せめぎ合う。
その様子を、富岡隆時は黙して見ていた。
脳裏に浮かぶのは、春先の光景――
焼かれた城、炎に包まれた米倉、何もできずに歯噛みしたあの日。
そして、兄の岩城民部大輔由隆からの言葉だ。
――「城を守れぬ者に、領主の資格などない」
その屈辱は、未だ消えていない。
さらに、最近の変化もある。
武蔵方面から定期的に届く雑穀。飢えを凌ぐには十分であり、兵糧の不安はひとまず退いてきている。
加えて、城内で広まった甘味たんきり飴――あれは下々の者にまで行き渡り、奇妙なほど士気を落ち着かせていた。
「……兵糧の心配は、当面ないか…」
隆時がぽつりと呟く。
その一言で、空気がわずかに傾いた。
佐藤刑部左衛門忠光が進み出る。一斉に視線が集まる。
「殿。仮にこれが罠であったとしても――今、大和田が弱っていること自体は、疑いようがございませぬ。攻めるなら、今をおいて他にはないかと」
別の者も続く。
「意趣返しも果たしておりませぬ。このままでは、周囲に侮られましょうぞ」
さらに一人。
「家中の求心も、いずれ揺らぎます」
言葉が、積み上がっていく。
その流れに、ひとりの重臣が静かに口を挟んだ。
「加えて申せば――今は、稲の刈り取り前にございます」
場の何人かが、わずかに目を動かす。
「確かに危うき時期ではございます。兵を動かせば、自領の収穫にも影響は出ましょう。しかし――ゆえにこそ、好機にございまする」
声に、揺らぎはなかった。
「この時期に大和田を襲えば、あちらは刈り入れもままならず、兵糧の蓄えも崩れましょう。この一撃で、立ちゆかぬほどの打撃を与えられます」
静かに言葉を重ねる。
「多少の無理を押してでも、ここは踏み込むべき時かと」
さらに続けた。
「幸い、今回に限っては徴兵も多く、兵はよく集まっておりまする。動かせる力は、十分にございます」
その言葉は、場の空気を後押しした。だが、最後に残るのはやはり――
「……罠ではないのか」
その問いであった。静寂。誰も即答できない。
その沈黙を破ったのは、富岡隆時だった。低く、しかしはっきりとした声。
「――罠であれば、それも一興か。罠であろうと、好機であろうと、動かねばならぬ時があるのだ」
静寂の中、ひとりの武骨な重臣酒井兵部が、鼻で笑うように口を開いた。酒井兵部は富岡に拠点を置いていた土豪で富岡二十八騎衆の一人だ。
場の視線が、その男へと集まる。
「……そもそもの話でございますが、大和田の兵など、知れておりましょう。武辺者が揃っていようとも、しょせんは騎馬など、精々十騎にも満たぬ。かき集めたところで、足軽五十も揃えば良い方」
言い切る声音に、迷いはない。
「対して我らは――騎馬五十、兵五百は動かせまする」
ゆっくりと周囲を見渡す。
「戦力差、実に十倍。これをもって敗れる道理が、どこにございましょうか」
誰もすぐには否定しなかった。それは、事実でもあったからだ。
「たとえ幾ばくかの策があろうとも、この差は覆りませぬ。正面から踏み潰せばよいだけのこと」
その言葉は、重く、しかし分かりやすかった。迷いの空気が、わずかに崩れる。
別の重臣伏見左近が頷く。
「……確かに。兵力差は絶対にございますな」
さらに一人。
「罠であったとしても、この差ならば押し切れる」
疑念が、少しずつ“自信”へとすり替わっていく。
それを見て、富岡の殿は静かに目を細めた。
――勝てる。その確信が、場に広がる。
そして。
「――よい」
低く、しかしはっきりとした声が落ちる。
ゆっくりと立ち上がる。
「今が、その時だ」
誰も口を挟まなかった。
「大和田は弱っている。内は乱れ、外に敵を抱えている。これが偽りであったとしても――我らが攻め込む理由には、十分すぎる。このまま座しておれば、いずれ我らが削られる側となる」
視線が一同を射抜く。
「ならば、今、叩く」
決断だった。
「全軍をもって、大和田を攻め滅ぼす。直ちに触れを出せ。兵を集めよ」
その声は、もはや迷いを含んでいない。
「出陣の支度が整い次第――攻める」
深く、静かに言い切った。
こうして、戦は決まった。
それが、どこから仕組まれていたのかも知らぬまま――
富岡大和守隆時は、自ら歩みを進める。
仕掛けられた盤の上へと。
――その時。誰の目にも触れぬ場所。
屋根裏の梁の裏に、ひとつの影があった。
人の気配を殺し、息を潜め、ただじっと、下のやり取りを聞いていた者。
決断の言葉が落ちた瞬間、その口元がわずかに歪む。
(……かかったな)声には出さない。だが、その確信だけは揺るがない。
音もなく身を翻すと、影はするりと梁を伝い、屋根の隙間へと消えた。
次の瞬間には、もうそこには何もいない。
しばし後。城の外れ、人気のない裏手から、一人の影が駆け出す。
足音は軽く、速い。振り返ることもなく、ただ北へ――一直線に駆けていく。
だが。それを見咎める者は、誰もいなかった。
城内は、すでに出陣の支度で慌ただしく、人の目も意識も、すべて別の方向へと向けられていたからだ。
そしてその影が運ぶ報が、この先の戦の形を決定づけることになるとは――
まだ、誰も知らない。
だが、その緊張を裏切るように――
厨のあたりから、妙に軽い声が響いていた。
「おやおや、そこをお歩きの方は――もしやお嬢様……と思えば、これは侍女頭の米殿ではございませんか! いやはや、その御姿、まるで唐土の天女が地上に舞い降りたかと見紛うほどの神々しさ……本日も目の保養、まことに恐悦至極にございます!」
くるりと向きを変え、今度は別の影に向かって、さらに声を張る。
「おおっ、そちらを進まれるは阿形か吽形か――いえいえ、それすら及ばぬ。両者が一つとなった金剛力士のごとき威容、この日向館の守護神様にございますな! 番衆の佐兵衛様、その御威光、まことに頼もしき限り!」
薄っぺらく、しかし妙に流れるような言葉。
過不足なく、いや過剰なほどに並べ立てられる美辞麗句。
呼ばれた米も、佐兵衛も、一瞬だけぽかんとした顔を見せ――次の瞬間、思わず吹き出した。
米は口元に手を当てながら、肩を揺らして笑う。
「まあまあ、よう言う。口だけは一人前だこと」
佐兵衛もまた、低く喉を鳴らすように笑った。
「ほう、わしが金剛力士か。悪くないな」
張り詰めていた空気が、ほんのわずかに緩む。
その中心で、にこにこと笑っている童が一人。
貴二郎(貴丸)である。
城中が戦の気配に染まりゆく中で、ただ一人、場違いなほど軽やかに。
誉め殺しの言葉を振りまきながら、何事もない顔で歩いていた。
阿形・吽形:阿形は向かって右側、口を開けて万物の始まりを表す。吽形は向かって左側、口を閉じて万物の終わりを表す。この二体が息を合わせて金剛力士になる様子が「阿吽の呼吸」の語源になる。
番衆:門番。交代制で警備にあたる者たちの総称。




