第3話 下の下のゲゲゲ
縁側を抜ける風が、かすかに鉄の匂いを運んできていた。
具足に染みついた汗と血の名残が、まだ屋敷の空気に薄く溶けているのだろうか。
だが貴丸にとっては、それすら遠い出来事に過ぎず、頬を撫でて通り過ぎる春の風と大差はなかった。貴丸の脇には母の琴と敦丸もいる。
そのすぐ脇の部屋では、慶久と叔父の慶光らが膝を突き合わせ、先の戦について言葉を交わしている。
声は抑えられているが、内容は明瞭だ。今回の衝突は本気の侵攻ではない。
田植え前に隣領に圧をかける、いつもの小競り合いに過ぎない。
敵は騎馬十騎ほどに農兵数十、こちらは騎馬五騎に同じく農兵。
石を投げ、矢を射かけ、互いに軽手を負わせて引く――それで終いだ。ただし、領境の農家がいくつか焼かれた。
その後始末と、次にどう備えるかが議題の中心らしい。
やがて話がひと段落したのか、ふいに声がこちらへ向いた。
「貴丸、そなたも聞いておったろう。あと数年で初陣なのじゃ。この地の嫡男としてどう思うのだ?」
声が低く、逃げ場を塞ぐ問いである。室内の視線が一斉に集まり、空気がわずかに張り詰める。
当の貴丸はといえば、その緊張すら他人の芝居を見るように受け流し、縁側に寝転んだまま、片目だけをゆるりと開いた。
「親父様――」
間の抜けたほど穏やかな声で呼び、ほんのわずかに口元を歪める。
「自領での戦など、下の下の“ゲゲゲ”にございまするな。攻められる前に、攻めませぬと」
あまりに軽い。あまりに遠慮がない。場に落ちた言葉だけが、妙にくっきりと残った。
当人は寝転んで鼻でもほじっていそうな顔で、戦帰りの大人たちへ講釈を垂れる。
「孫子にもございます。――其の来たらざるを恃むこと無く、吾が以て待つ有ることを恃み、其の攻めざるを恃むこと無く、吾が攻むべからざる所あるを恃む。と」
すらすらと続けたはいいが、聞く側はポカンである。叔父の慶光が「何を言うておるのだこやつは」という顔で首を傾げたのを見て、貴丸は気だるげに付け足した。
「つまりは、来るなと祈るな、来てもいいように備えよ。攻めてくるなと願うな、攻められぬ形にしておけ――そういうことでございますな」
まるで昼寝の合間に思いついたかのような口調で言い切る。戦場を知らぬ十歳の不精者のニートが、つい今しがた命のやり取りを終えたばかりの面々に向かって、である。
父の慶久の眉がまたぴくりと動いた。
だが貴丸は気づかぬふりで続ける。
「されば戦とは、他領に乗り込みてこそでございましょう。褒美さえ賜られるなら、この貴丸が参り、こっぴどく叩きのめして参りまするがな」
言い方だけはやたら勇ましい。中身はニートの引きこもりで、昼寝常習犯である。
叔父の慶光がとうとう大きく息を吐いた。
「お前は相も変わらず大風呂敷よのう……で、その“ゲゲゲ”とは何じゃ」
突っ込まれた。
貴丸は一瞬だけ固まる。(……あ、そこ拾うの? 適当に言ったのに……)
ほんのわずかに視線が泳ぐ。が、すぐに何事もなかったかのように口元を緩めた。
「あれは物の怪にて――」
急にそれっぽくなる。声まで潜める始末である。
風がひとつ、縁側を抜けた。
「黄地に墨の縞の袖なし半纏をまとい、木の履物を飛ばして敵を討ち……髪は一本、ぴんと天に立ち申す」
自分の頭を指でちょんちょん叩きながら、妙に具体的に語る。
「その身ひとつで不可思議な業を振るい、気づけば相手は地に伏す。まこと面妖なる童にございます」
場が、すっと静まった。
貴丸は調子に乗る。
「ああ、さよう――その童、髪の中に小さき父を飼うておるとか。しかも一つ目にて、甲高き声で世を睨み続けるという……」
あの某漫画とアニメで有名な”鬼の太郎”を頭に浮かべて。
そして沈黙。
隣では敦丸が、いつの間にか琴の袖にしがみつき、ブルブルと震えている。
(……え、そんな怖いの?)
貴丸は内心で首を傾げつつ、叔父の慶光を見る。
慶光は、ゆっくりと、ものすごく嫌そうな顔になった。
「……それは妖でも何でもない。ただのお前の作り話であろうが…」
ばっさりである。
貴丸は肩をすくめた。
「さて。信ずるも信ぜぬも、叔父上次第にございます」
どこか楽しげに言い放つ。
「……そのようなものを語るお前こそ、よほど面妖であろうよ」
至極もっともな返しに、貴丸は「それもそうか」とでも言いたげに、力の抜けた仕草で肩を揺らすだけだった。
バタバタと、軽い足音が廊を駆けてくる。重苦しかった空気に、場違いなほどの勢いで割り込む音だった。
「父上! ご無事で帰られたか!」
姿を現したのは希丸――慶光の子にして、貴丸より一つ上の従兄。年の差はわずかでも、体格は一回り大きく、いかにもよく食い、よく動く子供のそれである。
慶光の表情がふっと緩む。大きな手が伸び、希丸の頭を乱暴に、だがどこか愛情の滲む手つきでくしゃりと撫でた。
「おう、無事に戻ったぞ」
短いやり取りに、戦の空気がわずかにほどける。
その様子を横目で眺めながら、貴丸は再び父慶久へと視線を戻した。
「さて、親父様」
何でもないような調子で口を開く。
「その富岡大和ナントカカントカ、という御仁にひと恥かかせて参りましたら――何ぞ褒美は頂けますかな」
あくまで軽口の延長。だが、言葉だけは妙に具体的だ。
父の慶久は鼻で笑った。
「ほう、言うではないか。ならば見事やってのけた暁には――お前専用の馬をくれてやろう」
その返しに、貴丸はわずかに眉を寄せた。
「……馬刺しか」
小さく呟き、首を傾げる。
「それよりは、牛か鶏の方がいいな……猪は……怖いしなぁ……」
そして顔を上げる。
「馬は結構にございます。代わりに鶏を。それと――傅役を一人。誰でも構いませぬゆえ。生贄をば所望いたします」
さらりと言い放つ。 慶久はあからさまに顔をしかめた。
「生贄って……お前には傅役は前に付けていたではないか。お前があまりに不精で、妄言を言うので愛想を尽かして去ったであろうが」 それを聞いて、貴丸は苦い顔になる。
「あれは……冗談の通じぬ御仁にございました」ぼそりと返す。
慶久は鼻を鳴らした。
「冗談では済まぬわ。お前が妙なことばかり申すゆえ、狐憑きか神の呪いかと怯えて逃げたのだ」
事実である。
貴丸としては、ただ前世の記憶を噛み砕いて語っただけに過ぎない。
空を飛ぶ乗り物や、鉄でできた箱が地を走る話、この地に後の世で築かれる雷の元を作る巨大な建造物の話――それらは、この時代の理からすれば、いずれも狂気の産物に映った。
結果、狂人扱いである。
貴丸はわずかに視線を逸らした。
慶久は小さく息を吐く。
「……まあよい。本当にやってのけたならば、傅役の一人くらいは見繕ってやろう」
半ば投げるように言う。
「かたじけのうございます」
形だけ頭を下げながら、貴丸は内心で肩をすくめた。
どうせ、すぐに動く気はない。だが、使える手駒は多いに越したことはない。
傅役――言い換えれば、使い走りであり、相談役であり、時に責任の押し付け先にもなる便利な存在だ。
融通が利き、文句を言わず、できれば頭も回る人間が望ましい。
ふと、横で叔父と笑い合う希丸へ視線を向ける。
体は大きく、性格は素直。言葉を告げれば、よく動く。(稀丸も……扱いやすそうだしな)
口元が、わずかに歪む。
「……さて」
誰にともなく呟く。
戦の話はすでに遠のいていた。
貴丸の頭の中では、別の“戦”が静かに幕を開けている。
のか?




