第11話 後日談01
一夜明けた朝。
屋敷は、昨日の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
修平はすでに起こされ、家宰のもとへ連れて行かれている。
礼法から始まり、雑務、立ち居振る舞いに至るまで、一から叩き込まれるのだという。
お佳もまた女中頭に預けられ、読み書きを含めて仕込まれている最中であろう。
そんな慌ただしさとは無縁に、貴丸は縁側に寝そべっていた。
朝の光が庭先の露を淡く照らし、草葉の一つひとつがきらりと光る。風が抜けるたびに、細かな影が揺れ、時がゆっくりと流れているように見えた。
何も考えていないようで――実際、何も考えていない。
そこへ、控えめな足音が近づいた。
「兄上……昨日は、その……富岡の城下はどうだったのですか?」
敦丸である。まだ顔色は完全には戻っておらず、どこか青ざめている。
それでも問いかけてくるあたり、恐れよりも好奇心が勝っているらしい。
貴丸は空を仰ぎ、しばし間を置いてから口を開いた。
「……ああ、城下に入った後のことか」
ゆるやかに言葉を紡ぐ。
「城下に入って、すぐに妙な婆に会ってな」
敦丸の肩がびくりと揺れる。
「腰が曲がり銀髪で、目だけが異様に大きかった。壺を抱えておって、その中に砂が入っていてな……近寄った途端、それをばらばらと振りかけてくる」
敦丸の顔がみるみるうちに強張る。
「ただの砂ではない。かけられた者は、急に足が重くなる。まるで地に縫い付けられたように、動けなくなるのだ」
「ひっ……」
小さく息が漏れる。
貴丸は気にする様子もなく続けた。
「その先では、赤子のように泣いている者がいた。だがな、よく見ればどうにもそれは禿げた老人なのだ」
「え……?」
「哀れに思って抱き上げたところで――気づく」
言葉を区切る。
「重い」
さらにゆっくりと。
「重く、重く……持ち上げた者ごと潰れるほどに」
敦丸の顔から血の気が引いた。
「だからな、そういう者には、見かけても決して近づくなよ」
静かに言い切る。
敦丸は震えながら何度も頷く。
だが、貴丸の話は終わらない。
「それとな……もうひとつ。その先に娘がいた。おかっぱ頭でな、ただじっと立っておるのだ」
敦丸の身体がこわばる。
穏やかな声のまま続ける。
「その前を鼠が走った途端だ。急に四つん這いになってな」
敦丸の呼吸が止まる。
「爪を伸ばし、牙を剥き……猫のようにそのまま追いかけて消えた」
「いやぁぁぁぁぁ!」
ついに耐えきれず、敦丸は泣き声を上げた。
貴丸は首を傾げる。
(……そこまでか?)
そのときだった。
「貴丸殿」
背後から、静かな声が落ちる。
振り返れば、母――琴が腕を組んで立っていた。呆れを隠そうともしない視線がまっすぐに向けられている。
「敦丸をまたいじめているのですか?」
「いえ、ただ昨日の話をしていただけですよ。それに、またとは聞き捨てならないですな」
さらりと返す。
「砂をかける婆と、重くなる老人と、猫に憑かれた娘の話を」
琴は深く息を吐いた。
「……また作り話ですか」
半ば諦めた声である。
「敦丸から聞きましたが、あなた、敦丸を船に残して城下へ行ったそうですね」
言葉は穏やかだが、声の調子は厳しい。
さらに続ける。
「その間、敦丸はずっと食事も取らずにいたと聞いていますよ」
静かに言い切る。
座敷の空気が、わずかに張り詰めた。
貴丸はほんの一瞬だけ目を細め、それから軽く息を吐く。
「いや、聞いてください、母上」
声音はいつも通りだが、わずかに弁明の色が混じる。
「敦丸は船酔いで、ずっと動けずに寝ていたのです。あの様子では、食事どころではなかったでしょう」
言葉を継ぐ。
「それに、そばには龍長おじさんもおりました。見ていないはずはありません」
理は通っている。少なくとも、そう聞こえるようには整えてある。
だが、言いながら、貴丸の脳裏にふと一つの光景がよぎった。
(……いや)船尾に転がる敦丸。青ざめた顔で、ただうずくまる姿。そして――
(龍長おじさん……)
あのおじさんのことだ。目の前のことに気を取られれば、後ろに転がる人間など、案外あっさり忘れている可能性もある。
(……あり得るな)
一瞬、そんな考えがよぎる。
しかしそれを表に出すことはない。貴丸はあくまで、涼しい顔のまま母の琴を見上げた。
琴はしばし無言で貴丸を見つめていた。その視線は静かでありながら、どこまでも見透かすようで、わずかな嘘や誤魔化しも見逃さぬ気配を帯びている。
やがて、ゆっくりと息を吐いた。
怒声はない。ただ、その沈黙が何より重かった。
「それより、旦那様がお呼びです」
「……今ですか?」
「今です」
間を置かぬ返答だった。
貴丸は露骨に顔をしかめ、身体をひねると、そのまま再び横になろうとする。
その瞬間。
「いててててて!」
耳を掴まれた。
「呼ばれているのに寝ようとするからです」
「離してください、耳が……!」
じたばたともがくが、琴の手は緩まない。
「あと十数える間に行かなければ――夕餉は抜きですからね」
ぴたり、と動きが止まる。
「……行きます」
観念したように立ち上がり、渋々と父の部屋へ向かう。その背を、涙目の敦丸が、なお震えながら見送っていた。




