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短編集

婚約破棄された伯爵令嬢ですが、森でパン屋を開いたら辺境伯に溺愛されました 〜悪女呼ばわりした元婚約者よ、助けを求められてももう遅い〜

作者: 夢見叶

 婚約破棄を言い渡されたのは、王城の大広間のど真ん中だった。


「伯爵令嬢リアナ・グレイス。おまえとの婚約を、ここに破棄する!」


 玉座の前で、金髪碧眼の王太子アルベルト殿下が高らかに宣言した。


 ざわめく貴族たち。床に響く靴音。わたしの心だけが、不思議なほど静かだった。


「理由を、おうかがいしても?」


 わたしが尋ねると、殿下の隣に立っていた黒髪の子爵令嬢セシリアが、勝ち誇ったように笑った。


「決まっているだろう。おまえがセシリアをいじめたからだ。おまえのような悪女を、未来の王妃にするわけにはいかない」


「そうですわ、殿下。リアナ様は、わたくしのドレスを汚したり、お茶会から締め出したり……本当にひどい方なのです」


 ああ。出た。よくあるパターン。


 心の中で、わたしはため息をつく。


 前世、日本で残業だらけの社畜OLをしていたわたしは、馬車の事故であっさり人生を終え、この異世界へと転生した。転生先は伯爵家の一人娘で、ついでに王太子の許嫁。


 けれど、転生した直後からわたしは決めていた。


 ぜったい前に出過ぎない。

 目立たない。

 静かに生きる。


 だから、セシリアに嫉妬していじめた? ないない。忙しい社会人をなめないでほしい。無駄なことにエネルギー使えるほど、人生長くない。


「証拠は、ございますか?」


 わたしが静かに言うと、殿下は露骨に眉をひそめた。


「証拠など、セシリアが泣いていることがすべてだ!」


「まあ殿下。恥ずかしいですわ」


 セシリアが真っ赤な顔をして殿下の腕にしがみつく。


 ……はいはい。


「分かりました。では、婚約破棄はお受けいたします」


 わたしがあっさり頷くと、大広間の空気が一瞬止まった。


「え……?」


「ただし。グレイス伯爵家はこれまで、王家の医療と薬学を一手に担って参りましたので、今後はその役割からも退かせていただきます」


 わたしは淡々と続ける。


「王城への薬草の供給、治癒魔法士の派遣、王立病院への資金。すべて、本日をもって打ち切りとさせてくださいませ。これは父の許可も得ております」


「な……!」


 ざわ、と今度はさっきより大きなざわめきが起きた。


 当然だ。グレイス家は、この国で唯一の高位治癒魔法の一族。王家は代々、わたしたちの力に頼ってきた。


「リアナ、それは脅しか!」


「いいえ。悪女には関わらない方がよろしいでしょう? 王家のためを思っての判断ですわ。あとはセシリア様の献身で、どうにかなさってくださいませ」


 皮肉を込めて微笑むと、セシリアの顔が一瞬ひきつった。


「では、失礼いたします。今日限りで王都を離れますので」


 わたしは深く一礼し、そのままくるりと背を向けた。


 二度と、ここには戻らない。


     * * *


「……というわけで、お嬢。ほんとに行っちまうんで?」


 ガタゴトと揺れる荷馬車の上で、馬車屋のおじさんがこちらを心配そうに見た。


「はい。前から決めていたことなので」


 わたしは小さな革の鞄を抱きしめる。中身は必要最低限の服と、研究ノートと、こっそり貯めていた貯金。それから、前世の記憶を元に書き起こした、パンとお菓子のレシピ。


 目指すは王都から遠く離れた、国境近くの森の村。


「森の端っこの、あの村は静かでいいと聞きました。畑も借りられるそうですし」


「まあ、たしかにのんびりしたとこだが……お嬢みたいなお上品なお方が行く場所じゃあ……」


「もう、お嬢ではありませんよ。ただのリアナです」


 わたしが笑うと、おじさんは頭をかいた。


「へいへい。リアナ嬢ちゃんねえ。……何かあったら、王都に戻るって選択肢も、忘れないでおきなよ」


「その頃には、戻れって言われても戻れないと思いますよ」


 だって、きっと。


 ざまぁな結果になっているから。


     * * *


 森の村は、想像以上に静かで平和だった。


 木造の小さな家。裏には空き地と、少しだけ開拓された畑。周りは緑の海みたいな森。


「ここが……今日からのわたしの家」


 胸いっぱいに深呼吸する。湿った土の匂いと、木々の香り。王都の石畳にはなかった空気だ。


「まずは畑をどうにかしないと」


 わたしは袖をまくり上げる。


 伯爵令嬢? 関係ない。前世でブラック企業にいたおかげで、根性ならある。デスクワークだけじゃなく、力仕事もやらされたし。


 土を掘り返していると、ふいに背後の茂みがガサガサと揺れた。


「……!」


 慌てて振り向くと、そこには。


 大きな白い狼がいた。


 人間の腰くらいまである、もふもふの大きな身体。金色に光る瞳。じっと、こちらを見ている。


「あ、あの。こんにちは?」


 とりあえず挨拶してみる。


 白狼は首をかしげた。


「もしかして……この辺りの主さんとかですか?」


「……」


 白狼は、ゆっくりと近づいてくる。


 噛まれたらどうしよう。いや、ここで恐怖に負けてはいけない。動物は、目をそらしたら負け。


 わたしはそっと手を差し出した。


「突然来てごめんなさいね。今日から、ここで暮らすリアナです。どうぞ、よろしくお願いします」


 白狼の鼻先が、わたしの手に触れる。ひんやりしてる。


 くんくん、と匂いを嗅いだあと、ぺろりと舐められた。


「……許可、いただけました?」


 そう尋ねると、白狼は一度だけ「ウォフ」と鳴いた。


「よかった。じゃあ、仲良くしてくださいね」


 緊張が解けて、へなへなと笑う。


 その時だった。


「おい、そこの白バカ。人の畑で勝手に縄張り確認してるんじゃない」


 低い男の声がして、森の奥から人影が現れた。


 長い銀髪をひとつに束ねた青年。鋭い灰色の瞳に、無精ひげ。黒いコートに革のブーツ。背には大きな剣。


 いかにも、森の奥にいそうな危険人物、なのに。


 なぜか、不思議と怖くなかった。


「すまない。うちの狼が驚かせた」


 青年は白狼の頭を軽くはたきながら、わたしに近づいてくる。


「い、いえ。むしろ、歓迎してもらえたみたいで」


「おまえ、ここに新しく入ったっていう……」


 青年はじろりとわたしを見た。観察されている気がして、少し背筋を伸ばす。


「リアナ・グレイスです。今日から、あの家で暮らします」


「グレイス? 王都の?」


「いえ、元・グレイスです」


 そう言うと、青年は片眉を上げた。


「……なるほどな。訳ありって顔だ」


「そちらこそ、訳ありな感じですけど」


「俺はルーク。この村を見張ってる、なんちゃって領主だ」


「なんちゃって領主」


「ああ。一応この辺一帯はうちの領地だが、面倒くさくてな。村長と狼に任せてる」


 ひどい領主だ。


 思わず吹き出すと、ルークは少しだけ目を丸くした。


「笑うのか」


「だって、領主がそんなこと言うなんて思わなくて」


「まあ、領主と言っても辺境だ。金も権力も大したことはない」


 肩をすくめるルーク。その隣で、白狼が「ウォフ」と鳴いた。


「この子は、お名前は?」


「この『子』は村の守り神だ。本名は長すぎて人間には発音できんから、ここではシロで通してる」


「シロ。かわいいですね」


 わたしがシロの頭を撫でると、ふわふわの毛が指に絡む。気持ちいい。


「おまえ、シロを怖がらないのか」


「はい。前から、動物は好きで。あと……」


「あと?」


「ここでスローライフを始めるって決めたばかりなのに、最初の訪問者がこんなにかわいいなんて、幸先がいいなと思って」


 くすりと笑うと、ルークが小さく息を飲んだ気がした。


「……おもしろい女だな」


「褒め言葉ということで、受け取ります」


「そうしろ」


 短く笑ったルークの顔は、さっきまでの危険人物という印象から一転して、少しだけ柔らかく見えた。


「で、おまえ。ここで何をするつもりだ?」


「パン屋を、したいなと思っているんです」


「パン屋?」


「はい。畑で小麦と、野菜と、ハーブを育てて。森で採れる木の実や果物も使って。村のみなさんに、ゆっくり食べてもらえるパンとお菓子を作りたいんです」


 前世からの、小さな夢。


 仕事帰り、疲れた身体を引きずりながら立ち寄る、あたたかいパン屋。レジの横に、小さなイートインスペース。コーヒーと焼きたてパンの香り。


 そんな店を、自分でもいつか、と。


 ブラック企業に捕まらなければ、きっと挑戦していたかもしれない。


「……いい顔するな」


 ルークがぽつりとつぶやく。


「え?」


「パンの話をするときのおまえの顔だ。さっきまでの、王都の貴族っぽい仮面が全部はがれてる」


「か、仮面って」


「褒めてる。ここの連中は、そういう顔をするやつの作るものが好きだ」


 ルークはシロの頭をぽん、と叩いた。


「シロ。こいつを、ちゃんと守れ」


「ウォフ!」


「あの、シロに任せるんですか」


「俺も見るさ。ただ、俺は領主だからな。仕事をしているふりくらいはしないといけない」


「ふりなんですか」


「……おい。そこは突っ込むな」


 気づけば、笑い声が森に溶けていく。


 王城では、こんなふうに笑ったことはなかった。


     * * *


「いらっしゃいませ。森のパン屋『ひだまり』へようこそ」


 あれから数ヶ月。


 わたしの店は、村の小さな目抜き通りにひっそりと佇んでいる。


 焼きたてのパンの香り。木のカウンター。窓際の、2人掛けの丸テーブルが3つ。壁には、森で拾った小さな木の実や葉っぱを飾ったリース。


「リアナちゃん、今日もいい匂いだねえ」


「おはようございます、マリーさん。いつものハーブパンでいいですか?」


「そうそう。あと、孫への甘いパンを2つ頼むよ」


「では、ハチミツミルクパンがおすすめです」


 会話をしながら、パンを袋に詰める。


「ルーク様は、もう来てるのかい?」


「いえ、まだですけど。きっと、さっきまで寝てたんだと思います」


「あの人は、ほんとリアナちゃんの店に入り浸りだからねえ。領主の館より、こっちの方が長くいるんじゃないかい」


「さすがに、それは……あるかもしれません」


 苦笑していると、ドアのベルがカラン、と鳴った。


「噂をすれば、ですね」


「おはよう、リアナ」


 銀髪を無造作に束ねたルークが、いつものように眠そうな顔で入ってくる。


「おはようございます、ルーク様」


「様はやめろと言ってるだろうが」


「では、ルーク。コーヒーと、今日のパンはどうしますか?」


「いつものやつと、おまえのおすすめを1つ」


「いつものやつが多すぎて分かりません」


 そう言うと、マリーさんがくすくす笑った。


「ほんとに仲がいいねえ。じゃあ、わたしはこれで。また明日来るよ」


「はい。またお待ちしてます」


 マリーさんを見送ってから、わたしはカウンター越しにルークを見る。


「今日のおすすめは、森キノコのクリームパンです。キノコはシロが見つけてきてくれました」


「ウォフ!」


 いつの間にか足元にいたシロが、自慢げに尻尾を振る。


「シロ、店の中では静かにしててね。パンが落ちちゃうから」


「……ウォフ」


 しょんぼりするシロの頭を撫でながら、わたしはパンを皿に乗せ、コーヒーを淹れる。


「はい、どうぞ。ルーク席にお持ちしますね」


「だから、その名前やめろ」


「常連さんで、いつも同じ席に座ってる人の名前がついてるんですよ」


「俺しかいないだろうが」


「そうとも言います」


 笑いながら、窓際の席にパンとコーヒーを置く。


 ルークはパンにかぶりつき、目を細めた。


「……うまい」


「よかった」


 その一言を聞くために、毎日がんばっていると言ってもいいくらいだ。


「しかし、おまえは本当に器用だな。パンに、魔法を練り込むなんて普通はしない」


「ただの趣味みたいなものですよ。美味しくて、ちょっとだけ身体にもいいパンって、素敵だと思いませんか?」


「このクリーム、身体があたたかくなる。治癒魔法の亜種か?」


「そうですね。怪我を完全に治せるほどではありませんが、疲れが取れやすくなるように調整してあります」


 元・王家付き治癒魔法士の本領発揮、というやつだ。


 ルークはカップを口元に運びながら、じっとわたしを見た。


「なにか、変なものついてます?」


「いや。こうしていると、本当にただのパン屋なんだがな」


「ただのパン屋です」


「だが、おまえが本気を出せば、この国の半分は簡単に動かせるだろう」


「だから、その辺を全部捨ててここに来たんです」


 わたしはにこりと笑う。


「ルークだって、本気を出せば、王都の貴族たちが震え上がることくらい知ってますよ」


「……村のパン屋に、領主の正体を見抜かれたな」


「最初からバレバレでした。シロと一緒にいる時点で」


 シロが「ウォフ」と鳴いて、尻尾を振る。


 ルークは少しだけ口元を緩めて、手を伸ばした。


「リアナ」


「はい?」


「なにか困ったことがあったら、ぜったいに俺を呼べ」


「今のところ、特には」


「畑で土が硬かったら呼べ。荷物が重かったら呼べ。雨漏りしたら呼べ。虫が出ても呼べ」


「それ、ほとんど何も困る前に解決しません?」


「いいんだ。おまえが呼ぶ口実が、いくら増えても損はない」


 さらりと言われて、思わず言葉に詰まる。


「……それは」


「俺は、おまえに甘やかされているからな。せめて日常の雑事くらいは、俺に甘えろ」


 真っ直ぐな灰色の瞳が、こちらを射抜く。


 ああ、この人は本当にずるい。


 そんな顔で、そんな声で、そんなことを言わないでほしい。


「じゃあ……今、1つだけ甘えてもいいですか?」


「なんでも言え」


「あとで、屋根裏の荷物を整理するので。はしごを押さえててください」


「任せろ」


「それと……」


「まだあるのか」


「夜、少し時間をください。新しいパンの試食会をしたいので」


「それは甘えじゃない。俺へのご褒美だ」


 即答されて、思わず笑ってしまう。


 こんな日々が、いつまでも続けばいい。


 そう思った、その時だった。


     * * *


「リアナ様は、こちらにいらっしゃると聞いたのだが!」


 村の入り口が騒がしくなったと思ったら、昼過ぎ。


 店のドアが乱暴に開かれた。


 カラン、ガンッ、とベルが悲鳴を上げる。


「いらっしゃいま……せ?」


 振り返ると、そこには見慣れた金髪碧眼の男が立っていた。


 豪奢なマントは泥で汚れ、頬はげっそりとこけている。後ろには、慌てた様子の騎士たち。


「リアナ……! よかった、生きていたか!」


 アルベルト殿下。


 元・婚約者。


 わたしは一瞬だけ言葉を失い、すぐに微笑みを浮かべた。


「いらっしゃいませ。森のパン屋『ひだまり』へようこそ。ご注文は?」


「リアナ、そんなことを言っている場合ではない! 王都が、大変なことになっているのだ!」


「そうですか。それは大変ですね。うちのおすすめは、ハーブパンと……」


「リアナ!」


 殿下がカウンターに詰め寄ろうとしたその時。


「そこまでだ」


 低い声が店内に響いた。


 ルークが立ち上がり、殿下とわたしの間にすっと割り込む。


「ここは俺の村で、俺の贔屓の店だ。勝手に騒ぐなら、森の外まで引きずり出すぞ、王子様」


「き、貴様は……辺境伯ルーク・ヴァレンシア!」


 殿下の顔色が変わる。


 そう。ルークは「なんちゃって領主」なんかじゃない。


 この国を北と西から守る、巨大な辺境領の主。王家に次ぐ力を持つ、実力者だ。


 シロがルークの横で「ウォフ」と低く唸る。


「リアナ。こいつは、おまえの知り合いか?」


「はい。昔、お世話になっていた方です。今はお客様です」


「そうか」


 ルークは一度だけ頷き、殿下をじっと見据えた。


「用件は?」


「用件など、1つしかない! リアナ、戻ってきてくれ!」


 殿下は勢いよく叫んだ。


「王都は病で溢れている! 疫病のようなものだが、どの治癒魔法も効かない! グレイス家は治癒魔法士の派遣を拒んだ! 残っているのは、おまえだけだ!」


 ……ああ。


 やっぱり、そうなったか。


 王都からわたしを追い出した時点で、こうなるのは目に見えていた。


 グレイス家の高位治癒魔法は、家族全員ですこしずつ役割を分けていた。わたしは特に、広範囲の病を抑える魔法が得意だった。


 そのわたしを悪女として切り捨てれば、そうなる。


「セシリア様は、どうされたのですか?」


 わたしが静かに尋ねると、殿下の顔がひきつった。


「セシリアは……真っ先に病に倒れた。おまえの名を呼びながら、苦しんでいる……! リアナ、頼む。彼女を救ってくれ!」


「わたしをいじめた悪女だと、おっしゃっていた方ですよね?」


 さらりと言うと、殿下は言葉を詰まらせた。


「そ、それは……私が愚かだった! セシリアはおまえのことを羨んでいたのだと、今はわかる。すべては愛ゆえの、歪んだ行いだったのだ!」


「なるほど。では、その愛でなんとかされては?」


「リアナ!」


 殿下は膝をついた。


 店の床に、王太子がひざまずいている光景は、さすがにシュールだ。


「頼む。国のためにも、おまえの力が必要だ。婚約破棄を撤回してもいい。王妃の座も、すぐに取り戻してやる!」


「……あの」


 わたしは、ゆっくりと息を吸った。


「今さら、王妃の座なんていりませんよ」


「なに……?」


「わたしはもう、自分の店があって。守りたい村があって。大切な、お客様たちがいるんです」


 ルークが、わずかに息を呑む気配がした。


「ここでパンを焼きながら、静かに暮らしていくことが、わたしの幸せです」


「だが、おまえは……王妃になれるのだぞ!」


「王妃になったら、こんなふうにお客様と他愛もない話をしながらパンを売れますか?」


「それは……」


「シロと一緒に、森で木の実を拾えますか? ルークとコーヒーを飲みながら、新しいパンの話ができますか?」


 殿下は何も言えなくなっていた。


「それに、アルベルト殿下」


 わたしは少しだけ声を落とす。


「わたしを悪女呼ばわりし、婚約を派手に破棄したのは、そちらです。グレイス家を追い出したのも。『王家はおまえの力など必要ない』とおっしゃったのも、殿下ですよ」


「そ、それは……」


「だから、これはもう取り返せません。わたしの人生も、わたしの心も」


 静かに、でもはっきりと告げる。


「ですから、申し訳ありませんが、王都へ戻るつもりはありません」


「リアナ……!」


 殿下が手を伸ばしかけた瞬間。


 ガシ、とその手首を掴む影があった。


「聞こえなかったのか、王子様」


 ルークの声は氷のように冷たかった。


「リアナは、嫌だと言った」


「貴様、王家に逆らう気か!」


「ここは王都じゃない。辺境だ。俺の領地で、俺の店で、俺の女に無理を強いるなら――」


 空気が、ぴんと張りつめる。


 ルークの灰色の瞳が、薄く光った。


「戦争になるが?」


 ぞくり、と背筋が冷える。


 殿下だけじゃない。後ろに控えていた騎士たちも、顔を真っ青にして固まっていた。


「お、おまえの女、だと……?」


 殿下がかすれた声で繰り返す。


「そうだ」


 ルークは、迷いなく言い切った。


「リアナは俺の大切な女だ。誰かに都合よく振り回されるために、この森に来たんじゃない」


「ル、ルーク……?」


 わたしが思わず名前を呼ぶと、ルークはちらりとこちらを見た。


「違うのか?」


「え、えっと。それは、その……」


「違わないなら、そのままでいい」


 ルークは殿下の手を離し、片手をわたしに向けて差し出す。


「リアナ。おまえはどうしたい?」


 その言葉に、胸の奥がじんわりとあたたかくなる。


 王城では、一度も聞かれなかった言葉。


 わたしが、どうしたいのか。


 わたしは、その手をぎゅっと握った。


「わたしは、ここにいたいです」


「ここ、とは?」


「森のパン屋『ひだまり』で、ルークと、シロと、村のみんなと。一緒に笑っていたいです」


 ルークの口元が、ふっと緩んだ。


「聞いたか。王子様」


「お、俺は……」


「そっちには、そっちに守るべき国民がいる。こっちには、俺が守るべきものがある」


 ルークは淡々と言う。


「治癒魔法が必要なら、王都にいる他の治癒魔法士を総動員しろ。金が足りないなら、王家の宝物庫を片っ端から開けろ。それでも足りないなら、他国に頭を下げろ」


「だが、おまえなら……」


「俺は。リアナを泣かせるところには、連れて行かない」


 はっきりと言い切る声に、胸がぎゅっと締めつけられる。


 殿下は、力なく笑った。


「……そうか。そうだな。私は、リアナを何度も泣かせた」


「そうですね。わりと、たくさん」


「すまなかった」


 王太子が、村の小さなパン屋の中で、深々と頭を下げる。


「謝罪は受け取ります」


 わたしは静かに言う。


「でも、わたしは戻りません。戻りたくありません。ここが、わたしの居場所ですから」


「……わかった」


 殿下はゆっくりと顔を上げる。


「最後に。パンをもらえるだろうか」


「あら、珍しいご注文ですね」


「王都へ戻る騎士たちに、持たせたい。彼らも疲れている。せめて、少しでも休ませてやりたい」


 それを聞いて、わたしは小さく笑った。


「では、身体の疲れを取るパンと、気持ちが少し軽くなるパンをお包みしましょう」


 裏の棚から、特別な魔法を少しだけ多く込めたパンを取り出す。


「代金は、きっちりいただきますよ」


「当然だ」


 殿下は懐から財布を取り出し、テーブルに金貨を置いた。


「リアナ。どうか、幸せに」


「はい。殿下も、どうかお元気で」


 王太子一行が去ったあと、店内には静けさが戻った。


「……ふう」


 わたしはカウンターに寄りかかる。


「おつかれ」


 ルークがそっと、わたしの頭に手を置いた。


「怖くなかったか?」


「少しだけ。でも、ルークがいたので」


「そうか」


 大きな手が、やさしく髪を撫でる。シロが足元で丸くなり、「ウォフ」と小さく鳴いた。


「ルーク」


「なんだ」


「さっきの、『俺の女』っていうのは……」


「ああ。嫌だったか」


「いえ。ただ、その。嬉しかったです」


 顔が熱くなるのを感じながら、目をそらす。


「じゃあ、正式にしとくか」


「正式?」


「リアナ・グレイス。いや、リアナ・ひだまりの店主」


「それ、名字じゃないです」


「俺と結婚してくれ」


 あまりにも唐突で、思わず変な声が出た。


「け、けっ……こん……?」


「もちろん、今すぐというわけじゃない。おまえの店が落ち着いて、心の準備ができてからでいい。それまで俺は、毎日ここに通って、パンを食って、おまえを甘やかす」


「十分甘やかされてる気がしますけど」


「まだ足りない。俺の女を甘やかす権利を、誰にも渡す気はない」


 まっすぐな視線に、心臓が忙しく跳ねる。


「……前の婚約者は、わたしの声を聞いてくれませんでした」


「俺は聞く」


「わたしのやりたいことを、笑いました」


「俺は一緒にやる」


「わたしが泣いていても、気づきませんでした」


「俺は、泣く前に抱きしめる」


 いつの間にか、距離が近くなっていた。


 ルークの手が、そっとわたしの頬に触れる。


「おまえが嫌だと言うなら、諦める」


「嫌じゃないです」


 即答だった。


 ルークの目が、驚いたように瞬く。


「わたしも……ルークと一緒にいたいです」


「リアナ」


「パンを食べに来てくれるお客様としても。村を守ってくれる領主としても。……わたしを、『俺の女』って呼んでくれる人としても」


 最後の部分は、恥ずかしくて小声になってしまった。


 ルークは、ふっと笑う。


「じゃあ、決まりだな」


「決まり……?」


「おまえは俺の女で、俺はおまえの男だ」


 シンプルで、でもとても力強い宣言。


 シロが「ウォフ!」と賛成の声を上げる。


「よろしくな、リアナ」


「こちらこそ、よろしくお願いします。ルーク」


 その日から。


 森のパン屋『ひだまり』は、少しだけにぎやかになった。


 ルークが、店の看板を新しくしてくれたり。シロが、子どもたちの遊び相手になったり。


 村の人たちが「おめでとう」と言ってくれて。マリーさんが泣きながら祝福してくれて。


 わたしのスローライフは、ゆっくりと、でも確かに。


 甘やかされながら、甘やかしながら。


 あたたかく、続いていくのだった。


ここまで読んでくださって、ありがとうございます。リアナとルーク、そしてシロの物語、少しでも楽しんでいただけていたらうれしいです。


ざまぁしつつも、のんびりスローライフで、最後はしっかり溺愛……という大好物をぎゅっと詰め込んでみました。

「ここが好きだった」「このシーンが良かった」など、一言でも感想をいただけると、とても励みになります。


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― 新着の感想 ―
殿下が改心してますわね、では特別な力に頼らなくても自力で打開策をしっかり見つけて王都が荒廃することもないかしら。 程よいざまあに残酷すぎないハピエン、素敵ですわあ。 とても面白く拝読いたしました、有難…
ほんわか系のお話でとても 気持ちよく読めました(*´ω`*) もっとシロで出番を!!笑 王都のざまぁその後も気になります。 正義は勝つ♪ ハピエン最強でした(*`ω´)b
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