婚約破棄された伯爵令嬢ですが、森でパン屋を開いたら辺境伯に溺愛されました 〜悪女呼ばわりした元婚約者よ、助けを求められてももう遅い〜
婚約破棄を言い渡されたのは、王城の大広間のど真ん中だった。
「伯爵令嬢リアナ・グレイス。おまえとの婚約を、ここに破棄する!」
玉座の前で、金髪碧眼の王太子アルベルト殿下が高らかに宣言した。
ざわめく貴族たち。床に響く靴音。わたしの心だけが、不思議なほど静かだった。
「理由を、おうかがいしても?」
わたしが尋ねると、殿下の隣に立っていた黒髪の子爵令嬢セシリアが、勝ち誇ったように笑った。
「決まっているだろう。おまえがセシリアをいじめたからだ。おまえのような悪女を、未来の王妃にするわけにはいかない」
「そうですわ、殿下。リアナ様は、わたくしのドレスを汚したり、お茶会から締め出したり……本当にひどい方なのです」
ああ。出た。よくあるパターン。
心の中で、わたしはため息をつく。
前世、日本で残業だらけの社畜OLをしていたわたしは、馬車の事故であっさり人生を終え、この異世界へと転生した。転生先は伯爵家の一人娘で、ついでに王太子の許嫁。
けれど、転生した直後からわたしは決めていた。
ぜったい前に出過ぎない。
目立たない。
静かに生きる。
だから、セシリアに嫉妬していじめた? ないない。忙しい社会人をなめないでほしい。無駄なことにエネルギー使えるほど、人生長くない。
「証拠は、ございますか?」
わたしが静かに言うと、殿下は露骨に眉をひそめた。
「証拠など、セシリアが泣いていることがすべてだ!」
「まあ殿下。恥ずかしいですわ」
セシリアが真っ赤な顔をして殿下の腕にしがみつく。
……はいはい。
「分かりました。では、婚約破棄はお受けいたします」
わたしがあっさり頷くと、大広間の空気が一瞬止まった。
「え……?」
「ただし。グレイス伯爵家はこれまで、王家の医療と薬学を一手に担って参りましたので、今後はその役割からも退かせていただきます」
わたしは淡々と続ける。
「王城への薬草の供給、治癒魔法士の派遣、王立病院への資金。すべて、本日をもって打ち切りとさせてくださいませ。これは父の許可も得ております」
「な……!」
ざわ、と今度はさっきより大きなざわめきが起きた。
当然だ。グレイス家は、この国で唯一の高位治癒魔法の一族。王家は代々、わたしたちの力に頼ってきた。
「リアナ、それは脅しか!」
「いいえ。悪女には関わらない方がよろしいでしょう? 王家のためを思っての判断ですわ。あとはセシリア様の献身で、どうにかなさってくださいませ」
皮肉を込めて微笑むと、セシリアの顔が一瞬ひきつった。
「では、失礼いたします。今日限りで王都を離れますので」
わたしは深く一礼し、そのままくるりと背を向けた。
二度と、ここには戻らない。
* * *
「……というわけで、お嬢。ほんとに行っちまうんで?」
ガタゴトと揺れる荷馬車の上で、馬車屋のおじさんがこちらを心配そうに見た。
「はい。前から決めていたことなので」
わたしは小さな革の鞄を抱きしめる。中身は必要最低限の服と、研究ノートと、こっそり貯めていた貯金。それから、前世の記憶を元に書き起こした、パンとお菓子のレシピ。
目指すは王都から遠く離れた、国境近くの森の村。
「森の端っこの、あの村は静かでいいと聞きました。畑も借りられるそうですし」
「まあ、たしかにのんびりしたとこだが……お嬢みたいなお上品なお方が行く場所じゃあ……」
「もう、お嬢ではありませんよ。ただのリアナです」
わたしが笑うと、おじさんは頭をかいた。
「へいへい。リアナ嬢ちゃんねえ。……何かあったら、王都に戻るって選択肢も、忘れないでおきなよ」
「その頃には、戻れって言われても戻れないと思いますよ」
だって、きっと。
ざまぁな結果になっているから。
* * *
森の村は、想像以上に静かで平和だった。
木造の小さな家。裏には空き地と、少しだけ開拓された畑。周りは緑の海みたいな森。
「ここが……今日からのわたしの家」
胸いっぱいに深呼吸する。湿った土の匂いと、木々の香り。王都の石畳にはなかった空気だ。
「まずは畑をどうにかしないと」
わたしは袖をまくり上げる。
伯爵令嬢? 関係ない。前世でブラック企業にいたおかげで、根性ならある。デスクワークだけじゃなく、力仕事もやらされたし。
土を掘り返していると、ふいに背後の茂みがガサガサと揺れた。
「……!」
慌てて振り向くと、そこには。
大きな白い狼がいた。
人間の腰くらいまである、もふもふの大きな身体。金色に光る瞳。じっと、こちらを見ている。
「あ、あの。こんにちは?」
とりあえず挨拶してみる。
白狼は首をかしげた。
「もしかして……この辺りの主さんとかですか?」
「……」
白狼は、ゆっくりと近づいてくる。
噛まれたらどうしよう。いや、ここで恐怖に負けてはいけない。動物は、目をそらしたら負け。
わたしはそっと手を差し出した。
「突然来てごめんなさいね。今日から、ここで暮らすリアナです。どうぞ、よろしくお願いします」
白狼の鼻先が、わたしの手に触れる。ひんやりしてる。
くんくん、と匂いを嗅いだあと、ぺろりと舐められた。
「……許可、いただけました?」
そう尋ねると、白狼は一度だけ「ウォフ」と鳴いた。
「よかった。じゃあ、仲良くしてくださいね」
緊張が解けて、へなへなと笑う。
その時だった。
「おい、そこの白バカ。人の畑で勝手に縄張り確認してるんじゃない」
低い男の声がして、森の奥から人影が現れた。
長い銀髪をひとつに束ねた青年。鋭い灰色の瞳に、無精ひげ。黒いコートに革のブーツ。背には大きな剣。
いかにも、森の奥にいそうな危険人物、なのに。
なぜか、不思議と怖くなかった。
「すまない。うちの狼が驚かせた」
青年は白狼の頭を軽くはたきながら、わたしに近づいてくる。
「い、いえ。むしろ、歓迎してもらえたみたいで」
「おまえ、ここに新しく入ったっていう……」
青年はじろりとわたしを見た。観察されている気がして、少し背筋を伸ばす。
「リアナ・グレイスです。今日から、あの家で暮らします」
「グレイス? 王都の?」
「いえ、元・グレイスです」
そう言うと、青年は片眉を上げた。
「……なるほどな。訳ありって顔だ」
「そちらこそ、訳ありな感じですけど」
「俺はルーク。この村を見張ってる、なんちゃって領主だ」
「なんちゃって領主」
「ああ。一応この辺一帯はうちの領地だが、面倒くさくてな。村長と狼に任せてる」
ひどい領主だ。
思わず吹き出すと、ルークは少しだけ目を丸くした。
「笑うのか」
「だって、領主がそんなこと言うなんて思わなくて」
「まあ、領主と言っても辺境だ。金も権力も大したことはない」
肩をすくめるルーク。その隣で、白狼が「ウォフ」と鳴いた。
「この子は、お名前は?」
「この『子』は村の守り神だ。本名は長すぎて人間には発音できんから、ここではシロで通してる」
「シロ。かわいいですね」
わたしがシロの頭を撫でると、ふわふわの毛が指に絡む。気持ちいい。
「おまえ、シロを怖がらないのか」
「はい。前から、動物は好きで。あと……」
「あと?」
「ここでスローライフを始めるって決めたばかりなのに、最初の訪問者がこんなにかわいいなんて、幸先がいいなと思って」
くすりと笑うと、ルークが小さく息を飲んだ気がした。
「……おもしろい女だな」
「褒め言葉ということで、受け取ります」
「そうしろ」
短く笑ったルークの顔は、さっきまでの危険人物という印象から一転して、少しだけ柔らかく見えた。
「で、おまえ。ここで何をするつもりだ?」
「パン屋を、したいなと思っているんです」
「パン屋?」
「はい。畑で小麦と、野菜と、ハーブを育てて。森で採れる木の実や果物も使って。村のみなさんに、ゆっくり食べてもらえるパンとお菓子を作りたいんです」
前世からの、小さな夢。
仕事帰り、疲れた身体を引きずりながら立ち寄る、あたたかいパン屋。レジの横に、小さなイートインスペース。コーヒーと焼きたてパンの香り。
そんな店を、自分でもいつか、と。
ブラック企業に捕まらなければ、きっと挑戦していたかもしれない。
「……いい顔するな」
ルークがぽつりとつぶやく。
「え?」
「パンの話をするときのおまえの顔だ。さっきまでの、王都の貴族っぽい仮面が全部はがれてる」
「か、仮面って」
「褒めてる。ここの連中は、そういう顔をするやつの作るものが好きだ」
ルークはシロの頭をぽん、と叩いた。
「シロ。こいつを、ちゃんと守れ」
「ウォフ!」
「あの、シロに任せるんですか」
「俺も見るさ。ただ、俺は領主だからな。仕事をしているふりくらいはしないといけない」
「ふりなんですか」
「……おい。そこは突っ込むな」
気づけば、笑い声が森に溶けていく。
王城では、こんなふうに笑ったことはなかった。
* * *
「いらっしゃいませ。森のパン屋『ひだまり』へようこそ」
あれから数ヶ月。
わたしの店は、村の小さな目抜き通りにひっそりと佇んでいる。
焼きたてのパンの香り。木のカウンター。窓際の、2人掛けの丸テーブルが3つ。壁には、森で拾った小さな木の実や葉っぱを飾ったリース。
「リアナちゃん、今日もいい匂いだねえ」
「おはようございます、マリーさん。いつものハーブパンでいいですか?」
「そうそう。あと、孫への甘いパンを2つ頼むよ」
「では、ハチミツミルクパンがおすすめです」
会話をしながら、パンを袋に詰める。
「ルーク様は、もう来てるのかい?」
「いえ、まだですけど。きっと、さっきまで寝てたんだと思います」
「あの人は、ほんとリアナちゃんの店に入り浸りだからねえ。領主の館より、こっちの方が長くいるんじゃないかい」
「さすがに、それは……あるかもしれません」
苦笑していると、ドアのベルがカラン、と鳴った。
「噂をすれば、ですね」
「おはよう、リアナ」
銀髪を無造作に束ねたルークが、いつものように眠そうな顔で入ってくる。
「おはようございます、ルーク様」
「様はやめろと言ってるだろうが」
「では、ルーク。コーヒーと、今日のパンはどうしますか?」
「いつものやつと、おまえのおすすめを1つ」
「いつものやつが多すぎて分かりません」
そう言うと、マリーさんがくすくす笑った。
「ほんとに仲がいいねえ。じゃあ、わたしはこれで。また明日来るよ」
「はい。またお待ちしてます」
マリーさんを見送ってから、わたしはカウンター越しにルークを見る。
「今日のおすすめは、森キノコのクリームパンです。キノコはシロが見つけてきてくれました」
「ウォフ!」
いつの間にか足元にいたシロが、自慢げに尻尾を振る。
「シロ、店の中では静かにしててね。パンが落ちちゃうから」
「……ウォフ」
しょんぼりするシロの頭を撫でながら、わたしはパンを皿に乗せ、コーヒーを淹れる。
「はい、どうぞ。ルーク席にお持ちしますね」
「だから、その名前やめろ」
「常連さんで、いつも同じ席に座ってる人の名前がついてるんですよ」
「俺しかいないだろうが」
「そうとも言います」
笑いながら、窓際の席にパンとコーヒーを置く。
ルークはパンにかぶりつき、目を細めた。
「……うまい」
「よかった」
その一言を聞くために、毎日がんばっていると言ってもいいくらいだ。
「しかし、おまえは本当に器用だな。パンに、魔法を練り込むなんて普通はしない」
「ただの趣味みたいなものですよ。美味しくて、ちょっとだけ身体にもいいパンって、素敵だと思いませんか?」
「このクリーム、身体があたたかくなる。治癒魔法の亜種か?」
「そうですね。怪我を完全に治せるほどではありませんが、疲れが取れやすくなるように調整してあります」
元・王家付き治癒魔法士の本領発揮、というやつだ。
ルークはカップを口元に運びながら、じっとわたしを見た。
「なにか、変なものついてます?」
「いや。こうしていると、本当にただのパン屋なんだがな」
「ただのパン屋です」
「だが、おまえが本気を出せば、この国の半分は簡単に動かせるだろう」
「だから、その辺を全部捨ててここに来たんです」
わたしはにこりと笑う。
「ルークだって、本気を出せば、王都の貴族たちが震え上がることくらい知ってますよ」
「……村のパン屋に、領主の正体を見抜かれたな」
「最初からバレバレでした。シロと一緒にいる時点で」
シロが「ウォフ」と鳴いて、尻尾を振る。
ルークは少しだけ口元を緩めて、手を伸ばした。
「リアナ」
「はい?」
「なにか困ったことがあったら、ぜったいに俺を呼べ」
「今のところ、特には」
「畑で土が硬かったら呼べ。荷物が重かったら呼べ。雨漏りしたら呼べ。虫が出ても呼べ」
「それ、ほとんど何も困る前に解決しません?」
「いいんだ。おまえが呼ぶ口実が、いくら増えても損はない」
さらりと言われて、思わず言葉に詰まる。
「……それは」
「俺は、おまえに甘やかされているからな。せめて日常の雑事くらいは、俺に甘えろ」
真っ直ぐな灰色の瞳が、こちらを射抜く。
ああ、この人は本当にずるい。
そんな顔で、そんな声で、そんなことを言わないでほしい。
「じゃあ……今、1つだけ甘えてもいいですか?」
「なんでも言え」
「あとで、屋根裏の荷物を整理するので。はしごを押さえててください」
「任せろ」
「それと……」
「まだあるのか」
「夜、少し時間をください。新しいパンの試食会をしたいので」
「それは甘えじゃない。俺へのご褒美だ」
即答されて、思わず笑ってしまう。
こんな日々が、いつまでも続けばいい。
そう思った、その時だった。
* * *
「リアナ様は、こちらにいらっしゃると聞いたのだが!」
村の入り口が騒がしくなったと思ったら、昼過ぎ。
店のドアが乱暴に開かれた。
カラン、ガンッ、とベルが悲鳴を上げる。
「いらっしゃいま……せ?」
振り返ると、そこには見慣れた金髪碧眼の男が立っていた。
豪奢なマントは泥で汚れ、頬はげっそりとこけている。後ろには、慌てた様子の騎士たち。
「リアナ……! よかった、生きていたか!」
アルベルト殿下。
元・婚約者。
わたしは一瞬だけ言葉を失い、すぐに微笑みを浮かべた。
「いらっしゃいませ。森のパン屋『ひだまり』へようこそ。ご注文は?」
「リアナ、そんなことを言っている場合ではない! 王都が、大変なことになっているのだ!」
「そうですか。それは大変ですね。うちのおすすめは、ハーブパンと……」
「リアナ!」
殿下がカウンターに詰め寄ろうとしたその時。
「そこまでだ」
低い声が店内に響いた。
ルークが立ち上がり、殿下とわたしの間にすっと割り込む。
「ここは俺の村で、俺の贔屓の店だ。勝手に騒ぐなら、森の外まで引きずり出すぞ、王子様」
「き、貴様は……辺境伯ルーク・ヴァレンシア!」
殿下の顔色が変わる。
そう。ルークは「なんちゃって領主」なんかじゃない。
この国を北と西から守る、巨大な辺境領の主。王家に次ぐ力を持つ、実力者だ。
シロがルークの横で「ウォフ」と低く唸る。
「リアナ。こいつは、おまえの知り合いか?」
「はい。昔、お世話になっていた方です。今はお客様です」
「そうか」
ルークは一度だけ頷き、殿下をじっと見据えた。
「用件は?」
「用件など、1つしかない! リアナ、戻ってきてくれ!」
殿下は勢いよく叫んだ。
「王都は病で溢れている! 疫病のようなものだが、どの治癒魔法も効かない! グレイス家は治癒魔法士の派遣を拒んだ! 残っているのは、おまえだけだ!」
……ああ。
やっぱり、そうなったか。
王都からわたしを追い出した時点で、こうなるのは目に見えていた。
グレイス家の高位治癒魔法は、家族全員ですこしずつ役割を分けていた。わたしは特に、広範囲の病を抑える魔法が得意だった。
そのわたしを悪女として切り捨てれば、そうなる。
「セシリア様は、どうされたのですか?」
わたしが静かに尋ねると、殿下の顔がひきつった。
「セシリアは……真っ先に病に倒れた。おまえの名を呼びながら、苦しんでいる……! リアナ、頼む。彼女を救ってくれ!」
「わたしをいじめた悪女だと、おっしゃっていた方ですよね?」
さらりと言うと、殿下は言葉を詰まらせた。
「そ、それは……私が愚かだった! セシリアはおまえのことを羨んでいたのだと、今はわかる。すべては愛ゆえの、歪んだ行いだったのだ!」
「なるほど。では、その愛でなんとかされては?」
「リアナ!」
殿下は膝をついた。
店の床に、王太子がひざまずいている光景は、さすがにシュールだ。
「頼む。国のためにも、おまえの力が必要だ。婚約破棄を撤回してもいい。王妃の座も、すぐに取り戻してやる!」
「……あの」
わたしは、ゆっくりと息を吸った。
「今さら、王妃の座なんていりませんよ」
「なに……?」
「わたしはもう、自分の店があって。守りたい村があって。大切な、お客様たちがいるんです」
ルークが、わずかに息を呑む気配がした。
「ここでパンを焼きながら、静かに暮らしていくことが、わたしの幸せです」
「だが、おまえは……王妃になれるのだぞ!」
「王妃になったら、こんなふうにお客様と他愛もない話をしながらパンを売れますか?」
「それは……」
「シロと一緒に、森で木の実を拾えますか? ルークとコーヒーを飲みながら、新しいパンの話ができますか?」
殿下は何も言えなくなっていた。
「それに、アルベルト殿下」
わたしは少しだけ声を落とす。
「わたしを悪女呼ばわりし、婚約を派手に破棄したのは、そちらです。グレイス家を追い出したのも。『王家はおまえの力など必要ない』とおっしゃったのも、殿下ですよ」
「そ、それは……」
「だから、これはもう取り返せません。わたしの人生も、わたしの心も」
静かに、でもはっきりと告げる。
「ですから、申し訳ありませんが、王都へ戻るつもりはありません」
「リアナ……!」
殿下が手を伸ばしかけた瞬間。
ガシ、とその手首を掴む影があった。
「聞こえなかったのか、王子様」
ルークの声は氷のように冷たかった。
「リアナは、嫌だと言った」
「貴様、王家に逆らう気か!」
「ここは王都じゃない。辺境だ。俺の領地で、俺の店で、俺の女に無理を強いるなら――」
空気が、ぴんと張りつめる。
ルークの灰色の瞳が、薄く光った。
「戦争になるが?」
ぞくり、と背筋が冷える。
殿下だけじゃない。後ろに控えていた騎士たちも、顔を真っ青にして固まっていた。
「お、おまえの女、だと……?」
殿下がかすれた声で繰り返す。
「そうだ」
ルークは、迷いなく言い切った。
「リアナは俺の大切な女だ。誰かに都合よく振り回されるために、この森に来たんじゃない」
「ル、ルーク……?」
わたしが思わず名前を呼ぶと、ルークはちらりとこちらを見た。
「違うのか?」
「え、えっと。それは、その……」
「違わないなら、そのままでいい」
ルークは殿下の手を離し、片手をわたしに向けて差し出す。
「リアナ。おまえはどうしたい?」
その言葉に、胸の奥がじんわりとあたたかくなる。
王城では、一度も聞かれなかった言葉。
わたしが、どうしたいのか。
わたしは、その手をぎゅっと握った。
「わたしは、ここにいたいです」
「ここ、とは?」
「森のパン屋『ひだまり』で、ルークと、シロと、村のみんなと。一緒に笑っていたいです」
ルークの口元が、ふっと緩んだ。
「聞いたか。王子様」
「お、俺は……」
「そっちには、そっちに守るべき国民がいる。こっちには、俺が守るべきものがある」
ルークは淡々と言う。
「治癒魔法が必要なら、王都にいる他の治癒魔法士を総動員しろ。金が足りないなら、王家の宝物庫を片っ端から開けろ。それでも足りないなら、他国に頭を下げろ」
「だが、おまえなら……」
「俺は。リアナを泣かせるところには、連れて行かない」
はっきりと言い切る声に、胸がぎゅっと締めつけられる。
殿下は、力なく笑った。
「……そうか。そうだな。私は、リアナを何度も泣かせた」
「そうですね。わりと、たくさん」
「すまなかった」
王太子が、村の小さなパン屋の中で、深々と頭を下げる。
「謝罪は受け取ります」
わたしは静かに言う。
「でも、わたしは戻りません。戻りたくありません。ここが、わたしの居場所ですから」
「……わかった」
殿下はゆっくりと顔を上げる。
「最後に。パンをもらえるだろうか」
「あら、珍しいご注文ですね」
「王都へ戻る騎士たちに、持たせたい。彼らも疲れている。せめて、少しでも休ませてやりたい」
それを聞いて、わたしは小さく笑った。
「では、身体の疲れを取るパンと、気持ちが少し軽くなるパンをお包みしましょう」
裏の棚から、特別な魔法を少しだけ多く込めたパンを取り出す。
「代金は、きっちりいただきますよ」
「当然だ」
殿下は懐から財布を取り出し、テーブルに金貨を置いた。
「リアナ。どうか、幸せに」
「はい。殿下も、どうかお元気で」
王太子一行が去ったあと、店内には静けさが戻った。
「……ふう」
わたしはカウンターに寄りかかる。
「おつかれ」
ルークがそっと、わたしの頭に手を置いた。
「怖くなかったか?」
「少しだけ。でも、ルークがいたので」
「そうか」
大きな手が、やさしく髪を撫でる。シロが足元で丸くなり、「ウォフ」と小さく鳴いた。
「ルーク」
「なんだ」
「さっきの、『俺の女』っていうのは……」
「ああ。嫌だったか」
「いえ。ただ、その。嬉しかったです」
顔が熱くなるのを感じながら、目をそらす。
「じゃあ、正式にしとくか」
「正式?」
「リアナ・グレイス。いや、リアナ・ひだまりの店主」
「それ、名字じゃないです」
「俺と結婚してくれ」
あまりにも唐突で、思わず変な声が出た。
「け、けっ……こん……?」
「もちろん、今すぐというわけじゃない。おまえの店が落ち着いて、心の準備ができてからでいい。それまで俺は、毎日ここに通って、パンを食って、おまえを甘やかす」
「十分甘やかされてる気がしますけど」
「まだ足りない。俺の女を甘やかす権利を、誰にも渡す気はない」
まっすぐな視線に、心臓が忙しく跳ねる。
「……前の婚約者は、わたしの声を聞いてくれませんでした」
「俺は聞く」
「わたしのやりたいことを、笑いました」
「俺は一緒にやる」
「わたしが泣いていても、気づきませんでした」
「俺は、泣く前に抱きしめる」
いつの間にか、距離が近くなっていた。
ルークの手が、そっとわたしの頬に触れる。
「おまえが嫌だと言うなら、諦める」
「嫌じゃないです」
即答だった。
ルークの目が、驚いたように瞬く。
「わたしも……ルークと一緒にいたいです」
「リアナ」
「パンを食べに来てくれるお客様としても。村を守ってくれる領主としても。……わたしを、『俺の女』って呼んでくれる人としても」
最後の部分は、恥ずかしくて小声になってしまった。
ルークは、ふっと笑う。
「じゃあ、決まりだな」
「決まり……?」
「おまえは俺の女で、俺はおまえの男だ」
シンプルで、でもとても力強い宣言。
シロが「ウォフ!」と賛成の声を上げる。
「よろしくな、リアナ」
「こちらこそ、よろしくお願いします。ルーク」
その日から。
森のパン屋『ひだまり』は、少しだけにぎやかになった。
ルークが、店の看板を新しくしてくれたり。シロが、子どもたちの遊び相手になったり。
村の人たちが「おめでとう」と言ってくれて。マリーさんが泣きながら祝福してくれて。
わたしのスローライフは、ゆっくりと、でも確かに。
甘やかされながら、甘やかしながら。
あたたかく、続いていくのだった。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。リアナとルーク、そしてシロの物語、少しでも楽しんでいただけていたらうれしいです。
ざまぁしつつも、のんびりスローライフで、最後はしっかり溺愛……という大好物をぎゅっと詰め込んでみました。
「ここが好きだった」「このシーンが良かった」など、一言でも感想をいただけると、とても励みになります。
もし
・続きや番外編も読んでみたい
・リアナとルークの新婚スローライフも気になる
・シロ視点も見てみたい
と少しでも思っていただけましたら、ページ下の評価やブックマークをぽちっとしていただけると、とてもありがたいです。
評価やブックマークが増えると、作品を見つけてもらいやすくなって、今後の励みになります。
「面白かったよ」の代わりに、☆やブクマで応援してもらえると、作者が全力で喜びます。
ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
またどこかの作品でお会いできたら、とてもうれしいです。




