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9.イヴェット


 ヴィルジニ・ベルトラン公爵令嬢の噂が広まっている。

 微妙な関係である隣国との政略のため、婚約を結ばされそれを勝手な理由で解消された悲劇の令嬢。噂をする者はおおむね同情的にその名を語った。

 帰国して公爵邸に戻られているらしいけれど、年上でずっと隣国に行っていた令嬢と私に面識はない。そうでなくても貴族の頂点と底辺の間柄では、会う機会はまずなかっただろうと思う。

 話を聞いても私には他人事としか思えずにいたけれど、婚約解消の相手が隣国の第二王子というのが気になっていた。

 (戦争が起こるきっかけ…ではないわよね。婚約者同士の諍いで国を巻き込むなんてあり得ないし。でも無関係ではないのかも…)

 小説に公爵令嬢のエピソードがあったかどうか、考えても思い出せずにいた。さらっと説明されていたのかもしれないけれど、イヴェットとセヴランに直接関わらないことまではさすがに覚えていない。

 学年が上がり、セヴランは最上級生となって忙しいらしく会う機会が減っていた。寂しく思う反面、セヴランに対する自分の気持ちが揺れているせいで不満は感じない。

 (物語を改変したらキャラも変わるのは当然だけど…結局自分に都合よく考えてたのよね。“毒舌王子が溺愛系に”とか“クールな貴公子がワンコ化”みたいな、方向は変わっても悪くはならないのが定番だったから…)

 ──定番?

 それは小説やマンガでの話だ。あんなにここは小説の中ではなく、誰もが自由に生きて考える世界だと自分に言い聞かせたのに、やっぱり私はここを物語の世界だとどこかで思っていたのだ。

 セヴランの今を作ったのは私だ。私が夫人を助けたことで甘やかされ、私自身も増長させ続けた。責任は私にあるのだから、変わったことを嘆く資格はない。

 ならば最初に決めたとおりセヴランの幸せを第一に、望んでくれるならこの先も一緒にいようと思う。とんでもない悪人になったわけでもなく、どうしようもない失態も犯してはいない。身分が高く外見の優れた令息ならあの自信も、婚姻相手を秤にかけることも許される範囲内なのだろう。

 環境と生来の気質、どちらがどのくらいの割合で人格を作るのかはわからない。自信過剰に育てられても傲慢な振る舞いをすることはなく温厚で優しい、それがセヴランのもともとの善性だと信じるしかなかった。

 (まあ私の扱いに関しては、実質見下してるといってもいいかもしれないけど…それもまた私の責任だから)

 …大好きな推しだったはずなのに、責任感から支えようと考えていることが悲しかった。


 侯爵家のタウンハウスに招かれたのは久しぶりだった。休日の午後に訪れた私をセヴランはにこやかに迎えてくれたけれど、どことなく後ろめたさを覚えているような態度に嫌な予感はしていた。

 そしてお茶の席には珍しく夫人も待っていた。「イヴェットちゃん、久しぶりね。あなたの好きなお菓子をたくさん用意してあるわ」

 …我ながらぎこちない挨拶の後、気づまりなお茶会は始まった。

 「──両国の橋渡しにと、大役を任されて慣れない隣国で何年も努力して、その挙句屈辱的な扱いを受けて帰国されたのよ。なんてお気の毒なのでしょう…イヴェットちゃんもそう思うでしょう?」

 「帰国後もしばらくは塞ぎこんでおられたそうだけど、公爵令嬢としていつまでもそれではいけないと思い少しずつ社交を始めることにされたそうだ。

 手始めとして公爵邸でお茶会が開かれ、ぼくも招待していただいて…隣国に渡られる前は面識がなかったけど、噂どおり美しく誇り高い令嬢だったよ」

 セヴランも夫人も、ベルトラン公爵令嬢の話ばかりだ。はじめは世間話のように語っていたのに、どんどん熱のこもった話しぶりになっていく。

 公爵家のお茶会は、高位貴族の中から厳選された家のみが招待されたのだろう。それ自体は当然だったけれど、次男のセヴランが招かれたということは、招待客には共通点がありそうだ。

 (婚約がなくなったヴィルジニ様に、新しい婚約者を見つけるため…家柄の良い令息を集めたんじゃないかしら)

 クライン侯爵家なら家格として問題ない。嫡男のヴァンサンは昨年婚約がまとまったところだし、そもそも婿入りが不可能だ。

 ヴィルジニはひとり娘だったため、隣国に嫁ぐことが決まった時点で公爵家は養子を迎えた。分家の出でヴィルジニよりひとつ年上だというその令息は、ヴィルジニが戻ってくることになり公爵家の後継から外れることになったという。理不尽な仕打ちにも思えるけれど、もともと公爵家が養子に選ぶほど優秀な令息だ。王宮から声がかかり文官として勤めることが決まっているらしい。

 そんな話に機械的に相槌を打っているだけなのに、喉が貼りつくような感覚をおぼえてお茶をひと口飲むが味がしない。用意してくれた可愛らしいお菓子はひとつも手に取っていなかった。

 「国家間の犠牲になったヴィルジニ様には、隣国の身勝手な王子なんかよりふさわしい相手がいるとベルトラン公爵はお考えになったの。ヴィルジニ様に寄り添い、公爵家をともに守っていける相手が」

 「…それで、ぼくを選んでくださったんだ!イヴェットが言ってくれていたとおりだね。ぼくには価値がある、それを公爵様も認めてくれたんだよ。ヴィルジニ嬢もぼくを気に入ってくれた」

 「いくら家格や年齢、容姿が釣り合っていても、既に婚約が決まっていたらさすがに横やりは入れられないとおっしゃっていたけど…幸いセヴランに正式な婚約者はいないから」

 頬を上気させて話し続けていた夫人は、最後の言葉で勢いを失速させる。

 (…一応、私への罪悪感はあるのね)

 ショックを受けていないわけがない。それなのにどこか冷静にふたりを観察している自分がいる。

 夫人にとっては狙い通り…私との婚約を保留にしておいて良縁を待ち、その甲斐あって最高位の公爵令嬢が現れたのだ。喜びを隠せないのも無理はないと思う。

 だけどセヴランまでが、こんなに晴れ晴れとした顔で報告してくるなんて。

 「イヴェットはずっと、ぼくの幸せが自分の幸せだと言ってくれてたよね。祝福してくれるだろう?これからはきみも、きみの幸せを探してくれていいんだ。ぼくも心から、幼馴染みの幸福を祈らせてもらうよ」

 (…そう言ったのは確かに私だし、セヴランは本気でそう思ってるのね…)

 権力も財力も桁外れである公爵家の、美しい令嬢に望まれて最上の幸せが約束された。 

 “セヴランが幸せになれば私も幸せ”なのだから、文句はないはずだということか。

 出迎えた時のセヴランの様子は、裏切ったことによる後ろめたさじゃなかった。自分を熱愛している幼馴染みが、振られたことで取り乱さないか不安に…面倒に思っていただけではないだろうか。夫人とは違って、負い目を感じているように見えない。

 ──心の片隅に生まれた影は、今ではずいぶん大きく育っていた。

 それが今、途方もない虚しさとなって心を塗りつぶしていくのがわかる。

 「…セヴラン様、おめでとうございます。ベルトラン公爵令嬢様とお幸せに」

 いくらか間をおいて、私は無感動に告げた。


 お茶会の翌週に休暇で男爵領に帰省した私は、両親に淡々と報告を済ませた。

 もともと婚約を保留にされていたことで、両親は思うところがあったようだ。私がセヴランを慕っていたから黙って見守ってくれていたけれど、結局待たせるだけ待たせて捨てられたことになる私を心配し、怒りを隠さなかった。

 それでも身分差はどうしようもない。クライン侯爵家がベルトラン公爵家からの申し出を断れないように。

 (…まあ、断るどころか飛びついていたけどね)

 数日後、男爵邸にクライン侯爵が訪れたのには驚いた。ヴァンサンの名で先触れがあり、出迎えたら侯爵も同行していたのだ。

 「イヴェット嬢、このたびは本当に申し訳ないことをした」

 「男爵も夫人も、令嬢を傷付けてしまったことを心からお詫びする」

 ふたりは謝罪に訪れたのだった。お茶会のことを夫人から聞いて叱ってくれたという。仮婚約のまま手元に留め期待させたことも、それを解消するのに自ら訪ねることもせず呼びつけ、一方的に話をした無神経さも。

 夫人はあの時私に話をするためタウンハウスに来ていて、今もセヴランとあちらに滞在しているそうだ。王都にいる公爵やヴィルジニとの親交を深める目的もあるのかもしれない。

 ふたりにも改めて謝罪させると言われたが、私も両親も遠慮した。悲しいけれどセヴランも夫人も本心から謝ってくれる気がしなかったし、侯爵と次期侯爵が揃って謝罪に来てくれただけでもう充分だった。


 (ここから始まったのよね…)

 あの日、セヴランを助けた川辺に久しぶりにやって来た。ドーラとクルトがついて来てくれているのもあの日と同じだった。

 私はぼんやりと水際に近付き、平らな岩に腰掛けた。ハンカチも敷かず…それ以前に岩に腰掛けるなんて令嬢としてあり得ないかもしれないけれど、ふたりは何も言わずいたわるように見守ってくれている。

 ──夫人の命を救ったことが、間違いだったの?

 亡くなるはずだった夫人を生かした。セヴランの運命と人格形成の根幹となっていた存在。定まった出来事を、私の感情だけでねじ曲げてしまった。

 物語の正しい流れを私が堰き止め、支流を作ったのだ。

 水面に目を向ける。セヴランを助けた地点から、川が分岐しているところを想像した。支流はどんどん本来の流れから外れていき、そのままかけ離れた方向へ進み、行き着く先もわからないまま飲み込まれていく私…

 (…それでも!知っていて見殺しになんてできなかった!

 夫人が亡くなるのを確認して、家族に虐待されるセヴランを数年放置しておいて…子犬が流されてくるのを待ち構えて、素知らぬふりで出会いを果たす?

 そんな残酷なことをしておいて、どんな顔でセヴランに会えるっていうの?)

 たとえあの時この結末を知っていたとしても、夫人を助けないという選択肢はなかった。

 …私は結局、ここが物語だという意識から離れられなかった。悲しいことだけを避けて、それでもセヴランと結ばれる結末は変わらないとどこかで信じていたのだ。

 それが叶わなかった。悲しみはもちろんある。

 なのにセヴランに別れを告げられて…私はどこかホッとしていた。

 自己肯定感が高くチヤホヤされることを当然と思い、母親の意向を優先し続けるセヴラン。

 そのセヴランを何より優先する私を、彼は気に入っていた。喧嘩などしたこともない、というか喧嘩のしようもない関係。仮婚約までいっても、名前の呼び捨てや砕けた言葉遣いを提案されたこともなかった。

 (身分だけじゃなく、同等に見られていないのはわかってた。もしも私がセヴランに逆らったり意見していたら、裏切られたような顔をしたでしょうね。

 そんな歪な関係にしてしまったのは私だけど…結婚したらずっとそれが続くと思うと憂鬱で…そんなことを考える自分が今度は嫌になって、もう苦しくてたまらなかった)

 こうして結果が出たことにホッとしながら、それでも虚しさは消えない。そんな私の様子に入水の心配でもしているのか、ベルタは背後に立ち、クルトは川下側にさりげなく回り込んでいた。

 ──上流から男の子の声がしたのは、そんな時だった。

 「…待てったら!そっちは行っちゃ…」

 セヴランが流された時のことを思い出し、私は弾かれたように立ち上がる。同じことを思ったのか、ドーラとクルトも声の方向を凝視していた。

 だが川面に異変はなく、岸辺に沿って足音が近づいてくる。軽くて小刻みな足音…

 「…犬?」

 姿を現したのは、茶色っぽい色合いの犬だった。物怖じしない性質のようで、私たちの姿を見つけて尻尾をぶんぶん振りながら駆け寄ってくる。

 私に飛びつこうとするのを防ぐため、クルトが慌てて前に出た。

 そのままの勢いで犬はクルトの足元にじゃれつく。ミルクとキャラメルとチョコレートの色でできた三毛猫のような、変わった配色の犬だ。

 前の世界でも三毛の犬はいたけれど、ここまで三毛猫的な配色の犬は見たことがなかった。以前ジャンヌに聞いて、こちらの世界ではまれに存在することを知ったけれど。

 (…セト?私とセヴランが飼うはずだった、セトだわ!)

 あの時子犬だったなら、今ごろはこのくらい大きくなっているはずだ。乱暴に引き離すことができず困っているクルトの後ろから出て、私はしゃがみこんだ。

 セトは目をキラキラさせて私を見る。毛艶がよくコロコロしていて、野良ではなさそうだ。頭を撫でてやると嬉しそうにすり寄って来た。

 「こら、止まれって言っただろ!すみませーん!」

 遅れて走って来たのは十歳くらいの、平民の男の子だった。

 「きみの犬か?」

 クルトの問いにうなずいたその子は、私たちを見てなんとなく身分を察したらしい。顔色を悪くして謝罪を重ねる。

 「すみませ…申し訳、ありませんでした!すぐに連れて帰ります!リュウ、ほらこっちに来い!」

 「いいのよ。かわいい子ね。リュウっていうの?」

 しゃがんだままの私と目線が合い、男の子は緊張しながらはい、と答えた。

 「三年くらい前に、領主様のお屋敷のそばで拾ったんです」

 男の子の来た方角からすると、領主様とはクライン侯爵だろう。やはりこの犬はセトだ。

 元気で人懐っこく育っているのだから、男の子やその家族に可愛がられて幸せに暮らしているのだろう。川に投げ込まれて怖い思いをすることもなく、のびのびと駆け回る日々を送るセト…ではない、リュウ。

 …私が変えた運命の中で、少なくともセトだった子犬は幸せになれたようだ。

 それを知ることができて、私はわずかに救われた気分になった。

読んでいただき、どうもありがとうございました!

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