1.イヴェット
まずは縄跳びから始めることにした。
──物心ついた時点で前世の記憶を持っていた私は、前世の日本で自分が好きだった小説『君に捧ぐリルメラの青』のヒロイン、男爵令嬢イヴェット・ゴーシェに転生したことに早くから気付いていた。
初めて鏡で自分の姿を見た時の衝撃は忘れられない。根元は明るい金髪なのに毛先に近付くにつれてピンクゴールドに変わるグラデーションという、地毛とは思えない不思議な色合いの髪。
(伸ばし続けたらどんどん濃くなって、最後は黒くなるの?…っていう疑問、前世でも浮かんだような…)
と思ったところで『リルメラ』の表紙イラストを思い出した。そこに描かれたイヴェットは、ヒロインとしての差別化なのか確かにこんな特徴的な髪色をしていた。作中でも描写されていたはずだ。我ながら愛らしいと思える顔立ちも、十数年後には間違いなくイラストのように成長すると思えた。
そこから両親やメイドたちの会話に聞き耳を立て、少しずつ情報を集めて確信したのだ。
前世で交通事故死したのは十七歳。知らない子どもをかばって若くして命を落とした私に、神様が同情してこの世界に生まれ変わらせてくれたのかなと思っている。
『リルメラ』は違うけれど、ゲームや小説の世界に転生する話も大好きでたくさん読んでいた。だから内容を覚えてない物語や難易度の高い悪役令嬢じゃなくて、好きな作品で大好きな推しと結ばれるヒロインに転生させてもらえた幸運に感謝が追いつかないくらいだ。
そう、イヴェットと恋をするヒーロー、侯爵家次男のセヴラン・クラインは私の最推し。群青色の髪と翳りをおびた眼差し、美しい外見は女性を惹き付けるものの近付く者を無表情にはねつける。だけど心を開いた相手にはどこまでも優しくて、一途な騎士様なのだ。
ストイックに鍛練を続けた結果王国で並ぶ者なき剣士とうたわれ、隣国の侵攻を防いだ立役者、救国の英雄と称えられる。物語の最後には王太子の信頼を得て近衛騎士となり、将来は騎士団長となることも仄めかされていた。
そんなセヴランに愛されるイヴェットは、お人好しであんまり貴族令嬢らしくなくて、だけどいざという時には芯の強さを見せる純粋で健気な女の子。
傷ついたセヴランに寄り添い、癒し、ライバル令嬢ベルナデッドの存在に悩まされながらも最後は無事に結ばれる正統派ヒロインだ。
そのイヴェットに転生。
あのイヴェットが、私。
…最初にそれに気付いた時に突然庭の端から端まで跳ね回った幼児を、周りは元気なお嬢様だとニコニコ見守ってくれていた。
結ばれることが正規ルートなのだから、このままセヴランと出会うまで普通に過ごしていればいい。ふたりの出会いはセヴラン十四歳、イヴェットが十三歳の時だ。
今の私はまだ五歳。年齢にそぐわない行動や言動に注意しながら、セヴランとの出会いに備えて自分磨きをしながら成長していれば問題ないはずだ。貴族令嬢らしくないというキャラクターは気楽でありがたいけど、未来の近衛騎士団長夫人として知識や所作はきちんと学んでおきたい。
(──本当にそれでいいの?せっかくこんなに早い時点から前世の記憶があるのに。今なら間に合うのに)
…それなのにふと、そう思ってしまったのだ。
セヴランの暗い瞳や周囲に心を許さない態度には理由があった。七歳の時に母親である侯爵夫人が亡くなるのだ…川に落ちたセヴランを助けようとして。
夫人を深く愛していた侯爵とセヴランの兄であるヴァンサンはそれ以来、原因となったセヴランを憎み続けた。存在を認めないかのように無視をして過ごす。たまに口をきけば憎悪と怨嗟の言葉ばかりが投げつけられる。抗えば暴力が振るわれることもあった。
それをイヴェットに語る場面は読んでいて辛かったけれど、セヴラン視点の回想ではさらに酷い仕打ちを受けていたことがわかる。イヴェットがあまり心を痛めないよう、最低限の説明だけで詳細を省いていたのだ。その心遣いに、セヴラン推しの想いはさらに深まったものだ。
そんな悲劇を、今なら未然に防ぐことができる。夫人が亡くなるのは来年のはずなのだから。
幸い事故の起こる日にちはわかっていた。収穫祭の前日と書かれていたからだ。
侯爵は祭事のメイン会場となる、領地の中心にある町へ最終確認に行っていた。兄ヴァンサンも幼いながら、後継として侯爵に同行していて留守だったのだ。
残されたセヴランが拗ねているのを見て、屋敷に残り細部の調整を受け持っていた夫人が提案した。
『セヴラン、お昼は裏の川でピクニックにしましょうか。ふたりだけで』
夫人は下の息子が外を駆け回るのが大好きなことも、屋外での食事を喜ぶことも知っていた。侯爵邸からいくらも離れていない場所であっても、母親を独り占めにできるお出かけが嬉しくてセヴランは夫人の予想通り目を輝かせる。
午後も仕事は山積みだ。昼食のひとときだけでも自分の休息と息子の気分転換にあてるのも良い、と夫人は考えた…考えてしまったのだ。
──それからの一年、私は事故を防ぐため、五歳児にできる限界まで努力をしながら六歳児になった。
ゴーシェ男爵領はクライン侯爵領に隣接しており、だからこそふたりは出会えたわけだが、両家の間に特別な交流はない。爵位の差もあるし、私がいきなり親交を深めてほしいと願っても叶わないだろう。
そのためまずは両親にねだってお出かけを繰り返し、徐々に遠出…それも侯爵領寄りの方向へ誘導していった。小説で後に書かれるエピソードから想像できていたが、問題の川は男爵邸からも近く、男爵領が川下に位置している。
そして事故が起こるのはおそらく、それぞれの領地の端と端だ。
(侯爵領との境目の川辺で『イヴェット、ここ大好き!また来たい!絶対来る!』って騒ぐのは精神年齢的にちょっときつかったなあ…。はっきり言ってなんの変哲もない川辺なわけだし、お父様とお母様がなんで??って顔してたのも当然だよね。でも事故の起きる日に怪しまれずに居合わせるため、いつそこにいてもおかしくない状況にしておきたかったんだもの)
おかげでその後何度も訪れることができ、両親が来られない時でも護衛と侍女が連れてきてくれるようになっていた。そして問題の日も両親は一緒ではなく、それは後に起こることを考えると私にとって好都合だったのだ。
「お嬢様、あまり遠くに行かれませんよう」
…川辺に着いたのは正午より前。クライン親子の昼食が何時だったのかはさすがにわからず、もしも早めだったら間に合わないので念のためこちらも早くから待機だ。
私は花を摘むのに夢中なふりをして、川上へとじりじり移動する。
「あっちにいっぱい咲いてるの!ちょっとだけだから!」
一緒に来た侍女のドーラと護衛のクルトは注意はしてくるものの、いつも付き合ってくれているのでそれほど真剣さはない。これまでここに来るたびに私がおとなしく遊んでいたので、あまり心配することなく見守っているのだ。見守られている私はといえば、せわしなく手を動かしながらも視線は川上に釘付けだ。
…どのくらいの時間が経ったのか。全神経を研ぎ澄ます中、最初に引っかかったのは聴覚だった。
子どもの声がかすかに聞こえた。蛇行している川の先からなので姿は確認できない。
私は我慢できずに摘んでいた花を放り出し、川に沿って駆けだした。
ドーラの慌てた声とクルトの足音が背後から迫ってくる。これで声の正体がセヴランでなければ、知らない子の声がしたから興味をひかれて突き進んでしまったことにしよう。
「いけませんお嬢様、その先は隣の侯爵様の領地…」
クルトが私に追いつき、やんわりと抱え込もうとしたところで、上流から悲鳴があがった。
「男の子が落ちたわ!こっちに流されてくる…クルト、助けてあげて!」
正直言って落ちた瞬間など見えなかったけれど、間違いなく助けるためには早めに心の準備をしてもらわないといけない…実際に助けるのはクルトなのだから。
本当ならセヴランが落ちる前に助けられるのが最善だったけれど、交流もないのに前もって領地に踏み込んで親子を待ち構えているわけにもいかなかった。領地に他の領の者が入ることは特に責められることではないけれど、幼い私に許されているのは男爵領内での行動だけ。両親がここにいたら、もっと手前で止められていたはずだ。
前もって侯爵家の親子に近付く方法がない以上、落ちたところをすぐに助けるのが精一杯だ。だけど幼児の私が自分の手で助けるなんてできない。
この川はそれほど大きくはないけれど、中心は子どもの足が着かないほど深く流れが意外に早い。私も浅瀬に手を入れるくらいしか許してもらえないくらいだ。けれどクルトのように鍛えている大人の男性ならば、子ども一人を助けるのは難しくないだろう。
私の叫んだ言葉で川面を凝視していたクルトは、小さな身体が流れに翻弄されて近付いてくるのを見ると上着を脱ぎ捨てた。追いついてきたドーラに私を託すと川に入っていく。
(あの群青色の髪、やっぱりセヴランだわ!クルトお願い、がんばって!
…やったあ、さすがクルト、難なくセヴランをキャッチ!
彼なら大丈夫とは思ってたけど、危険を冒させることに罪悪感があったのよね。帰ったらお父様にクルトの活躍をしつこいほど聞かせて、ぜひとも褒賞を出してもらわないと…実際侯爵家令息を救ったんだから、それだけの働きはしたわよね)
セヴランを抱き上げるクルトを見て興奮していた私は、一瞬遅れて最重要案件を思い出すと大急ぎで上流に向かって叫んだ。
「男の子は助けましたー!もう大丈夫ですよー!」
初めてセヴランの実物を見たこととその救出を見届けたこと、それで目的を果たした気分になってしまっていた。クルトがここにいなかったとしても、セヴラン本人は助かることがわかっていたのに。
──小説での夫人は自ら川に入ると流される息子に必死で追いつき、川岸に押しやって助け出す。だが貴族女性の服はとにかくたっぷりと布地が使われているもので、デイドレスとはいえ全身が水に浸かってしまえば重みでまともに動けるものではない。
それまでは息子を救いたい一心で信じられないような力を出せたものの、救えたことで気が抜けてしまったのか自身は川から上がってくることができず…夫人は帰らぬ人となってしまうのだ。
…私の叫びはどうやら間に合ったらしかった。クルトがセヴランを抱えて川岸に戻って間もなく、川上から夫人と護衛、侍女らしき人たちが駆けつけてきた。
(そっか…小説を読んでる時は親子ふたりきりのイメージだったけど、男爵家の私にいるくらいだからそりゃ護衛も侍女もいるわよね。クルトみたいに優秀じゃないのかな?侯爵夫人と令息を危険な目に遭わせるくらいだし)
夫人のドレスの裾が濡れているところを見ると、川に入りかけたところで私の声を聞いたようだ。
危ないところだった。子どもひとりを助けるのは難しくなくても、さらにもうひとりドレス姿の女性を救い出すとなると話は違ってくる。無理をしたらクルトが犠牲になってしまったかもしれない。
その後は…震えるセヴランを抱きしめて涙を流す夫人、お互いの素性を明かし礼は後日あらためて…とセヴランの介抱のため慌ただしく去っていく侯爵家一行。感慨深くそれらを眺めていた私も、すぐにドーラとクルトに連れられて両親へ報告に戻った。
「お嬢様の並外れた視力と聴力のおかげで、侯爵家のご子息をお助けすることができました」というクルトの誉め言葉は微妙だったけど、そういうことにしておいてもらおう。
両親にも褒められ、私は達成感でいっぱいだった。
(セヴランの不幸のはじまり、夫人の死を阻止できた…。不確定要素が多過ぎて不安だったけど、なんとかやり遂げたんだわ。これでセヴランの運命も大きく変わるはず)
…小説の設定から逸脱することに、ためらう気持ちはあった。
だけど私が前世の記憶を持って生まれた時点で既に小説通りではない。それなら小説の世界を守る必要はなく、小説を下敷きにした、もしくは小説によく似たこの世界を生きる者として、思うままに行動しようと決めたのだ。
(その最初の行動が縄跳びだったわけだけど…)
万が一の時のためにロープを用意しておきたかった。そこで考えたのが縄跳びの縄。幼児が持ち歩いても不自然ではない、唯一の縄と言っても過言ではない。
この世界に縄跳びがあるのかわからなかったけれど、縄一本でできる単純な遊びだ。どこの世界の子どもでも思いつくに違いない。前世の世界でもかなり昔からあったはずだ。
とはいえ凝った玩具を与えられる貴族の子…特に令嬢は、縄で遊ぼうなんて思わないだろう。
まずは外出した時に下町の子どもがやっているのを見た、と言って縄をもらい、動きやすい恰好をさせてもらって縄跳びにいそしむ姿を周囲に見せ続けた。どこにでも持ち歩くのを不自然に思われなくなるまで。
当然問題の日にも持って行った。五歳児が使う縄なんて短くて役に立つのか怪しいものだったけれど、こっそり予備の縄と結びつけて少しでも長くしておいたのだ。
──結果として、まったく出番がないままで終わったが。
(他が信じられないくらいうまくいったんだから、準備のひとつが空振りだったからって残念に思っちゃいけないわよね…だけどなんか、虚しい…)
ちなみに前世で運動が苦手だった私は、この計画のおかげで今世で初めて三重跳びができるようになった。
…貴族令嬢である今世、自慢できる機会は一生訪れないけれど。
読んでいただき、どうもありがとうございました!