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第1話:木下藤吉郎、名を得る

尾張の西、干ばつの続く農村地帯で

「奇妙な農民が村を潤した」という噂が、風のように広がっていた。


その男の名は――日吉丸。


水車もなければ数学も知らぬはずの百姓が、「見えない声」の助言で水を操り、田を救った。

荒れ果てていた土地が実りを取り戻したという話は、武家の耳にも届くほどだった。


「……呼ばれとる、ってことは、怒られるんか?それとも……」

日吉丸は粗末な旅支度で、屋敷の門を前に立ちすくんでいた。


『落ち着いてください。今川家臣・松下之綱。

その人柄は、記録上穏やかかつ実利重視とあります。恐れる必要はありません』


「いや〜あんた、ようそんな冷静でおれるな……」


言いながらも、彼はナニワの指示どおりに頭を下げ、門をくぐった。


【松下家・屋敷内】


「おぬしが……日吉丸、という者か」


座敷の奥にいたのは、静かに威圧感を放つ男。

これが今川家臣・松下之綱まつした ゆきつな

戦国の動乱を生き抜く知将であり、浜松・頭陀寺城を治める地侍である。


「はっ、尾張の村にて農をしておりました日吉丸でございます」

「このたびは……噂が耳に入りましたゆえ、参上いたしました」


(ナニワ、今の言い回し……いけとる?)


『文法的には完璧です。語尾に少々訛りが残っておりますが、むしろ誠実さが伝わっております』


(ほっ……よかったがね)


松下はしばし黙したあと、口を開いた。


「百姓が、用水を引いたというのは本当か?」


「……はい。竹と桶を使って、回転する仕掛けを――」

「いや、要はこう……水が勝手に上にあがるようにしまして……」


「それは、“水車”か?」


「い、いや、その……そやけど、それよりちょっとちゃうやつでして……」

「こう……くるくる回って、水が上がっていく感じで……!」


『ご主人様、落ち着いてください。

 ナニワ式螺旋揚水機はアーカイヴ上でも記録に残らぬ超先進技術です。

 理解される必要はありません』


(そっちが言わせたんやがね!?)


松下はニヤリと笑った。


「面白い。……才ある者には、相応の“名”が要る。新たな名に改名せよ!」


「ならば、幼い頃の異名の"木綿藤吉もめんとうきち"より、藤吉郎といたします。」

日吉丸は畳におでこを擦り付けながら答えた。


「姓は持たぬのだろう?」


日吉丸は一瞬、言葉に詰まった。

「……はい。姓など、いただいたことはなく……」


松下は少し目を細めて、こう言った。


「そなた、わしの“下”に仕えるつもりはあるか?」


「は、はい……もちろんでございます」


「ふむ……では、“木下”と名乗れ」


「……木下……?」


『“木下”=“松下の下”という意を含んでおります。

戦国時代における名付けの一形態として自然です』


(ああ、そういうことか……)


日吉丸は、いや、木下藤吉郎は、深々と頭を下げた。


「恐れ多うございます……木下藤吉郎、ここに仕えさせていただきます」


『新しいIDを確認。名前を「木下藤吉郎」として記録しました。』


こうして一人の百姓が、“名”を得た。


この瞬間から、彼の運命は、さらなる乱世の渦へと踏み出していく。


眼鏡の中で、未来の知識が静かに光を帯びていた――。




それから数か月。




木下藤吉郎は松下家で倉庫の帳簿を管理し、農作物の保存法を改良し、

倹約策や仕入れの提案に至るまで、その頭脳と実務力で家中の者たちを驚かせていた。


だが、その目覚ましい働きぶりは、同僚たちの嫉妬をも呼んだ。


「あいつ、農民のくせに出しゃばりすぎや」


「知恵があるからって、調子に乗っとるんじゃねぇか?」


密かに物が隠され、行動の揚げ足を取られ、

時には命令を曲解された報告で叱責されることもあった。


ナニワが忠告した。


『ご主人様、この環境では今後の成長が阻害される可能性があります。

 忠義を尽くすことは美徳ですが、ここは“通過点”と捉えるべきかと』


藤吉郎は、静かにうなずいた。


「……だよな。ここが限界だわ。わしは、もっと上へ行きたい」


そう言って、彼は静かに松下家を去る。


尾張に戻ったその足で、彼は一人の男のもとを目指した。


──織田信長。


まだ「うつけ者」と呼ばれていた若き当主の目に、

未来を掴む野心が宿っていると、ナニワは見抜いていた。


『ターゲット:織田信長──“天下布武”の鍵となる人物。ご主人様の運命が、大きく動き出します』


藤吉郎は、再び前を見据えた。


その手にはメガネ──ナニワが、

未来からもたらした唯一無二の“知”が、なお輝きを放っていた。



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