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最終章『昨日の私を殺した君』

 深夜。

 廃墟と化した「旧臨海コンサートホール」の内部は、静寂と埃に満ちていた。


 戌亥は、懐中電灯の光を頼りに、ホールの中を慎重に進む。彼の革靴が、ガラスの破片を踏む音だけが、やけに大きく響き渡る。打ち捨てられて久しいこの場所は、時間が止まったかのようだった。割れたステンドグラスから差し込む月光が、客席のシートや、垂れ下がった緞帳どんちょうをぼんやりと照らし出し、そこはまるで、忘れられた神殿のような、どこか神聖で、物悲しい空気に満ちていた。


(死んだ男が、妻と初めて会った場所。そして、自らの「本当の記憶」を隠した場所か。奴にしては、ずいぶんとセンチメンタルな選択だ。あるいは、これこそが、奴が最後に守りたかった、唯一の真実だったのかもしれないな)


 戌亥は、広大なホールの舞台袖へと足を進める。

 そして、そこに一台だけ、分厚いカバーをかけられたグランドピアノが置かれているのを発見した。


 戌亥は、ピアノにかけられたカバーを剥がす。現れたのは、モーツァルトが生きた時代と同じ、古いモデルのピアノだった。鍵盤は黄ばみ、木製のボディには無数の傷がついている。


 彼は鍵盤の蓋を開け、内部を調べ始めた。そして、ピアノの弦が張られた金属フレームの隅に、巧妙に隠された小さな金属製の箱を見つけ出す。


 箱の中には、ネットワークから完全に切り離された、旧式の記憶媒体**「アナログ・ストレージ」**が一つだけ、静かに収まっていた。犯人のハッキング能力を恐れた相馬圭が遺した、最後の切り札だ。


 戌亥は、カバンから取り出した携帯用の再生装置(オフライン専用)に、そのストレージを接続する。


(さあ、見せてもらおうか。死んだ男が、命と記憶を賭けてまで遺したかった、物語の本当の結末を)


 彼は再生ボタンを押し、意識を、死んだ男の最後の記憶へとダイブさせた。


 ◇


 視界が開ける。

 そこは、これまで見てきた偽憶データとは全く違う、クリアで、残酷なほど鮮明な、相馬圭の自室だった。


 映像は、相馬がボイスレコーダーにメッセージを遺し終えた直後から始まる。

 カチャリ、とドアが開く。

 入ってきたのは、桐生でも亜矢子でもない。そこに立っていたのは、見知らぬ若い女性だった。


 だが、戌亥の脳裏に、電流のような衝撃が走る。

 この完璧な要塞に、まるで亡霊のように侵入し、相馬圭をここまで追い詰めることができる存在。そして、この記憶の世界を、神のように自在に操り、戌亥自身を翻弄し続けてきた、あの圧倒的な知性。

 そんな芸当ができる人物を、戌亥は一人しか知らない。

 ――彼女こそが、レンだった。


「誰だ、貴様は…?どうやってここに…私のセキュリティを…あり得ない…」


 相馬の声は、驚愕と恐怖に震えていた。


 レンは、恐怖に歪む父の顔を、まるで初めて見る珍しい生き物でも観察するかのように、静かに見つめた。そして、その口元に、ほんのわずかな、しかし刃物のように冷たい笑みを浮かべて言った。


「あなたの作った檻でしょう、お父さん」


 その言葉に、相馬は一瞬、思考が停止する。


「お父さん…?何を言っているんだ…?」


「その設計図を描いたのは、私なのだから。抜け道の一つや二つ、知っていてもおかしくない」


 レンは、相馬の混乱を意にも介さず、言葉を続ける。


「忘れたの? あなたが昔、愛人に産ませ、そして捨てた娘の顔を。無理もないか。あなたの記憶からは、都合の悪いデータは全て消去されているものね。…そして、この会社の礎となったメモリコアの基礎技術。あれも、元は私が学生時代に書いた論文。あなたは、それすら私から盗んで、自分の功績にした」


 相馬の顔が、恐怖から絶望へと変わっていく。彼は、自分が先ほど飲まされた高級ワインに、遅効性の毒が入っていたことを悟った。


「これから、あなたの最後の記憶は、私が編集する」


 レンは、最後の宣告を下す。


「あなたの死は、くだらない部下の裏切りや、妻の気まぐれのせいにでもしてあげよう。あなたは、自分の人生の物語の結末すら、自分で選ぶことはできない。私が作った記憶の世界で、永遠に道化を演じ続けるの。…それが、私の、あなたへの復讐だから」


 相馬が、苦しみながら床に崩れ落ちる。彼の瞳から、光が消えていく。その最後の瞬間まで、レンは、ただ無表情に彼を見下ろしている。


 映像は、そこで途切れた。


 ◇


 現実世界へと意識が戻る。

 戌亥は、再生装置の接続を切り、アナログ・ストレージを静かに握りしめた。


 その時、彼のポケットの中の携帯端末が、一度だけ静かに振動した。開くと、差出人不明の、暗号化されたテキストメッセージが一件だけ届いている。


『「レクイエム」は、楽しめたか? 探偵さん』


 戌亥が、はっとして顔を上げる。

 ホールの暗闇の向こう、2階の観客席の影に、ぼんやりとした人影が見えた。レンだ。彼女は、ずっとここにいたのだ。


『あなたが、ここまでたどり着くことは分かっていた』


 スピーカー越しの、加工されていない本当の声が、ホールに響く。


『あなただけは、私の作った偽りの物語に騙されないと、信じていたから』


「…なぜ、俺を試すような真似をした」


『証明したかったの。私の知性が、父が築き上げた全てを凌駕することを。そして、あなたのような本物の『探偵』に、私の完璧な犯罪を見届けてほしかった。…さて、戌亥さん。その手の中にあるものが、この世界で唯一の『真実』よ。あなた、それをどうする?』


 彼女の言葉を最後に、人影は闇の中へと消える。


 ◇


 一人残された戌亥は、手の中のアナログ・ストレージを見つめる。

 これさえあれば、レンの罪を証明できる。しかし、相手は、国家のシステムすら自在に操る天才ハッカー。そして、彼女が裁いた相手は、法では裁けなかった巨悪だ。


 彼は、ポケットからライターを取り出す。

 カチリ、と火をつけた。その小さな炎が、彼の顔に刻まれた葛藤を、静かに照らし出す。


 この証拠を、腐敗した刑事・堂島に渡すべきか?

 それとも、この場で焼き捨て、天才の復讐を「完璧な犯罪」として完成させてやるべきか?


 彼は、ゆっくりと、アナログ・ストレージを炎に近づけていく。


 その手が止まるか、それとも――。


(了)

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