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第3章『二つの顔』

 翌日の昼下がり。

 相馬邸のペントハウスは、主を失ったことで、その真の姿を現していた。昨日までは富と権力の象徴に見えた空間が、今日はいやに冷たく、巨大なガラスの墓標のように感じられる。戌亥は、依頼人である相馬亜矢子の後に続きながら、案内された書斎へと足を踏み入れた。


 壁一面を埋め尽くす、本物の革で装丁された背表紙の列。磨き上げられ、鈍い光を放つマホガニーのデスク。それら完璧に整えられた調度品は、もはや権威の象徴ではなく、持ち主の不在を際立たせるための、空虚な舞台装置に成り下がっていた。


「こちらです、戌亥様。メッセージでお伝えした金庫です」


 亜矢子が指し示したのは、書斎の壁画の裏に隠された、旧式の小型金庫だった。警察のデジタルスキャンでは反応しない、アナログな鉄の塊だ。


「ですが、私にはどうしても開けられなくて…」


 戌亥は無言で頷くと、金庫の前にしゃがみこんだ。亜矢子が固唾を飲んで見守る中、戌亥はダイヤルに聴診器を当て、目を閉じて精神を集中させる。まるで難手術に挑む外科医のように、彼は全ての意識を指先と耳に集めていた。


 金属の円盤が回転する、微かな、衣擦れのような音。

 そして――カチリ、と爪が噛み合う、精密で硬質な音。

 一つ、また一つと、その音を拾い上げていく。


 やがて、最後のかみ合わせの音と共に、重い金属の扉が、ゆっくりと、ため息をつくように開かれた。


 亜矢子の肩から、緊張の糸が切れたような、微かな溜息が漏れた。だが、その表情はすぐに落胆に変わる。


 金庫の中には、決定的な証拠はなかった。

 あったのは、たった一つ。古びた、一枚のコンサートプログラムだけだった。


 戌亥がそれを手に取る。

 指先に、乾いてざらついた、上質だが古い紙の質感が伝わってくる。インクと古紙が混じった独特の匂いが、彼の鼻腔をかすめた。

 色褪せた紙面には、こう記されていた。


 演目:ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト『レクイエム』

 場所:旧臨海コンサートホール


(レクイエム…死者のためのミサ曲、か。ずいぶんと悪趣味なヒントを残してくれたもんだ、相馬圭。あんたの葬送曲は、一体誰が演奏するつもりだったんだ?)


 戌亥は、その紙片を、まるで貴重な証拠品のように、静かにポケットにしまい込んだ。


 ◇


 事務所に戻った戌亥は、デスクライトの下で、例のプログラムを眺めていた。色褪せた文字を指でなぞりながら、思考を巡らせる。静かな時間だった。


 その静寂を、鼓膜を引き裂くようなけたたましいアラート音が、前触れもなく破壊した。


「!」


 戌亥の体が、弾かれたように跳ねる。スクリーンには、レンからの最上級の緊急通信を示す警告色が、激しく明滅していた。


 彼が応答すると、スクリーンに映し出されたレンのアバターは、もはや砂嵐ですらなかった。まるで存在そのものが崩壊しかけているかのように、激しいノイズを撒き散らし、明滅を繰り返している。


『戌亥!』


 合成音声には、プロとしてのプライドを傷つけられた静かな怒りと、未知の技術に対する純粋な恐怖が、奇妙な形で同居していた。


『奴が、また動いた! 今度は破壊じゃない…『上書き』だ! まるで、俺たちを嘲笑うように、記憶の風景を塗り替えている!』


 スクリーンには、信じがたい光景がリアルタイムで映し出されていた。

 レンが辛うじて確保していたゴーストデータが、リアルタイムで書き換えられていく。壁紙の模様が、まるで生き物のように蠢きながら、別の模様へと「変態」していく。神が悪趣味な気まぐれで、世界のテクスチャを貼り替えているかのようだ。


「どういうことだ? 何のために、そんな無意味な…」


『無意味じゃない! これは、奴からの挑戦状だ。『お前たちが見ている世界は、全て私が作り替えることができる』という、圧倒的な力の誇示だ。…クソッ、もう一度だけ、顔の部分を再構成する! これが最後だ。次はないと思え!』


 レンの言葉を最後に、一瞬、完全な静寂が訪れた。


 次の瞬間、スクリーンが閃光を発する。


 そこに映し出されたのは、もはや桐生の顔ではなかった。

 現れたのは、相馬亜矢子の顔。だが、それは戌亥が事務所で会った、あの悲しみに暮れる未亡人の顔ではない。その瞳には、人間的な感情が一切存在せず、ただこちらを観察し、嘲笑する、神のような絶対的な冷たさだけがあった。


 直後、ゴーストデータは完全に崩壊。

 スクリーンには「CONNECTION LOST」の文字だけが、虚しく表示された。


 耳が痛くなるほどの沈黙が、事務所に訪れる。

 酷使された端末から、電子部品の焦げる匂いが、かすかに立ち上っていた。


 ◇


 翌日の午後。

 都心のホテルのラウンジは、明るい喧騒に満ちていた。遠くで聞こえるピアノの生演奏、人々の楽しげな笑い声、カクテルグラスが触れ合う澄んだ音。その幸福な世界の音は、まるで分厚いガラス壁の向こう側のように、戌亥と亜矢子が座るテーブルだけには届いていない。


 戌亥は、まるで、これ以上動かせない詰みの駒を置くかのように、ゆっくりと一枚の写真をテーブルの上に滑らせた。レンが最後に復元した、亜矢子の顔写真だ。


 一拍の間を置いて、彼は口を開いた。その声には、怒りよりも、むしろ理解不能なものに対する、底なしの疲労が滲んでいた。


「一体、どういうことだ」


 写真を見た亜矢子の反応は、スローモーションのようだった。

 まず、息をのむ。次いで、瞳が恐怖に見開かれ、その顔から急速に血の気が引いていく。震える手が写真に触れようとして、寸前で止まった。


「…そんな。あり得ませんわ」


 声が、微かに震えている。


「夫が殺されたあの日、私は京都の実家におりました。私のメモリコアを確認していただければ、完璧なアリバイがお分かりになるはずです」


(完璧な反応だ。まるで、三流のホロドラマで何度も見たような、お約束の演技。だが、もしこれが演技でないとしたら? この女は、俺と同じように、得体の知れない『何か』に翻弄されているだけの、哀れな被害者なのか?)


 戌亥は、彼女の瞳の奥を探る。恐怖は本物に見える。だが、その恐怖は、無実の人間が濡れ衣を着せられた恐怖か、それとも、嘘が見破られそうになっている者の恐怖か。彼の経験をもってしても、見分けがつかなかった。


 戌亥は、亜矢子から視線を外し、窓の外の雑踏を眺めた。メモリコアに人生を委ねて生きる、無数の人々の群れ。その光景が、彼に決意を固めさせた。


(奴の土俵で相撲を取るのは終わりだ。ルールも、行司も、全てが奴のものである世界で、俺に勝ち目はない。…ならば、俺は俺の土俵に戻るだけだ)


 彼は、それまでの迷いを振り払うように、静かだが、断固とした動きで席を立った。


 そして、窓の外を向いたまま、彼女の目を見ずに告げる。その言葉は、個人的な感情からではなく、プロとしての分析から来たものだった。


「奥さん、あんたの言うことを信じるか、信じないかは、まだ決めかねている。だが、一つだけ確かなことがある。犯人は、あんたをも狙っている可能性がある。しばらく、誰とも会わず、身を隠せ」


 戌亥は、ラウンジを去っていく。

 テーブルに一人残された亜矢子の視線の先で、彼のトレンチコートの背中が、雑踏の中に消えていった。


 一人になった戌亥の頭の中で、ただ一つのキーワードだけが、まるで教会の鐘のように、一度、また一度と、大きく、クリアに鳴り響いていた。


「アマデウス」

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