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第2章『ゴースト・イン・ザ・コア』

 深夜。

 戌亥探偵事務所の混沌とした空間は、デスクに置かれた大型スクリーンの青白い光だけが照らし出していた。


 戌亥は、紫煙を燻らせながら、滝のように流れ落ちる無数の文字列――データストリームをただ見つめている。自分には何もできない。指一本動かせないこの状況が、彼の苛立ちを静かに掻き立てていた。


 信じて待つしかないのだ。

 電脳の海に潜った、相棒の腕を。


 その頃、レンは音のない嵐の中にいた。


 彼(あるいは彼女)のアバターが、抽象的な電脳空間を切り裂いて突き進む。ここは、死んだはずの相馬圭が遺したメモリコアの、さらに奥深く。無数のデータが光の川となって流れ、そのすべてが「相馬圭の記憶」だった。


 だが、その行く手を阻むように、アストラル・ダイブ社の強力な防壁ファイアウォールが次々と姿を現す。それは単なる壁ではない。鋭い牙を剥く獣のように、意思を持ってレンに襲い掛かる攻撃的なプログラムだ。


 レンのアバターは、宙に浮かぶ仮想キーボードを、常人には目で追えぬほどの速度で叩く。放たれたコードが光の槍となり、防壁を撃ち砕く。回避、破壊、潜行。その一連の動作は、もはや神業の域に達していた。


『クソッ、速い!』


 アバターから響くのは、感情の乗らない合成音声。だが、その言葉には焦りが滲んでいた。


『こっちがパッチ(偽憶)を一枚剥がすと同時に、向こうがソース(オリジナル)を別の場所から汚染コラプトしてくる! まるで、リアルタイムで記憶の破壊と修復を競っているようだ』


 事務所でその報告を聞いていた戌亥は、苦々しくタバコを揉み消した。


(犯人は、俺たちがこの記憶を覗いていることに気づいている。そして、俺たちを嘲笑うかのように、目の前で証拠を消し続けているのか…!)


 時間との勝負だった。記憶が完全に破壊されれば、手掛かりは永遠に失われる。


 その刹那、レンの動きが止まった。データの奔流が渦巻く中で、一か所だけ、不自然なほど静かな領域があった。堅牢なプロテクトに守られた、記憶のブロック。犯人が、どうしても消しきれなかったのか。あるいは――意図的に残したのか。


『見つけた…!』


 合成音声が、確信に満ちた響きを帯びる。


『「ゴースト」だ。オリジナルの一番核になる部分。これから、これを強制的にレンダリングする。何が映るか分からん。備えろ、戌亥!』


 ◇


 レンの言葉と同時、戌亥の目の前のスクリーンが激しく明滅した。滝のように流れていた文字列が収束し、ノイズの掛かった一人称視点の映像が映し出される。被害者・相馬圭の、死の直前の記憶だ。


 戌亥は、思わず身を乗り出す。


 映像はひどく途切れ途切れで、音声も歪んでいる。視界が激しく揺れ、床に叩きつけられたかのような衝撃が走る。相馬の手が、防御するように目の前に突き出されるのが見えた。


『やめろ…なぜだ…お前…』


 ノイズの向こうから、かろうじて聞き取れる、かすかな声。ガタガタと激しく争う物音が響き、視界の端に、犯人らしき人影が映り込む。


 だが、その顔の部分だけが、まるで意思を持ったかのように、渦を巻くデジタルのノイズで隠されていた。


(これが、相馬が遺したかった真実か。だが、犯人は死してなお、彼の記憶の中に巣食い、自らの顔を殺し続けている…)


 その時、レンの合成音声が響く。


『全リソースを顔面領域の復元に回す!』


 ノイズの渦が、一瞬だけ、ほんのわずかな間だけ晴れた。


 コンマ数秒にも満たないその瞬間に、戌亥は見た。そこに映し出された、ある男の顔を。


 副社長・桐生巧きりゅう たくみ。その冷徹で、一切の感情を読み取らせない無表情な顔だった。


 直後、ブツン、と音を立てて映像は完全に途切れ、スクリーンは漆黒の闇に包まれた。事務所に、再び静寂が戻る。


『…見たか、戌亥』


 スピーカーから聞こえてきたレンの声は、ひどく疲れ切っていた。


『あれが、今のお前に見せられる、真実の限界だ。奴は、まだこの記憶の中にいる。これ以上の詮索は、オリジナルデータが完全に崩壊する危険がある』


 ◇


 翌日の午後。

 株式会社アストラル・ダイブの本社ビルは、戌亥の事務所とは何もかもが対照的だった。白とガラスを基調としたエントランスは光に満ち、塵一つない床は鏡のように磨き上げられている。空調が完璧に管理された空気は、どこか無機質で冷たかった。


 時代遅れのくたびれたトレンチコートを着た戌亥の姿は、その空間ではあまりにも異質だった。


 アポイントもなしに副社長室へ向かおうとする彼を、有能そうな秘書が丁寧かつ断固として制止する。背後からは、体格のいいセキュリティ担当者が静かな圧力をかけてくる。だが、戌亥は動じない。元刑事の経験で培ったハッタリと、相手の心理の隙を突く揺さぶりで、彼はその鉄壁のガードを強引にこじ開けた。


 副社長室の重厚なドアを開けると、そこには広大な空間が広がっていた。床から天井まで続くガラス窓の向こうには、大都市のパノラマが広がる。その中央で、桐生巧は戌亥を待っていた。面白がるような表情を浮かべているが、その目は一切笑っていない。


「これはこれは、戌亥探偵。亡き社長の件で、警察以外にも嗅ぎ回る方がいるとは思いませんでした。何か、新しい発見でも?」


 桐生の言葉には、棘のある余裕が滲む。戌亥はまっすぐ彼を見据え、単刀直入に切り出した。


「桐生副社長。昨夜、あなたの顔を見ましたよ。死んだ相馬氏の記憶の中でね」


 その瞬間、桐生の表情が初めて微かに変化した。驚きか、それとも怒りか、判別不能な感情が一瞬だけその顔をよぎり、すぐに完璧な無表情へと戻る。


 やがて彼は、冷たい笑みを浮かべた。


「面白い冗談だ、探偵さん。私のメモリコアなら、ここに。昨夜の完璧なアリバイが記録されている。警察も確認済みだ。…あなたこそ、死者の記憶に不法アクセスした罪で、通報されたいのかね?」


 桐生は、自らのこめかみを指で軽く叩いてみせる。メモリコアによる「絶対的なアリバイ」。それは、この時代の何より雄弁な証拠であり、そして、戌亥に向けられた明確な脅迫だった。


 ◇


 夕暮れの光が、ガラクタだらけの事務所に長く影を落としている。

 アストラル・ダイブ社から戻った戌亥は、机の上に桐生の経歴書と、レンが復元した顔写真を並べ、深く頭を抱えていた。疲労と焦りが、思考を鈍らせる。


(記憶は『桐生が犯人だ』と示している。アリバイは『それは不可能だ』と証明している。どちらかが嘘だ。だが、どちらが? どうやって? メモリコアのアリバイそのものを偽装したのか? それとも、記憶に映った顔こそが、犯人の仕掛けた罠なのか?)


 矛盾した二つの事実が、袋小路となって彼の前に立ちはだかる。


 その時、ポケットに入れていた携帯端末が短く震えた。ディスプレイに表示された差出人の名は、相馬亜矢子。メッセージを開くと、簡潔な文面がそこにあった。


『戌亥様。夫の書斎を整理しておりましたら、警察が見逃したと思われるものを、もう一つ見つけました。金庫です。ですが、私には開けられません。至急、お会いしたいのですが』


 その一文を読んだ瞬間、戌亥の目に鋭い光が戻った。


 電脳世界の捜査が行き詰まる中、現実世界で、新たな扉が開かれようとしている。彼は椅子から立ち上がると、無造作にコートを羽織った。行き詰まりを打開する鍵は、死んだ男がアナログな世界に遺した、最後の秘密の中に眠っているのかもしれない。

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