第1章『偽りの自殺』
カチリ、と再生停止ボタンを押す乾いた音が、やけに大きく響いた。
死んだ男が遺した声の最後の余韻が、事務所の埃っぽい空気に溶けていく。
新宿の雑居ビル。
その三階に位置する「戌亥探偵事務所」には、インスタントコーヒーの焦げ付いたような香りと、旧式の空気清浄機が立てる低い唸りだけが満ちていた。
事務所の主、戌亥護は、机の上に置かれた旧式のボイスレコーダーを前に、腕を組んで深く目を閉じる。彼の思考の中では、巨大企業のCEO、相馬譲が遺した最後の言葉が、繰り返し渦を巻いていた。
記憶の編集。
自殺の偽装。
アマデウス――。
くだらない三文芝居の小道具のような、陳腐なキーワード。だが、死んだ男の声には、紛れもない本物の恐怖が宿っていた。
ソファに浅く腰掛けた依頼人、相馬亜矢子は、背筋を伸ばしたまま、じっと戌亥の反応を待っている。上質なシルクの喪服は、彼女の非の打ちどころのないスタイルを際立たせていた。完璧に整えられた化粧の下には、深い悲しみが澱んでいる。だが、その瞳の奥で燃えているのは、ただの悲嘆ではなかった。鋼のような意志と、そして、目の前の男を値踏みするような、鋭い光が。
(メモリコアの改竄は、国家レベルの重罪だ)
戌亥は思考の海に沈む。
(しかも、世界のインフラを牛耳るアストラル・ダイブ社のトップが殺されたとなれば、裏で動くのは警察だけじゃない。ヘタに首を突っ込めば、俺のような場末の探偵など、データの一片すら残さず消し飛ばされる)
やがて、戌亥はゆっくりと目を開け、目の前の美しい未亡人に向き直った。
「奥さん、一つ確認したい」
その声は、気だるく、乾いていた。
「なぜ警察ではなく、俺のところに? 俺は、アンタが思うような正義の味方じゃない。ただの、カネで動くゴロツキだ」
その問いに対し、亜矢子は微動だにしなかった。彼女の反応は、戌亥の想定通りだった。
「存じております。だからこそ、あなたにお願いするのです」
彼女の声は、平坦で、しかし強い芯が通っていた。
「警察は、『メモリコアの記録は絶対である』という建前を崩せません。ですが、あなたは違う。あなただけが、その“絶対”を疑うことができる。…夫が、そう申しておりました」
亜矢子は、そこで一度言葉を切った。その瞳が、まっすぐに戌亥を射抜く。
「『何かあれば戌亥を頼れ。奴は、俺と同じで、何も信じていない男だから』と」
予期せぬ言葉だった。戌亥は、その言葉に鼻で笑いながらも、その表情はまんざらでもないように見えた。何も信じていない。確かに、その通りかもしれなかった。
彼は、亜矢子が差し出した分厚い封筒を無造作に受け取ると、中身を確かめることもなく、机の引き出しに放り込む。
依頼は、正式に受理された。
◇
夜。
亜矢子のハイヒールの足音が遠ざかると、事務所は再び墓場のような静寂に包まれた。
デスクライトの光だけが、戌亥の顔と、彼が装着した旧式のヘッドセットをぼんやりと照らしている。彼は手慣れた、しかしどこか面倒そうな仕草で安全性を確保したプライベート回線に接続し、意識を電脳空間へとダイブさせた。
途端に、事務所の埃っぽい現実が消え去る。
戌亥の網膜に、VR空間の無機質なインターフェースが投影された。その目の前に、砂嵐のようなノイズに覆われた、性別不明のアバターがゆらりと浮かび上がる。協力者、レンだ。その姿は、まるで実体を伴わない幽霊のようだった。
「レン、いるか。仕事だ」
『…戌亥か』
ボイスチェンジャーを通した合成音声が、直接脳内に響く。感情というものが一切削ぎ落とされた、デジタルな声。
『お前から連絡してくるとは、珍しいな。また、面倒事の匂いがする』
戌亥は事件の概要と、相馬が遺したボイスメッセージの内容を、必要な情報だけ切り取って簡潔に伝えた。そして、警察が「自殺」の根拠とした、相馬の最後の記憶データのディープスキャンを依頼する。
『アストラル・ダイブ社のサーバーに、正面からダイブしろと? 無茶を言う。警視庁のメインフレームに侵入するより危険だぞ。…で、報酬は?』
戌亥は、亜矢子から受け取った着手金の半額を提示した。
レンは数秒間、黙り込む。肯定も否定もしない、無感情な沈黙。それが、このアバターが示す最大の思考だった。やがて、合成音声が再び響く。
『…リスクに見合わんが、お前の頼みだ。今回は特別だぞ』
(こいつの腕は確かだ。だが、同時に、誰よりも信用ならない。レン(蓮)という名前も、泥の中に咲く花か、それとも人を惑わすための偽名か。こいつの本当の顔を、俺は知らない)
レンのアバターが、すうっとデータ空間の深層へと消えていく。
接続を切った戌亥は、重いヘッドセットを外し、疲れたようにタバコに火をつけた。紫煙が、薄暗い事務所に静かに溶けていった。
◇
深夜。
レンに依頼してから、数時間が経っていた。
ソファで浅い仮眠をとっていた戌亥の耳を、デスクの端末から鳴り響くけたたましいアラームが引き裂いた。元刑事の鋭い反応で、彼は一瞬で覚醒する。
「!」
飛び起きた戌亥の目に、レンからの緊急通信を示す警告表示が飛び込んできた。ヘッドセットを装着する間ももどかしく、スピーカーモードに切り替えた。
『戌亥! やはり、奴らの仕業だ! このデータは『黒』だ!』
切迫したレンの合成音声が、事務所に響き渡る。スクリーンには、解析中のメモリコアのデータ構造が表示されていた。無数のコードが並ぶそれは、素人目にはどこにも異常のない、完璧なデータに見える。
『見ろ。この記憶データは、極めて高度な技術で上書きされた『偽憶』だ。オリジナルのデータの上に、自殺の記憶をパッチ(当て布)のように貼り付けて、完璧に偽装してある。こんな芸当ができる奴は、世界でも数えるほどしかいない。…アストラル・ダイブ社の、コア技術を開発した人間でもなければ、不可能だ』
その声には、犯人の技術への驚嘆と、それを上回るプロとしての敵愾心が滲んでいた。
「元のデータは復元できるか?」
戌亥が鋭く問う。
『…やってみる。だが、相手もこちらに気づいたはずだ。ここからは、時間との勝負になる』
その言葉を最後に、レンからの音声は途切れた。代わりに、画面の向こうで超高速のコーディングが開始された気配が伝わってくる。
スクリーンには、無数のデータが滝のように流れ落ち始めた。完璧に見えた偽憶のデータに、徐々に、しかし確実に亀裂が入っていく様子が、視覚的に映し出されていく。
戌亥は、その画面を固唾を飲んで見守った。
死んだ男の記憶が、今まさに墓場から蘇ろうとしている。
その異様な光景に、彼はこの事件の底知れぬ深さを改めて実感していた。
物語が、本格的に動き出した瞬間だった。