第四の書「code187(殺人事件発生)」
「――くっ!」
無明マツリが駆け寄り、頸動脈を探る。
だが、無念そうに唇を噛んだ。
「手遅れでゴザル……!」
七志野モエが呻き声と共に嘔吐し、蒼龍館の大広間に崩れ落ちたのは――ちょうど、榎木田セラ以外の全員が集まっていたときのことだった。
吐瀉物がぶちまけられた床面を、窓から刺し込んだ月光が青白く照らしている。重く黙り込んだ一同は、目の前で起きた劇的なまでに創作物めいた一幕が、冗談ではない真性の恐怖劇か、はたまた滑稽劇に過ぎないのかを、計りかねているようでもあり――場の沈黙を破ったのは、執事の松田だった。
「ひ、人殺し……わ、私は見てたぞ!」
痩身の男が糾弾したのは、ミコネである。
そんな……!?
予想だにしない展開に、冷や汗が流れた。
松田はヒステリックに叫ぶ。
「玄野ミコネ、
お前は七志野様にグミを食べさせていただろう!」
「それは……あたし、モエさんに頼まれて、
おやつを渡しただけで……!」
こほん、と小さく咳払いの声。
窘めるように言ったのは、車椅子の高木シオウだ。
「松田、落ち着きなさい。
状況がわからないうちに決めつけてはいけません」
「ですが……!」
「――松田に質問。
ミコネがグミを食べさせたのを見たのは、いつ?」
銀髪の少女――殊能ヨミが介入した。
決して大声ではないが、無視できない聲で。
松田はうっ、と声を漏らす。
自分よりもずっと小さく華奢な少女に、冷静な声で気圧されたことで、いくらか気勢を削がれたようだった。
「1時間ほど、前……でございます」
ヨミはマツリに視線を送る。
二人の瞳が刹那に情報を共有し、頷き合った。
「それなら、ミコネは犯人じゃない……かも」
マツリが助太刀をした。
「先ほどのモエ殿の症状は、急激な嘔吐と、それに伴う呼吸困難――おそらく、死因は窒息死でゴザル。拙者の見立てでは、有毒アルカロイドの一種であるアコニチン系アルカロイドによる中毒なのではないかと」
「アコニチン、って?」とミコネ。
「トリカブトに含まれる毒でゴザルよ」
マツリのバトンを受け取り、ヨミが続ける。
「人体のナトリウムチャネルは……イオンを通す「開く」状態と、イオンを通さない「閉じる」状態を、状況によって使い分けてる。アコニチンの場合は「閉じる」機能を抑制することで、チャネルを「開く」状態に固定してしまう作用があるんだよ」
ミコネはうーん、と頭をひねった。
「それって、開きっ放しだと、良くないの!?」
「開きっ放しでも、閉じっ放しでもダメ……。
ヒトは、死んじゃう」
我慢できないとばかりに、松田が割り込んだ。
「それで、一体どうして、トリカブトの毒だと――
この子が、犯人じゃないということになるのですか!?」
ヨミはミコネを庇うように、細い身体を突き出した。
普段では考えられないほどに、語気を強めて言う。
「アコニチンは、即効性の猛毒……ッ! 松田が、ミコネとモエを目撃したのは、1時間前。そのとき、モエはグミを口にしていた。そうだよね……!?」
松田はしぶしぶと認める。
「……はい、そうです」
マツリもヨミと並び立ち、盾となった。
「ならば、ミコネ殿は無実でゴザルッ! トリカブトは古来より、暗殺道具として矢毒にも用いられるほどの猛毒。経口摂取ならば、早ければ数十秒、遅くても15分から20分ほどで、中毒症状が現れる……と、本草学の古書にも記録が残されているでゴザルよ!」
高木シオウは、その場にいた男二人に声をかける。
「松田、それとヒカルさん。僕の記憶が正しければ、30分ほど前には、この館にいる全員が大広間にいたはずですが……この場でモエさんが、何かを食べたり飲んだりするのを目撃しましたか?」
「いいえ……」と松田。
「私も見ていないよ」と御堂ヒカルが答えた。
二人の返事を聞いて、シオウは言う。
「不可解ですね……どうやって、毒を盛られたのか?
とりあえず、ミコネさんを疑うのはやめましょう」
怪異撃滅クラブは、抜群の連携で少女を守った。
ミコネは目を潤ませる。
「ヨミちゃん、マツリちゃん……ありがとう」
「ミコネが、犯人なわけ……無いよ」
「ヨミ殿の意見に、賛成でゴザルッ!」
――良かった。
心の底から安堵の感情が湧いてきた。
「ええと、そうだねぇ」と、成り行きを見守っていた様子の御堂ヒカルが、おずおずと手を挙げて、言った。
「ひとまず、ここは警察に通報しようじゃないか。モエさんの死因も、警察の捜査が入ればわかることだろう?」
高木シオウも同調する。
「僕もそう思います。松田、警察に連絡を。
それと……」
シオウは遮光眼鏡に隠れた目を床に落とす。
「一応、救急にも連絡をしてください。モエさんが本当に助からないのかどうか、僕には見えていないものですから」
――警察に通報後のこと。
ヨミは早足で蒼龍館の廊下を歩いていく。
ミコネとマツリは首をかしげる。
意図はわからないが、ついていくしかない。
「……警察が来る前に。
調べておくことがある、かも」
現場の保存をシオウ、松田、ヒカルに任せて――
ヨミはセラの客室の扉を開いた。
室内に入ると、セラは怪訝な顔をする。
「……へぇ。
アンタでもそんな顔すんのね、どうしたのよ?」
「セラ。私に教えてほしい」
「だから、呼び捨て禁止って――」
「ウイチグス呪法典は、本物?」
ヨミが言うと、セラは顔色を変えた。
「まさか、事件が起きたの!?」
「『怪異模倣案件』だよ。
モエが死んだ。
死因は……毒殺かも」
「そういうことね――!」
セラはちっ、と舌打ちして机上の魔導書を見た。
「結論から言うと、この本は近年に作られたものだったわ。パッと見は15世紀あたりのものに見せて手写されてるけど、巧妙なレプリカね。ふざけたことに、一部には羊皮紙ではなく、妙な紙が使われてた」
「妙な紙、でゴザルか?」
「工業的に製造された洋紙――要するに現代の紙よ。
どういう諧謔なんだか!」
私はセラに質問した。
「セラさん、それはつまり……偽物、ということですか?」
「偽物ですって!? とんでもないッ!」
セラは苛つきを隠さずに言う。
「殺人事件が起きたんでしょ? なら、正真正銘の本物に決まってるわ! 怪異撃滅クラブが以前に解決した事件――たとえば例の『エミロム』事件では、正二十面体パズルが単なる装飾物に過ぎなかった。ところが今度はウイチグス呪法典よ。この技巧呪術書は、ある種の科学的原理を魔術的幻想という神秘で覆い隠したもの――けれどもね、そこにはとびっきりの呪詛と『悪意』が込められてるのよ!」
「『悪意』、って――!」と、ミコネはヨミに振り向いた。
「ヨミちゃんが言ってた、
『怪異模倣案件』の定義の一つッ!」
ヨミは険しい表情で頷く。
「『悪意』と『手段』と『魔』……。ウイチグス呪法典はその全てを備えてる……ヤバい代物なんだと、思う」
「ヨミ殿、どういうことでゴザルかっ!?」
「ウイチグス呪法典は魔導書の姿を借りた――
殺人トリック集……なのかも」
殺人トリック集。
ヨミが口にしたその言葉は奇妙な響きをしていた。
一同が言葉を失ったので、セラが引き継いだ。
「殺人トリック……推理小説ではよくあるやつ、でしょ? 密室を作るとか、アリバイを作るとかさ……そういう七面倒くさい殺人に用いることができるような、多種多様なトリックが記されてるのよ――読む人には読める、暗号という形でね。もっとも、アタシにだって、解読できるのはわずかな断片だけだわ」
ミコネが手をあげて質問する。
「暗号って、セラ先輩にもわからないんですかッ!?」
「ええ。きっと、ウイチグス呪法典が読める人っていうのはさァ……ウイチグス呪法典が持つ『悪意』に適応できた人間だけなのよ。これはあくまで、アタシの推理になるんだけど――この本をきちんと解読できるのは、人を殺したいほど憎んでいるという『殺意』を持った人だけ」
ヨミも同調した。
「セラの推理は……きっと、正解かも」
「――アンタも、そう思う?」
「機嫌が悪いときとか、気分が悪いとき、とか……精神がネガティブなときには、何を言われても……何を聞いても……マイナスに捉えてしまうことがある。だから、人を殺したいほど憎んでいるときには……何を見ても……人を殺すための道具に、見えてくるのかも」
「おおっ、そういう言葉なら、拙者も聞き覚えがあるでゴザル。”ハンマーを手にすると、全てが釘に見える”というやつでゴザルな」
「マツリちゃん、それってどういう意味なの?」
「ヨミ殿ーっ」
「人を殺したいほど憎んでいるときには……何を見ても、人を殺すための道具に見えてくる……という意味」
「それ、さっきも言ったやつ!」
「だから、そう言ってるじゃないのよ。で、そういう人がウイチグス呪法典を読むと、書いてあることを全部、人を殺したい気分で曲解して読むことになるでしょ。そうやって読むと、本の暗号が解読できて、そこにある殺人トリックを手に入れることができるってわけ」
『手段』――殺人トリックが手に入る。
『悪意』――元からある『殺意』が増幅される。
『魔』――ウイチグス呪法典がそこにある。
「……やっと、私にも理解できました」
「アンタには、この部屋で話したときに言ったでしょ、ウイチグス呪法典は不滅の怪異だって。アタシが集めた怪異蒐集秘録の種別でも、文句なしのS級に分類しているわ。ただ、そこにあるだけで殺人事件を引き起こす――正確に中身が転写されていれば、偽物だろうと本物だろうと機能は変わらない――アタシたちの生きる現世に実在している、『本物の怪異』よ」
セラの言葉にヨミは首を振った。
「『怪異』じゃない。『怪異模倣案件』だよ。
人間の起こした犯罪なら、解決できる」
「どうかしら? 今回ばかりはアンタにも怪異撃滅は難しいと思うわよ。この本はねェ、『殺意』を持つ者が読みさえすれば、その対象が誰であろうと、本体の『殺意』に寄生して精神を侵略できる。その意味がおわかり?」
「…………っ!」
「アンタは全員を疑わなければいけなくなる……ってことよ」
「たとえ犯人が誰だろうと、私は撃滅する――」
――かも、と聞こえた気がした。
ミコネはヨミの顔を覗き込む。
「ヨミちゃん、大丈夫……?」
「大丈夫。ミコネ、撃滅は私に任せて。
……それと、セラ」
「何よ?」
「その本に使われてた……
他とは違う紙のページ、というのを見せて」
「まぁ、いいけど――」と、セラは本をめくる。
「――って。何これ!?」
ウイチグス呪法典のページは――
洋紙で出来たうちの、一枚だけが破り取られていた。
その後、警察が到着し――
現場検証と事情聴取が始まった。
殺人事件についての聴取が終わった頃のこと。
「アタシたちだけを呼び出すなんて、何なのかしらね」
「さぁ……?」
セラと共に二人だけで呼び出されたのだが、呼び出しの理由はすぐにわかった。
どうやら、殺人事件とは別に――ウイチグス呪法典のページを破り取って破損したのは誰なのか、という犯人探しが始まってしまったらしい。
高木シオウは館内の監視カメラをチェックするように松田に指示したようだ。
松田が疑わしそうな目つきで、私たちに告げる。
「警察同伴の元、監視カメラのチェックが終わりました。館の周辺に不審な人影はなく、外部からの侵入という可能性はありません。また、御堂様の証言では――」
松田に促されて、同席した御堂ヒカルが証言した。
「ウイチグス呪法典が書斎にあったときには、確かに本のページは破かれていないことを確認したよ。つまり、言いにくいのだが……ページが破られたのはセラくん達の客室に移った後、になるね……」
叔父であるヒカルの物言いに、セラが声を荒げた。
「ちょっと、叔父様。アタシたちを疑ってるわけ!?」
「そ、そういうわけではないのだがね」
松田が廊下に設置された監視カメラの記録を見せる。
「ご覧のとおりです。例の本が運ばれて以降――客室に入ったのは、あなた方お二人だけなのですよ!」
「執事のアンタもねェ、なんで、そうやって、叔父様の言葉だけを鵜呑みにすんのよ。もしかしたら、叔父様がウソついて破ったかもしれないじゃない!」
「何だと!? セラくん、それは聞き捨てならんぞ!」
二人が取っ組み合いになりそうなので、慌てて止めに入る。
「セラさん……それは、流石に言い過ぎです!」
結局、身体検査で不審なものが見つからなかったことで解放された。
警察による館内の捜索でも、未だに破かれたページは見つかっていないらしい。
破かれたページが燃やされた可能性も考慮されていたようだが、館内には火気の類は存在しなかった。
廊下を歩きながら、セラはため息をついて、呟く。
「たしかに、アタシもトイレに行ったりとかして、ずっと本を見てたわけじゃないけどさァ……なんなのよ、まったく。ねぇ、アンタ……」
「セラさん、どうしました?」
「ううん、何でもないわ。
っつーか、殺人事件の方が重要ですものね!」
「…………」
そうして――いよいよ、断罪の時が来た。