東京発大垣行き各停 ~寝過ごし名人の珍道中~
人生には、「乗り過ごしたくなかった電車」がいくつもある。
けれど、たいていは気づけば終点。しかも、そこが思っていたのとまるで違う場所だったりする。
たとえば、横浜に帰るはずが、大垣行きの列車に揺られていた――なんてことも、酒の席の帰り道なら、あり得なくもない。
この物語の主人公・健司は、日本酒が大好きで、でも日本酒にめっぽう弱い男。
酒の甘い誘惑と、フレックスタイム制という会社の優しさに支えられながら、ある晩、東京駅から壮大な“寝過ごし旅”へと旅立つことになってしまう。
笑ってしまうような失敗の中に、少しだけ大人の余裕と哀愁。
そして、ちょっとした奇跡のような出社劇。
そんな一夜の珍道中を、どうか笑って楽しんでいただければ幸いです。
さあ、物語は東京駅からはじまります。
終点? それは読んでからのお楽しみ。
佐藤健司は自称「日本酒初心者」。好きだけど、どうにも弱い。毎回飲みすぎては赤ら顔で迷惑をかける、酒席の悲劇のヒーローだ。
「今日は絶対控えめに」と決意したその夜。
東京駅近くの居酒屋で、同僚の田中と山口と3人、ほろ酔い気分で乾杯した。
「これ、美味しいんですよ。ほら、香りが違うだろ?」田中が自慢げに差し出したのは、珍しい地酒。
「お、おう…いただきます」健司、ペース配分は無視してゴクリ。すぐに顔がぽっと熱くなるのを感じた。
「健司、大丈夫か?」山口が目を細める。
「平気平気、まだまだ行ける」健司は意気揚々と追加注文。結果、瓶が3本空く頃にはすっかりフワフワで、話は迷走、声は大きくなり、何故か突然「カラオケ行こうぜ!」の大合唱に。
「よし、横浜まで帰ろう!」と立ち上がった健司だが、記憶はここで曖昧になる。
次に目を覚ましたのは、見知らぬ座席。
「え、ここ…大垣?!」
大垣行きの各停に乗ってしまっていたのだ。しかも「終点まで寝てた」レベルの距離感。
「あれ?横浜は?俺のスマホは?財布は?」カバンをひっくり返し、スマホは充電切れ寸前、財布はどこかに置き忘れたらしい。
「こ、これは…最悪だ」思わず膝を抱えたその時、車内放送が流れた。
『まもなく停車します、大垣駅です。お忘れ物はございませんか?』
「ああ、忘れ物は俺の理性だよ…」健司は自嘲気味に呟いた。
しかし、周りの乗客は静かに寝ている。誰も健司の大声ツッコミに気づかない。これがまた、間の悪いことに。
次の駅で車掌がやってきて事情を聞かれたが、
「うっかり寝過ごしました。日本酒にやられました」と正直に答える健司に、車掌は苦笑い。
終点・大垣駅にて、人生で初めて「終点」という言葉の重みを噛みしめた健司。
「ああ、俺の人生も終点かも…」などと訳の分からないことを呟きながら、ホームのベンチで放心していた。
しかし、突如としてひらめく。
「…あれ?まだ間に合うかも」
──そう、彼の勤務は「フレックスタイム制」。
出勤時刻がある程度自由な職場で、午前10時までに出社すれば問題ない。現在時刻、午前5時58分。
「ワンチャンある!いや、これは乗るしかない!」
新幹線の時刻表を調べると、なんと6時15分発の名古屋行き始発がある。そこから東京まで一気に戻れば??
健司はベンチから跳ね上がった。
駅の売店でコーヒーとサンドイッチを購入し、財布の代わりにスマホのSuicaで支払い。財布はやっぱり見つからなかった。
「よし…今度からスマホだけで生きていこう」
切符を購入し、無事に新幹線に乗り込んだ健司。通路側に座り、熱い缶コーヒーを両手で包む。
「人間って、本気を出せば意外となんとかなるんだな…」
座席のリクライニングをちょっとだけ倒し、再びうとうとする。
午前9時37分、横浜駅到着。
その足で会社に直行し、9時58分に入館ゲートを通過。
セキュリティカードをかざした瞬間、タイムレコーダーが「出勤 09:58」と表示される。
「間に合った…!」健司は、なぜかオリンピック選手のような達成感に包まれた。
社内では噂がすでに広まっており、エレベーターで会った後輩が言った。
「先輩、なんか昨日、関ヶ原あたりまで旅したってほんとですか?」
「いや、旅というか…酔いどれ列車っていうか…」
健司は苦笑しながら、自分のデスクへ向かった。
今日の彼の背中は、どこか一回り大きく見えた。
──財布はなくしたけれど、人生に少しの笑いと教訓を得た男の背中だった。
そして昼休み、田中からLINEが届く。
「今夜、軽く一杯いかが?」
健司はしばらくスマホを見つめたのち、こう返した。
「一杯だけ、な。寝過ごし禁止で。」
END