波の間に間に
時代背景に沿わない言葉を修正しました。
電車は、まだ来ない。
待合室の時計は、針を進めているはずなのに、どこか頼りなく思えた。秒針の音は聞こえず、ただ薄い静寂が空間に広がっている。
外を見れば、日本海が広がっていた。
月は欠け、波は静かだった。日本海にしては珍しく、穏やかな夜だ。闇の底から引き上げられたような光が、さざ波の上をかすかに揺らしている。
旅人は、カバンをベンチに置いた。
次の電車は一時間後。少し長い、取り残されたような時間だった。
ふと、待合室の隅に目を向ける。壁際に、小さな本棚があった。
古びた木製の棚。角のあたりは丸く削れ、使い込まれた跡が残っている。
置かれている本はどれも色褪せ、背表紙はくたびれていた。
その中に、一冊だけ妙に目を引くものがあった。
背表紙の文字は擦れ、ほとんど読めない。それなのに、不思議とそこだけ、他の本よりも輪郭がはっきりして見えた。
理由はわからない。ただ、なにか特別な気がして、手を伸ばした。
指先が表紙をなぞる。布張りの装丁は、長い時間の中で少しざらついていた。ところどころに、薄いシミが滲んでいる。それでも、金箔で刻まれたタイトルの跡は、かすかに光を返していた。
『波の間に間に』。
旅人は、静かにページを開いた。
その瞬間、古びた紙の間から、一枚の手紙がふわりとこぼれ落ちた。
拾い上げる。紙は、和紙のようにやわらかく、少し黄ばんでいる。
折り目の部分は薄く裂けかけていて、何度も開かれ、閉じられたことがわかる。
インクはところどころ掠れ、文字の端が滲んでいる。
淡い指の跡のようなものが、薄く残っている気がする。
それだけではない。
文章の途中、いくつもの単語が黒く塗りつぶされていた。
慎重に読もうと目を凝らすが、そこにはもう何もない。言葉の痕跡だけが、闇のように残されている。
旅人は、紙をそっと撫でた。
書かれたのは、どんな思いだったのだろう。
静かに息を整え、目を落とす。
手紙は、こう始まっていた——。
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拝啓
秋の風が、日ごとに冷たさを増してきました。
そちらはいかがでしょうか。
この地では、朝晩の空気に霜が混じるようになりました。
街路樹の葉はすっかり色褪せ、落ち葉が舗道の端に積もっています。
踏みしめるたびに、乾いた音が響くのがわかります。
貴方がいた頃、この季節が来るたびに、決まって言っていましたね。
「秋の匂いは、過ぎ去るものの気配がする」と。
貴方の言葉が正しかったかどうか、今となってはわかりません。
けれど、今年の秋風は、ことさら冷たく感じます。
頬を撫でるたび、なぜか昔よりも長く、肌の上に残る気がするのです。
ここへ来てから、陽の角度が少し違うことに気がつきました。
夕暮れが長く、夜の訪れは静かです。
風は遠くから吹いてきて、時折、見知らぬ旋律を運んでくる。
——(ここに、黒く塗りつぶされた部分がある)——
日ごとに、空が遠くなっていくように感じます。
それでも、この地には、変わらないものもあるのです。
例えば、夜ごとの風の音。
窓辺に落ちる月の光。
朝、通りを満たす珈琲の香り——。
珈琲といえば、覚えていますか。
あの店のことを。
貴方は、決まって砂糖を入れずに飲んでいましたね。
苦いと言いながら、最後まで甘味を加えることはなかった。
私の珈琲碗には、少しの牛乳がやわらかく滲んでいたのに。
私は今でも、時折そこへ足を運びます。
扉を押し開けると、懐かしい匂いがふっと鼻をかすめます。
店の奥の、窓際の席——貴方がよく座っていた場所は、いつも変わらずそこにあります。
この店の空気は、あの日と変わらないままです。
変わったのは、ここに座る人の数と、聞こえてくる言葉の種類くらいでしょうか。
時折、湯気の向こうに、ぼんやりと貴方の姿を見ることがあります。
けれど、目を凝らすと、そこにはもう何もありません。
今になって、ようやくわかったのです。
貴方が最後まで、砂糖を入れなかった理由が——。
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けれど、珈琲の苦みは、もうすっかり舌に馴染んでしまいました。
貴方のいない時間の中で、何かを変えたかったわけではありません。
ただ、変わっていくものを止められなかっただけなのです。
朝の光が伸びるたびに、貴方との距離が遠くなる気がします。
陽が昇るたびに、記憶がほんのわずかずつ薄れていく。
それでも、ふとした瞬間に思い出すのです。
こちらの空には、鳥の群れがよく飛んでいます。
遥か遠く、どこへ向かうのかわからないまま、ただひたすら風に乗っている。
私は時折、それを目で追いながら考えるのです。
——人は、時間を抱えたまま生きていくしかないのだと。
——(再び、黒く塗りつぶされた部分)——
もしも、この手紙が貴方の手元に届いたなら。
どうか、どこかでそっと読んでください。
風の音が聞こえる場所で。
朝の光がやわらかく差し込む窓辺で。
夜の静けさに耳を澄ませながら。
そして、一度だけでも思い出してほしいのです。
あの秋の日、夕暮れに染まった通りを並んで歩いたことを。
海辺に吹く風の中で、貴方がそっと目を細めたことを。
貴方が今も待っていてくれているかはわかりません。
でも——
(ここで、文字が滲んで読めなくなっている)
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旅人は、手紙を詩集に戻したあと、しばらく指を添えたまま動かなかった。
手紙を読んだ余韻が、まだ指先に残っている気がした。
言葉は霞んでいた。けれど、そこに確かに何かがあった。
旅人は、開かれた詩集の頁をそっとなぞる。
滲んだインクの跡を追うように、目が詩の言葉へと引き寄せられていく。
そこに書かれていた言葉が、手紙の霞んだ最後の一行と、どこか響き合っている気がした。
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詩
波の間に間に
君と歩いた道
黄昏に消えて
波の向こうへ消えて
それでも空は巡り
誰かの影を抱きしめる
風よ、伝えておくれ
あのときの言葉を
—— たとえ遠くても、君の影はこの頁にいる。
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旅人は、静かに詩集を閉じた。
駅の待合室は変わらず静かだった。
時計の針は淡々と進み、遠くから波の音が微かに聞こえてくる。
夜の海は暗く、波は穏やかだった。
窓の向こう、日本海の夜が広がっていた。
月の光は薄く、星々が静かに瞬いている。
旅人はふっと息を吐き、詩集を棚に戻した。
——次の電車の音が、遠くで微かに響いた。