第六話 虚しさは尽きず
部屋に入ると、神は縁側に腰掛けるよう薫子を促した。薫子は会釈をして部屋を通り過ぎ、風光明媚な絶景の広がる縁側に腰を下ろす。
(どうしよう)
コンと軽やかに夜空へ響く鹿威しの音色とは裏腹に、薫子の心の中は不安と焦りでどん底だ。
「先ほどの話、どこまで聞いていた」
「…史さんが、私を村へ返したいという下りからです」
誤魔化したところで神には通用しないだろう。薫子が震える唇で正直に答えると、神は一言「そうか」とだけ呟いた。
薫子は横目で神を見る。彼は何かを考えているようで、まっすぐと揺らぐ水面へ注がれていた。再び鹿威しが軽やかに鳴く。静まった屋敷と庭は、ここではない遠い異世界を彷彿とさせた。
「薫子」
「は、はい」
長い沈黙が続き、何度目か分からなくなった鹿威しの音色が響いた頃。神は口を開いた。
「お前は帰りたいか、自分の家に」
突然の質問に薫子は思わず目を見開く。神は水面から薫子へ顔を向けた。布の覆面のせいで表情は何も見えないが、どこか酷く寂しそうだった。
(ここで頷けば、返してくれるのだろうか。そんな簡単に生贄が人の世に戻って良いのだろうか)
色んな考えがぐるぐると脳内を駆け回る。そんな時、奔走する頭の中から一つ不思議なものが見つかった。
「…どうして、それ程までに寂しそうなんですか」
「は…?」
ポロッと零れる言葉。神も流石に驚いたのか、呆気に取られたような声が返って来る。
そして同時刻、薫子も自分の後先考えない発言に驚いていた。昔から脳と口の間に挟むものが少ない娘だと言われてきたが、ここまで自覚する日が今までにあっただろうか。
(まずい、怒らせたかもしれない)
中々に無礼な発言をした気がする。薫子は急いで神に身体ごと向いて床に手を着いた。
「寂しい、か」
土下座をしようとしていた薫子の耳に届いたのは、怒りの声でも、冷めた声でもなく、ただただ無気力な声。顔を上げると、神は銀色に輝く月を見上げていた。
「もう、この世にも疲れてきた。何千年と繰り返される人間達の取るに足らない抗争や怨恨、賊心、悲憤慷慨、私欲にまみれた卑しい願望。私は奴らを見ていると、どうしようもなく虚しくなる」
月から池へ視線を移す神。泳いでいた鯉が一匹水面を弾いた。薫子はそんな神の独り言にも近い言葉を聞き、心が締め付けられるようだった。
「最初は人の世の濁りを少しでも消し去ろうと、願いや望みを叶えてやった。雨を降らせ、植物を増やし、人が住みやすくなるようにこの地を変えた」
ふわっと風が木々をすり抜け、水面を揺らす。コツンと鹿威しと岩がぶつかり合う音が響いた。
「だが人間達は貪欲だった。叶えれば叶えるほど私に縋り付き、自分の足で進まなくなり、遂には争いを起こした。動植物は次々と息絶え、再び空気は淀みを生み出した」
薫子は淡々と語る神を見て、ふと察しがついた。
(ああ、きっとこの神様は)
人の世を、人間を、とても愛していたのだろう。でも干渉し過ぎた結果、人間の汚い部分を引き出してしまった。それは彼の優しさと、最も相性の悪いものだったかもしれない。
「…随分と、遠い昔の話だ。四千年くらいだろうか」
(また、四千年…)
桜の巨大樹を植えたのも、それくらい前の事だと昼間言っていた。もしかしたら、あの桜の木は人間から貰ったものなのかもしれない。感謝の証として。だから今日に至るまで、ずっと切り倒せなかった。自身の愛情はなくとも、そこには確かに人間達の想いが在るはずなのだから。
「……あの鳥居を一歩でも出れば、外は人の世。外界からは容易に入れぬが、内から外へは好きに行ける」
「え…?」
また沈黙が続いたと思えば、神は神楽鈴の様に美しい声音で薫子に告げる。薫子は一瞬理解できず聞き返した。
「今夜はもう遅い。明日の朝支度をして元居た村へ帰れ。そして忘れろ、ここで起きたこと全て」
「か、神様…」
神は立ち上がって縁側から部屋に入り、衣桁に掛かっていた金の刺繍が美しい羽織を手に取る。そして縁側に正座して座っていた薫子の肩に掛けた。
「神様…!」
「風呂上りだろう。羽織無しで出歩くな。ここは春の気候だが、夜風は体を冷やす」
慌てて立ち上がり、羽織を返そうとする薫子だったが、ぴしゃりと神が言いつける。
大人しく羽織に腕を通し始めた薫子を見ると、神は徐に手を伸ばした。史に切り揃えて貰った髪が、神の細長く美しい指に掛かる。
「え、あれ」
指が触れた瞬間、湿っていた髪が乾いた。さらさらと指の隙間を流れていく髪の毛。
(すごい、一瞬で…)
しかも男達に荒っぽく切られていたので少し痛んでいたのだが、今は髪の質感も元通り以上に良くなっている。
「…行くぞ」
神は薫子の髪から手を引くと、そのまま部屋を通り過ぎて廊下へ出て行った。長い白髪が背中で揺れている。
「どこへでしょう」
薫子は急いでその後ろを追いかけた。
「お前の部屋だ」
「え」
まさか、と頬が赤くなるのを感じる。しかし、そんなわけあるかと自分を律し、表情を元に戻した。百面相もいいとこである。
「ここにいる限り安全だが、人間は些細なことで死ぬ。念のため、部屋に入るまで私が見送ろう」
それに史はお前のことになると五月蠅いからな、と付け足した神は部屋の襖を閉めた。
それから二人は無言で薫子の部屋まで向かった。銀木犀と紅葉が見える部屋に辿り着き、神は振り返る。
「良い夜を」
それだけ伝えた神は来た道を辿った。思わず薫子は神に声を掛ける。
「神様」
その場で足を止めてくれた神。なぜ呼び止めたのか。その理由を自分の中で探ったが、なにも出てこなかった。
「おやすみなさい、良い夜を」
結局ぎこちない挨拶をする薫子に、神は振り返らず「ああ」とだけ返してそのまま歩いて行く。廊下の角を曲がる彼の背中を追うように、月光に反射した白髪がサラリと舞って消えた。
薫子はそれを見送ると、室内に入って布団に倒れ込む。
「明日、村に帰れる」
素直に嬉しい。二度と戻れないと思っていた親兄妹の元へ帰れるなんて喜ばしいことだ。
(母さんたち、きっと心配してる。弟達も…もしかしたら泣いているかもしれない)
次々に浮かんでくる家族の顔や、村の人々の笑顔。帰りたい。帰りたいはずなのに。
「それなのに、どうして」
何故あの寂しそうな大きな背中が浮かぶんだろうか。
自分の着ている羽織を見て、縁側に座っていた神の姿を思い出す。ゆっくりと起き上がり、部屋の隅に置いてあった衣桁に掛けた。純白の生地に施された金の刺繍は、薄暗い部屋の中でも輝いている。
薫子は襟をスッと撫でた後、改めて布団に入り直した。急に襲ってきた睡魔に抵抗せず、目を閉じる。ふわりと香るお香と桜の匂いは、何故か懐かしさを感じる匂いだった。