第五話 史の想い
結局その後は掃除に洗濯、夕餉の支度や風呂焚き等と、村に居た時と同じ様な過ごし方をしていた。薫子は思っていた扱いとは程遠い現実を見て、心の中で首を傾げる。
(まるで普通の暮らしをしているよう)
薫子は本日二度目の湯舟に浸かりながら水面に映る自分の顔を眺めた。ちなみに何故風呂に浸かっているのかというと、史が「今日一日慣れない事ばかりで疲れただろうから」と精神面を考慮してくれ結果だ。察しのいい史には何でもお見通しらしい。
(やってることは同じでも、場所が違うと色々と疲れるんだな)
薫子は肩に手を置いて首を伸ばす。肩が凝りそうだ。
「…私、どういう立ち位置なんだろうか」
今日一日疑問ばかりだなと、薫子は呆れた顔で天井を見上げる。
ずっと死ぬと思っていた。
鳥居をくぐったその時から。
だが実際はどうだろう。見目を整えて貰い、湯舟に浸からせ、食事を与え、着物も着せてくれた。まだ安心できないのが正直な所ではあるが、初めてこの敷地に足を踏み入れた時よりは自分の生への可能性を感じる。
最後の夜になるかもしれないと思う反面、明日の朝日を拝めるかもしれないと薄い希望が巡る中、水面から立ち上った湯気が薫子の目の前を通り過ぎ、木の格子が取り付けられた窓から夜の闇へ流れていった。
風呂から上がると、薫子は着替えや手ぬぐいを畳んで抱え、史の私室へ向かった。
「薫子です」
「はいはい」
史は部屋の中から返事をすると、羽織を一枚持って出てくる。
「湯冷めするといけないから羽織っておきなさい」
「ありがとうございます」
微かに香る金木犀の匂い。薫子はありがたく貸し受ける事にした。
その後、史の部屋から離れたふたりは軽く雑談をしながら通路を歩く。月光が足元を照らしており、明かりが無くとも問題はなかった。
「さあ、着いたわよ」
少し歩いたところで史は足を止める。
「ここは今日から貴女のお部屋。好きな様にしてね」
そう言いながら史は襖を開いた。中は非常に質素な造りで、物は箪笥と文机、座布団、それと火の灯った行灯等が置いてある。しかし、何度も言うがここは神の住まう屋敷。質の良さは並ではない。よく見たら箪笥や文机も中々の一品で、売れば一か月は金には困らないだろう。
(売らないけど)
邪な考えを振り払い、薫子は部屋に入って行く史の背中に声を掛けた。
「……こんな良い部屋、使ってもいいんですか?」
「いいのよ。まだまだお部屋は困るくらい余ってるの」
史はコロコロ少女の様に笑うと、押入れを開ける。中には敷布団や掛け布団入っていた。
「あ、布団なら私が」
抱えていた着物と手ぬぐいを畳に置いて、敷布団を抱える史の元へ駆け寄って代わる。
「あらそう?ありがとうね」
史は笑い、最近腰が悪くなってきてねぇと素直に薫子へ譲ってくれた。薫子は押入れに入っていた布団一式を出して床に敷いていく。予想はしていたが、この布団もかなりの高級品だ。肌触りやふかふか具合がそこらの物とは全然違う。
「…いい匂い」
「今日たくさんお日様に当てたからねぇ」
思わず出ていた薫子の言葉に、史は微笑ましそうに答えた。慌てて口を押さえた薫子は、居心地悪そうに視線を逸らす。
「お布団も敷き終わったし、私はそろそろ行こうかね。ゆっくり疲れを取るんですよ」
頬を薄っすらと染めた薫子を見た後、史は空になった押入れの襖を閉じた。
「はい、おやすみなさい。……史さん」
「おやすみなさい、薫子さん」
薫子は史に軽くお辞儀をして見送る。パタンと襖が閉まり、部屋に静寂が流れた。
薫子はふう、と息を吐くと衣桁に史から貸してもらった羽織を掛ける。そして襖の近くに置いた着替えの中から使用していない手ぬぐいを引っ張り出した。
(今日一日過ごして思ったけど、どうしても悪い人達には見えない)
薫子は髪に残った湿気を拭きとりながら、史と神を思い出す。そして桜の木の下で見た神の姿が頭をよぎった。
(…神は人間じゃないけど、でも)
確証はない。だがどこか、人と似た何かを持っているような気がした。
薫子は短くなった髪を拭き終わると、箪笥から新しい手ぬぐいを取り出し枕に掛ける。部屋を照らしていた行灯の火を吹き消し、薫子は布団に横になった。
夜も更け、月が空高く上った頃。布団に潜っていた薫子は、慣れぬ環境に寝付けずにいた。
(疲れているのに、眠れない)
薫子は起き上がる。こうしていても仕方ないので、気分転換がてら水を飲みに行く事にした。
薫子は布団を整え部屋から出る。外は月明りが美しく、銀木犀と紅葉が光を反射するように揺れていた。秋の風景に丁度よく、遠くでリンリンと虫が歌っている。
薫子は襖を後ろ手で閉め、台所へ向かった。今日一日屋敷の中を回っていたので、よく使う場所の位置は把握している。今になって物覚えの悪くない自分の脳みそに感謝した。
(というか、こんなに屋敷を広くして一体どうするつもりだったんだろう)
歩きながらため息を吐く。もしかしたら昔は他にも同居人が居たのかもしれない。そこでふと足を止める。
(今まで、少なくともあの常識知らずの馬鹿な村の連中は、生贄と称してここに送り込んでいた筈)
一日屋敷に居たが、この社の主である神と、老婆の史しか見かけていない。どういうことだろうか。
顎に手を当てて考えていると、遠くから史の声が聞こえた。
(あっちは確か)
薫子はゆっくりと近寄る。声が聞こえたのは神の私室からだった。こんな夜中に何の話をしているのだろうと疑問を感じたが、盗み聞きをするのはよくないと思い直して立ち去る。その時。
「私は、見ていられませんよ」
史の声が神の部屋に広がり、薫子の耳にも届く。その声音は悲しそうだった。
「あんな良い子が、他人の身勝手な理由で捧げられて、家族と引き離されて…」
どうやら薫子の事についての話らしい。薫子は思わず足を止めて振り返る。行灯の薄明るい光が少し空いた襖の間から漏れていた。
「可哀想で、可哀想で…。私は、薫子さんを親兄弟の元へ返してあげたい」
史の言葉が、声が、薫子の心にスッと入って溶けていく。その途端家族の顔が思い浮かび、目頭が熱くなった。
「……私は」
神の神楽鈴のように美しい声音が聞こえる。何かを言いかけた神だったが、間を置いて「いや」と辞めてしまった。
「それについて、薫子とは私が話をしよう」
(え?)
薫子はぎょっとする。布が擦れる音と共に「薫子さんはもう眠っていますよ」と史が制止を掛けた。
「問題ない、そこにいる」
(しまった)
廊下の角で肩を揺らす薫子。襖が開き、神が部屋から出てきた。月光に照らされた長い白髪は銀色に輝き、さらさらと風に舞う。
「薫子さん…」
その後を追って出てきた史の顔を見て、薫子は胸がいっぱいになった。
「史、お前は部屋に戻れ。私はあの娘と話をする」
「承知いたしました。茜鶴覇様、お休みなさいませ」
「ああ」
史は神にお辞儀をした後、薫子に微笑み背を向ける。
その背中が角を曲がって見えなくなると、神は薫子へ視線を向けた。
「部屋へ」
「…はい」
盗み聞きをしていた事を怒っているのかもしれない。不安と後悔が脳内を過り、薫子は冷や汗を頬に伝わせる。神は薫子の横顔を見下ろすと、髪を靡かせて部屋へ入って行った。