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桜咲く社で  作者: 鳳仙花
3/7

第三話 手首の痣

 



「じゃあ、ゆっくりね」

「はい」

パタンと閉まる湯殿(ゆどの)の扉。薫子はふと自分の状況を思い出すことにした。

 (さかのぼ)る事四半刻(三十分)前。史の部屋に案内してもらい、髪を整えていた薫子。よく考えてみると、自分が神の御前(おんまえ)においそれと出られるような身なりをしてない事に気が付いた。生贄用であろう白の着物は作りが荒く、土下座を強いられたことによって砂埃で酷く汚れている。山を登って来たという事もあり、汗もかいていた。

 薫子はこれはまずいと思い、史に井戸を貸して欲しいと交渉したのだが、その結果がこれである。

(湯殿なんて、初めて見た)

風呂は夏場だと二日に一度。冬場は三日に一度しか入らない上に、大体が水で肌を擦って洗う程度だ。流石に冬場はぬるま湯を釜で沸かして浴びるが、湯舟(ゆぶね)というものが村に無いので存在は知っていたが、浸かったことはない。湯舟は湯殿が無ければ意味をなさないので、作ろうと思ったら同時に建てねばならないのだ。しかし、そんなに簡単に造れる代物ではない。半年分の生活費をつぎ込んで完成するかどうかというものである。そんな贅沢品が薫子の目の前で、もわもわと湯気を立ち昇らせていた。


 そうして現在、冒頭に至るのである。

 薫子は湯舟から桶で湯を(すく)い、頭や体を擦って洗い、桶の中に入っていた白い塊を手のひらで撫でた。史から貰った石鹸はよく泡立ち、髪と体に着いた埃は瞬く間に綺麗になっていく。

(石鹸というのは本当にすごいんだな…)

湯を肩に掛けながら横目で泡の残る白い塊を見た。石鹸とは湯殿と同じくらい高級品で、庶民が手にすることはまず無い。大方どこかの貴族の奉納品なのだろう。すん、と肌の匂いを嗅いで感動した後、薫子は湯舟に浸かった。初めて浸かる湯舟はとても気持ちが良い。だが、ふと思う。

「……これから、どうなるんだろう」

一周回って冷静になった薫子は、自分の状況に疑問を感じた。

 一般的に生贄というものは神の手に渡ったところで死ぬと言われている。だが実際は何故か身を案じられ、風呂にまで入れてくれている。事実と噂にはかなり大きな誤解があるのかもしれない。少なくとも、神の手に渡った時点で命を落とすというのは間違っているようだ。

(その後は、知らないけど)

あくまで鳥居をくぐった時点までの話である。

 薫子は家族の顔を思い出し、不安を抑えるように自身を抱きしめた。心細さは消える事はないが、幾分(いくぶん)かマシになったと思う。薫子は浸かったばかりの湯舟から上がると、手ぬぐいで体を拭き上げた。


 風呂から上がると、史がワクワクとした面持ちで薫子を待っていた。その背後には薄柳色の着物が衣桁(いこう)に掛かっているのが見える。

「薫子さん、着替えるわよ」

そう言うなり史は薫子に着物を着せ始めた。

 着物の色と薫子の顔に合うように帯を決め、唇に紅を引き、髪を乾かして椿油を塗りこむ。されるがままの薫子はただただ外の景色を見つめていた。

 「できたわ。うん、とっても似合ってる。…私に孫が居たらこんな感じなのかしらねぇ」

「そんな、私なんかが滅相もない…」

着付けを終えた薫子は、薄柳色の着物に白の帯を締めていた。どちらも無地だが美しい生地がふんだんに使われている。

 この着物は史が若い頃に着ていた物らしい。何十年も前の物なのにほつれどころか、色も()せていない。手入れされている所を見ると、史の物持ちの良さと、物に対する身構え方がよくわかる。

 「うーん、少し味気ないわねぇ。……あ、そういえば」

史は薫子の頭から爪先まで見ると、頬に手を当てて首を傾げた。その直後、何かを思い出したように箪笥(たんす)の引き出しを漁る。

「良かった、壊れてないわね」

細長い木箱を開けて中身を確認した史は、薫子の元へ戻ってきた。取り出したのは、赤が美しい梅の花の(かんざし)である。それを薫子の帯の間に挿し込んだ。

「これは…?」

「あげるわ。今は髪が結えないから帯にしか挿せれないけど…」

史は切り揃えられた薫子の髪を撫でる。薫子は最初返そうかと思ったが、史の満足そうな顔を見たら返せなくなってしまった。

 「さあさあ、支度も終わったことだし、茜鶴覇様に挨拶しに行きましょうかね」

「…はい」

史はそう言うと、「少し待っててね」と残して部屋を出ていく。薫子は茜鶴覇という名前を聞いて、一気に現実に引き戻されたような気がした。

 この先自分がどういう扱いを受けるのか、どういう生活をしていくのか、そもそも明日を迎えられるのか。何一つ、想像がつかなかった。

(もしかしたら、身綺麗にした生贄を()っているのかもしれない)

だとしたら、ここまで世話してもらっている理由は説明ができる。

 ここの神が人を喰うかどうかは定かではないが、実際居るには居る。こういった生贄という文化だって、地域によっては血肉を捧げるという意味合いで行われている場合が多い。その名の通り、生きた贄という事だ。

「……」

自分の(はらわた)が広がる様を考えたら、自然と背中を冷たい汗が流れていく。

(死にたくない)

薫子は膝をつき、自分の震える腕を抱きしめた。



 「お待たせ、準備できたわよ。遅くなってごめんなさいね」

少しして、盆に急須と湯呑を乗せた史が迎えに来た。薫子は「いえ、大丈夫です」と言って立ち上がる。

「どうかした…?」

「え、あ、いやちょっと緊張してしまって」

パッと思いついた事を言うと、史はコロコロと笑った。

「仕方ないわよ。神様と会うのに緊張しない人なんて滅多にいないと思うわ」

「…そうですよね」

薫子は史の後ろを着いて部屋を後にする。今にも不安と恐怖で逃げ出してしまいたい気持ちを抑え、黙って歩き続けた。

 何度目かの角を曲がって進んでいると、美しい鶴が描かれた襖の部屋に辿り着く。史は一旦盆を床に置いて正座をした。薫子もそれに習い、史の一歩後ろで正座をする。

「茜鶴覇様、史でございます。お茶をお持ちしましたよ」

史の優しい声音が襖を抜け、部屋に広がる感覚がした。一瞬()が空いてから「入れ」とだけ返答が返ってくる。鳥居の前で聞いたあの神楽鈴(かぐらすず)の様に美しい声だった。

 「失礼しますね」

史はスッと無駄のない所作で襖を開け、軽く手を着いてお辞儀をすると盆を持って部屋に入って行く。薫子も慌ててお辞儀をした後部屋に踏み入った。

 「…」

入った先は、思っていたよりもずっと普通の間取りだった。他の部屋と違いがあるとすれば少々広いという事ぐらいである。とはいえ柱や襖、天井に至るまで全て美しい造りで構成されていた。やはり神の住まう部屋というだけある。

 開いた障子の先には、太陽の柔らかい日差しがさんさんと当たった縁側があった。そこから見える景色は絶景というに相応(ふさわ)しく、青々とした木々が手入れされた状態で(しげ)り、中央には涼しげな池がある。その中では金色の鯉が三匹泳ぎ、鹿威(ししおど)しと流水の音が心地よく部屋に響いていた。

 「茜鶴覇様」

見とれていた薫子はハッとして史の方を振り返る。文机(ふづくえ)に向かって正座して向き合い、筆を動かしている神と、急須から湯呑に茶を注いでいる史が見えた。

「ああ」

筆を置いた神は湯呑を受け取り、覆面をずらして口に運ぶ。その瞬間、薫子と目が合った。いや正確には、あったような気がした。覆面をしている(はず)の神の視線が、なぜかよくわかった。

「……」

ジッと目を見つめてくる神に、薫子はどうしたらいいのか分からず見つめ返す。

(下手に視線を外せば何が起こるか分からない)

生唾が喉を通り、冷や汗が頬を伝った。まさに蛇に睨まれた蛙である。

 そんな薫子を見た後、湯呑を文机に置いた神は口を開いた。

「女」

「はい」

「名は」

「…薫子です」

短く答えると、神は「そうか」とだけ返した。

「薫子、ここに座れ」

神が指さしているのは、彼の目の前。正座した史の真横だった。

「…はい」

薫子はがちがちの体に(むち)を打って立ち上がり、襖の前から移動する。史は「あらあら」と口を押さえて少女の様に笑っていた。正直、何がそこまで可笑(おか)しいのか薫子には分からない。

 神の目の前に着き、正座をする。鳥居の前でも思ったが、やはり背丈が大きい。六尺と五寸(193cm)程あるだろうか。覆面で表情が一切分からないということも相まって、不気味さが一層強まる。

 「手を出せ」

「手…?」

薫子が右手を出すと「両の手だ」と言われたので、慌てて両方差し出した。その手首には、一日中きつく締め付けられていた縄の跡がくっきりと(あざ)としてそこに浮かんでいる。

(一体何を…)

神は薫子の手を下から()えるように持つと、親指で痣を撫でた。すると不思議なことに痣は跡形もなく消え、本来の肌の色が戻る。

「えっ」

目を見開き顔を上げると、思いの(ほか)近づいていた神の顔が視界いっぱいに広がった。美しい絹のような白髪(はくはつ)が薫子の手に滑り落ち、桜とお香の香りが鼻を(かす)める。庭から入ったそよ風が覆面を揺らして、神の口元が(あらわ)になった。

「…もうよい」

神はゆっくり薫子の膝に手を下ろすと、スッと身を引く。薫子はもう一度自分の手首を見てから、急いで床に額を付けてお辞儀をした。

「ありがとうございます」

「ああ」

神はそれだけ答えて再び筆を()る。微笑ましそうに見ていた史は、よっこいしょと掛け声を呟いて立ち上がった。

「用も済んだことだし、そろそろ行きましょうか」

「はい」

薫子はパッと立ち上がり、史の後に続いて部屋を出る。廊下に出て正座をした後、入室時同様お辞儀をして「失礼しました」と声を掛けた。両手で襖に手をかけて引く。

 襖を完全に閉めるその瞬間、悩まし気に神が額を押さえているのが見えた。


 



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