《エピローグ》
「しまったな……」
うっかりしていた。駅前通りの雑踏を歩きながら、俺は頭を掻く。日は数時間前に暮れていて、街には夜の帳が下りている。
明日は新人戦の準々決勝。夏に行われた大会での優勝という結果がまったくのまぐれなんかではないと証明するための大事な試合。この日のために自分の足りないものを磨いてきたつもりだ。どんなに隙のない戦略を立てたとしても、実践出来る力がなければ、それは絵に描いた餅に終わる。
だから、あまり得意ではないサーブに関しては朝夕で500本、コースを狙う練習を課したし、ボールに対する反応力を上げるために、1歩目の意識をとことんまで追求した。穴という穴を無くし、どんな状況に陥っても対応出来る力を養ってきた。あとは、やるだけ。
だったのだが、昨日ラケットのガットが切れてしまって、ガットの張り替えを行きつけのショップに頼んでいたことを、すっかり忘れていたのをとんと思い出した。
スペアのラケットは2本あるものの、やはり最も慣れ親しんだラケットで大一番を迎えたい。何で俺はそんな大事なことを忘れていたのだろう。一生の不覚。
「まあ、今日の内に思い出せたのだからよしとするか」
気を取り直して歩を進める。ちょうど社会人の帰宅する時間帯のためか、駅に向かって逆行する俺は周囲の空気を読んでいないみたいでいささか居心地が悪い。が引き返すことは出来ないのでこのまま進むしかないのだが。
ショップまであと500メートルくらいになったところで人混みを抜けた。視界が開ける。人垣に溜まっていた熱気からも解放されてひんやりとした空気に包まれる。横断歩道が目の前にあった。車は疎らであったが、赤信号のために仕方なく立ち止まる。
時間は……大丈夫。まだ20時前だ。閉店は22時。あと2時間もあるのだから余裕で間に合う。
「……ん?」
ふと視線を携帯電話から前方へと向ける。女の子がひとり、こちらへ向かって歩いてくるのが見えた。俯き加減でその顔を窺い知ることは出来ないが、小学生……いや、中学生だろうか?
その背丈から察するとどちらか判断に迷う。ジャージ姿で肩にはスポーツバッグを掛けている。
部活の帰り、とかだろうか?こんな時間まで熱心な子だなと思った。
人が疎らの中、その女の子だけがこちらに向かって歩いてくる。
何故だか分からないが、その子に目を奪われていた。スポーツをする者として同種の匂いを感じたからだろうか。一流選手はその身から見えない〝気〟を発するとよく言うが、この子も同じように何かを発しているのだろうか。ついぞ分からないが、俺の視線は女の子に釘付けだった。
女の子の足取りは軽いとは言えなかった。だいぶ疲弊しているのか、どこかおぼつかない印象を受ける。相当ハードな練習を積んでいるのだろうか。大丈夫かな……?
思わず心配してしまう。
俺との距離が縮まっていく。
けれど、交わるまでにはあと数分を要する。横断歩道の歩行者専用の信号は依然として赤のままだった。
……やっぱ小さいな。
横断歩道の手前まで来て、ようやくお互いの身長を測れる。実際は中学生だとしても、小学生と言っても疑われないほどの華奢な肢体。こんな時間まで外を出歩いてちゃ危ないよ、なんて言ってあげたくなる。余計なお世話だが。
そんなことを思っていると、不意に女の子は予期せぬ行動に出た。
立ち止まるかと思われたところで止まらず、女の子は歩みを止めなかったのだ。
「お、おい!!危ないぞ!!」
声を上げるが女の子は俺の声に気づかない。俺はふと左右の車道を見やる。トラックが走って来ていた。
おい、冗談だろ……?
思わずにはいられない。このまま行くと、女の子はトラックに撥ねられる。
刹那、俺は飛び出していた。無我夢中。一心不乱。ただ助けなければというその一心で駆け出していたのだ。
「……ぇ?」
目が合った。とろんとして今にも眠たげな眼がはっと開かれる。澄んだ瞳。まるで、この世の穢れを知らない清純さを宿したような光を発している。
守らなければ、と思った。この光を絶やしてはならない。
俺は委細構わず、女の子を抱き留める。頭を保護するようにしっかりと抱きすくめる。
コンマ数秒の間にけたたましい警告の音が聴覚をこれでもかと刺激し、未だかつてない激烈な衝撃が身体を貫いた。
あ……れ……。
意識は辛うじてあったが、身体を動かすことはままならず、呼吸さえも満足に出来ない。人の気配を感じるが、感じるだけで助けさえも呼ぶことは出来なかった。周囲のあちこちから声が聞こえてくるものの、それはまるで他人事のように遠い場所から聞こえているようだった。断崖絶壁の一端に手を掛けてしがみついているみたいに、意識は今にも飛んでしまいそうで、途方もない恐怖感に煽られる。
このまま意識を手放したら2度と帰って来られないんじゃないか?
冗談じゃない。絶対に俺は帰るべき場所へ帰るんだと強く心を持つ。
けれど、それでもやっぱり、身体を襲ったダメージには抗い切れない。いつの間にか到着していた救急隊員のやり取りから、病院の都合で俺と女の子は別々の場所に搬送されることを朧気ながら聞いたのを最後に、意識は混沌の闇に喰らい尽くされた。
「……ん」
唐突に意識が浮上する。
あれ……今、俺は……。
光が差して瞬間目が眩む。気だるい息を大きくゆっくり吐き出す。
「あ、目が覚めました?」
ふふっと微笑む陽飛の姿が目の前にある。現状を把握するまで数秒を費やした。俺は小塚運動公園のベンチに陽飛と並んで座っていた。
「ごめん、寝てた」
「だいぶお疲れみたいですね。何か寝言も仰ってましたけど、夢でも観てたんですか?」
「マジで……?いや、覚えてないな。何か観てたような気はするけど……」
滅多に言わないだろう寝言を聞かれたことで、気恥かしさに身を焦がしながら答える。目を覚ます直前まで確かな記憶があったように思うが、目を覚ました途端にすべて霧散してしまったようだ。〝泡沫の夢〟とは誰が言ったのだろうか。言い得て妙。
まあ、夢なんてそんなものだろう。思い出そうとするのは骨を折るだけになりそうなので諦めることにする。ただ、とても大切なことだった気がするので、覚えていないことがひどく惜しい気がした。
「ありがとうございます」
「ん?」
不意に畏まり礼を述べてくる陽飛に、はて何のことやらと首を傾げる。
「智花を助けて頂いて」
「ああ」
あの日から1ヵ月余りが経っていた。今でこそ思うが、よく無事だったなと他人事のように思えてしまう。奇跡としか言い様がなくて、全部夢だったんじゃないかとさえ思ってしまう。
……帰って来れたんだな。
しみじみ思う。こんな穏やかな時間を過ごしていられることが何だか不思議な気分だ。
「そんな畏まらなくたっていいって。みんなとも約束したし、あの時は無我夢中だったから。正直、運が良かった」
「……何か妬けます。さすが〝運命の人〟。智花の執念には頭が下がります」
陽飛は眦を下げ、慈しむように俺を見やる。
「え?それってどういうこと?」
「あれ?智花から聞いてませんか?」
「特に何も……」
何やら物々しい単語を耳にして突っ込む。そんな大それた言葉、漫画やドラマの中以外で初めて聞いた気がする。
「えっと、智花が高梨さんのことをご存知だったお話はお聞きになりました?」
「うん、それは教えてもらった」
それも命の危機に瀕したとんでもない状況で。
「智花、高梨さんのこと、ずっと探していたんです」
「え?」
俺のことを探していた?そんな話は初耳だった。
「私たちと〝シューティング・スターズ〟としてバスケをするようになって、その休憩時間とかに携帯で熱心にネット検索してることがあったんです。何を調べてるの?って聞いたら『ちょっとね、探してる人がいるの』って。その時は詳しく教えてもらえませんでしたが、間違いなくそれ、高梨さんのことですよ」
「……マジか……」
「マジですよ。その時、真由が〝運命の人〟だーっ!って勝手に大騒ぎしたりしていましたが」
当時のことを思い出してか、陽飛はクスリと笑う。
「最初は『雲を掴むみたいな話だから』ってほとんど何も教えてくれなかったんですけど、徐々にその人がテニスをやっていた人で大会にも優勝したことがあるだとか教えてもらえるようになって」
そうか。みんな知ってたのか。
合点がいく。だからあの時、俺のラケットにさも当然の反応をしたのか。
「でも、高梨さんに辿り着くまでには至らなかったみたいですね。一時期、智花が落ち込んでいる時期もありました。……今思えばたぶん、高梨さんのお怪我のことを知ったからだと思うんですが。それでも、智花は諦められなかったみたいですね。一時の充電期間を経てまた再開してました。高梨さんが見つからないまま、結局就職活動の時期になってしまったんですが、そんなある日、私にこう言ったんです。『その人、県内の企業に就職したらしいことまで分かったの!』って。それも凄く興奮したように」
「……え?それって……」
何となく察する。智花の次なる行動。
がしかし、まさかそんなこと、普通するか……?
考えたとしても、現実的に考えて着手までには至らないだろう。それくらい、言っちゃ悪いが馬鹿げている。
「ふふ、高梨さんもうっすら分かりましたよね?智花、県内にある企業に手当たり次第、片っ端からエントリーしだしたんです」
「……冗談、じゃないんだよな」
まさか、という想いが強すぎて乾いた笑みを浮かべる。陽飛はこくりと頷いた。
「そう思いますよね、普通。どうしてそこまでって。でも、智花は真剣でした。エントリーシートを何枚も書いて、会社訪問を何十件と当たって……ようやく高梨さんを見つけたんですよ」
「……」
思うような言葉が見つからない。事の大きさに圧倒される。何も言えないでいると、陽飛は窺うように口を開いた。
「……引いちゃいました?」
言ってはいけなかっただろうか、と陽飛は少しばかり後悔を滲ませる。俺は笑い飛ばした。
「いや、そんなことないよ。まあ、正直驚いたけど。……絶対勘違いしてると思うんだけどなぁ」
思ったままを答える。過去というものは振り返った時、大抵美化される傾向にあるけれど、これはその典型だと思う。俺なんて大した人間でないことは自分が1番良く分かっている。
けれど、陽飛はゆっくり首を横に振った。
「そんなことありません。智花は間違っていないと思います」
「そうかなぁ……」
きっぱり断言する陽飛に、何となく照れ臭くなって俺は頬を掻いた。
「ま、強いて言えば……バスケをやっている時みたいな傾向が見受けられるので、もしかしたらある種の〝魔法〟に掛かってしまっているかもしれませんが」
「ま、魔法?」
陽飛の突飛な言葉に面食らう。陽飛は意味深に微笑むだけだった。
「さてと……そろそろ交代のようなのでコートに行きますね。やっぱり、こうやって大人数で集まると試合も出来て楽しいですね」
陽飛はすっと立ち上がり、アキレス腱を伸ばしたり簡単なストレッチをする。
陽飛の言う通り、3面あるコートではバスケの試合が行われている。と言っても、練習の延長線上の意味合いの試合だが。
〝シューティング・スターズ〟の面々と〝ムーン・ドリップス〟の面々が一堂に会していた。あの試合の後、定期的に合同練習や試合を行っている。今日は休日ということもあって午前中の早い時間帯から開始している。もうすぐお昼時だ。
「では、行ってきます」
陽飛は軽やかな足取りでコートへ駆けていった。
「……」
「なぁに黄昏てんだよ?」
陽飛の後ろ姿を見送っていると、聞こえるはずのない声が聞こえてきた。俺はゆっくりと振り返る。
視点が合う前に軽い衝撃に頭を揺さ振られた。
「痛ってぇ、いきなり何すんだよ……」
「勝手に人を殺すな!」
「いや、意味分かんないし」
問答無用で引っ叩かれた。地味に痛い。
「嘘だね。でなけりゃ、あんなマジな顔で『お前、生きてたのか?』なんて聞きっこねぇだろ?」
勝ち誇ったかのような、挑戦的な笑みを浮かべるのは他ならぬ草野。
「……っつーか、それってお前にも責任あるだろ。あんな音がすれば、誰だって勘違いするってぇの!」
草野からの口撃を受けつつ反撃に転じてみせる。凶悪犯を追っているかもしれない状況で銃声がすれば誰だって最悪な場面を想定するだろう。おまけに、その後で何度電話を掛けても繋がらなければ尚更だ。
「まさか、それが全部刑事ドラマの音だったなんて誰が思うか!紛らわしいったらないわ!」
「うるせー!あれはテンション上げるための儀式みてーなもんだ!とやかく言われる筋合いはないね」
ふん、と草野はそっぽを向く。
テンション上げるためって……刑事が犯人に撃たれて殉職する場面なんて観たら、逆にテンション下がるんじゃないのか?
突っ込もうかと思ったがやめる。せっかくの穏やかな休日が台無しだ。こんな言い争いなんてしているだけ無駄。そもそも、草野だってそんなつもりじゃないはずだ。草野が無事だったのだから何だっていい。
……こいつには口が裂けても言わないが。
「……良かったな」
「ん?」
言い合いが終息し沈黙が流れかけたところ、草野がぽつりと言った。どうやら本題らしい。
「智花ちゃんのこと。お前こそ、大変だったじゃんか。あんな事件に巻き込まれちまって。よくもまあ、助かったと感心する。悪運強いな、お前」
「そうだな」
にやっと笑う草野に、ふっと笑みを返して首肯する。
正直、あの時死を覚悟した。爆弾の爆発に巻き込まれても死、4階の高さから地面に叩きつけられても死……四面楚歌の状況で選んだのは後者だったが、俺と智花は無事生還することが出来た。
俺たちが飛んだ場所に、偶然にも美術品を収めるために使用されていたと思われる衝撃吸収用のマットレス等が詰められた大型コンテナがあり、軽い打撲程度で済んだのだ。窓ガラスを突き破る際に、少しばかり裂傷を負ってしまったがそのくらいどうってことはない。正直、信じられない。〝砂時計〟の呪いを断ち切ったのだから。
「それに、病院に行ったおかげ……と言っちゃあ言葉が悪いけどさ、本当に良かったよな」
そして、もうひとつ。思いもがけないことが起きた。
爆発のショックで気を失った俺たちを受け入れた病院は、奇しくも俺の選手生命の終焉を告げた場所だったのだが、検査を受けていく中でひとつの事実が発覚した。
俺の身体にはどこにも異常が見当たらなかったのだ。
最初、その意味がよく分からなかった。今回の爆弾事件で気絶したために、頭やその他諸々の検査をしたのだから、それに関して異常がないのは感覚的に当たり前だとも思ったのだが、違った。
言葉の通り、身体のどこにも異常がない健康体そのもの。
俺の肩は壊れてなどいなかったのだ。
「今更言われてもなぁ……」
率直な感想。高3の事故から、かれこれ7年のブランクははっきり言って重すぎる。失った時間は2度と戻っては来ない。ライバルたちにも圧倒的な差をつけられてしまっている。
医者の言葉を鵜呑みにしたのがいけないと言うのであれば、俺は何を信じたら良かったのだろうか。
当時、俺を診察した医者は1ヵ月前に医師免許詐称にて逮捕された。
後から知ったことだが、1度実家から掛かってきた電話はニュースで流れたその事件を俺に教えてくれようとしたものらしい。今更感満載だが。
「……」
「何だよ?」
頭の後ろで手を組みベンチに凭れている俺を、草野は無言ながらいつものにやついた顔で注視してくる。気持ち悪い。
「素直じゃねーな、ホントに。……満更でもない顔してるぞ」
「バレたか」
頬杖をついて呆れたように言う草野に観念する。
確かに、ブランクは重い。たぶん、現役時代に培ってきた技術のほとんどは失われてしまったことだろう。
でも、構わない。無くなってしまったのなら、もう1度やり直せばいい。身体が動く限り、情熱が絶えない限り、何度でも挑戦し続ければいい。かつて、5年もの空白を余儀なく課されながらも、再び自由を取り戻したあの女の子のように。
「それにしてもさ」
不意に真面目な声音で草野が切り出した。
「比奈子ちゃんって不思議な子だよなぁ。あの子がお前らの第一発見者で、救急車を要請したんだろ?」
「ああ、そう聞いてるけど」
どうやら、そうらしい。話によると、飛び出していった俺は比奈子に尾行されていたようだ。事の顛末を把握した比奈子は、携帯電話の通じる場所まで移動して連絡をしてくれたのだとか。
全然気づかなかった。助けてもらっておいてなんだが、ここまで来るとちょっとだけ畏怖せざるを得ない。ちなみに、一緒に警察も呼んでくれて犯人はあっけなくお縄になった。
「今、何の仕事してるんだろ?あの能力、警察に是非ともスカウトしたいもんだ」
「結局、鬼塚には逃げられちまったしな」
「それを言うなよ……。けっこう堪えてるんだから。くそ、次は絶対に逃がさねぇ!」
苦虫を噛み潰したような顔で草野は右手の握り拳を左の掌に打ちつけた。
草野は鬼塚を捕まえることは出来なかった。そもそも、当たりをつけていた潜伏先は警察の突入時にはもぬけの殻だったらしい。草野の気持ちを慮ると口には出せないが、あまり危険なことに首を突っ込んで欲しくはなく、そんな凶悪犯とやり合う事態にならなくて良かったとさえ思ってしまう。
助けを求めた自分を棚に上げておいてなんだけど。老婆心がすぎるか。
「あーあ、賭け、負けちまったな」
徐に、草野がこれ見よがしに言った。本当にわざとらしい。ほとんど棒読み。顔からして悔しさの欠片も見当たらなかった。
「はいはい、お疲れ様でしたー」
なので、俺も相応に適当に返す。草野はいじけたように唇を尖らせた。
「何だよ、それー。お前、勝ったんだからもっと勝ち誇れ」
「いや、別に勝ったとかじゃないだろ。賭けなんてどうでもいいし」
「よくねぇって。男と男の約束だ。約束は守る。んで?お前は何が望みなんだよ?」
言ってみ、と草野は俺の言葉を待つ。
「まあ、そこまで言うなら……けど、まだ分かんないよ。とりあえず、保留ってことでもう少し時間をくれ」
願い事なら、一応ひとつ、あるにはある。
でも、さすがにそれはまだ早すぎる。だから、権利を行使するのはしばらく待ってもらうことにする。〝鉄は熱いうちに打て〟と言うけれど、焦ることなんて何もない。
だって、未来はまだ始まったばかりなのだから。
「真人さん!」
柔らかな木漏れ日を浴びながら、智花があくせく小走りで駆けてくる。
「あれ、交代?休憩の時くらいそんな走らなくても」
「あ、それもそうなんですが」
俺のすぐ傍ではたと止まり、智花は声を潜めた。
「真人さんの練習相手の方、先ほどからコートでお待ちになっているようですが……」
「え」
智花に言われてはっと気がつく。テニスコートには1人、黙々とサービス練習をする巨漢な男子がいる。しまった、休憩時間とっくに過ぎてた。
「ありがとう、智花!ちょっと行ってくる!」
ベンチ脇に置いてあったラケットを手に取り、コートに向かって走り出す。
あの爆発を乗り越えたのは俺と智花だけじゃない。フレームをボロボロに傷つけながらも、こいつはまた俺の手元に帰ってきた。幾多の死線を一緒に潜り抜けてきた相棒はこれからも戦い続けてくれる気満々で非常に心強かった。自然と握り締める手に力がこもる。
「はい!ここから観てますね!」
「頑張れよー、〝運命の人〟」
快く送り出してくれる智花と茶化すように後に続く草野。
……やっぱ聞かれてたか。
こっ恥ずかしいったらないが敢えて突っ込まずに前を向いたまま手だけ振って返した。
あれから、智花との間にあったぎくしゃくした空気は綺麗さっぱり無くなっていた。あの時俺が聞いた智花の言葉は、やはりと言うべきか俺の早合点による勘違いだった。
あの日、スカイシンボルタワーにいたのは品川だけではなく、智花の同期の子も来ていて俺たちのことを見ていたらしい。スカイ・フィールドで俺が智花とバスケで1on1をする場面のことを聞かれていたらしく、普段追及されることに慣れていない智花は照れ隠しに加え、なるべく話を盛り上げさせないように素っ気なく返そうとしたらしい。周囲から変な噂を立てられて俺に迷惑を掛けまいとしてくれようとしたのだとか。
よく考えればそうか。智花との1on1、もし智花が全力を出そうものなら俺なんて相手にすらならない。智花の言っていた言葉もあながち間違いではないが、智花自身バスケを単なる〝遊び〟と言ってしまったことは少し引っ掛かりを感じていたようで、『ちょっとだけ嘘をついてしまいました』とこの話をした時、幾らかしょげていた。
まあ、俺なんかしょげるどころではなく、一歩間違えば一生後悔するところだったので冷や汗たらたらだったのだが。完全なる俺の誤解。今思い出しても非常に申し訳なく思う。もちろん、智花に謝りまくった。それこそ、地べたに穴が開くほど跪き、智花の靴を舐めるほどの勢いで、愚行なる非礼を詫びた。
さすがに理由は言えなかったので、智花は何のことだか訳が分からなそうだったが。
……いつかちゃんと謝ろう。
「あ、もう休憩大丈夫ですか?」
「ごめん、待たせちゃって」
コートに入ると、俺の気配に気づいて男子はサービス練習をピタリと止める。
「オレはいいですけど……オレも自分のペースでやってるんで、全然気にしないでください。ナギさんから聞いてますんで」
「ありがとう。でも、大丈夫。じっとしてると身体が疼いてしょうがない」
男子の気遣いに感謝しつつ、俺は練習再開を申し入れる。
今言った通り、男子は由季の友達で同じ大学のテニスサークルに所属している。いざ復帰しようとして練習相手に困っていた俺に、どこから聞きつけたのか分からないが(おそらく実家)、由季が紹介してくれたのだ。男子を評すると由季曰く、『口では面倒くさがりだけど、何だかんだ面倒見がいいから』とのこと。今のところそんな兆候は見られない。一応、俺が年上だから気を遣ってくれているのかもしれないが。
「りょーかいです。じゃあ、サーブ打ってもらってもエエですか?リターン練習させてもらいたいんで」
「うん、もちろん」
男子の申し出を快諾する。男子が移動してくれ、ネットを挟んで向かい合う。
「準備オッケーでーす」
「了解」
男子の合図を受け、サーブを打つためのルーティンを開始する。一定のリズムでボールを地面につく。またここに立つことが出来たんだな、としみじみ思いながら、不意に俺を取り巻く全てのことに対して無性に感謝したくなった。
「ありがとう」
誰にも聞こえない声で呟いてすっと顔を上げる。
トスを宙空へ送り出すと同時に視線は空へ飛翔する。そこには今にも吸い込まれてしまいそうなくらい透き通る青空が広がっていた。疎らに浮かぶ雲の隙間から差す白光は柔らかく、その温かさと強さは俺の目には眩しすぎて、心が震えるくらい優しかった。
【シアワセ】これにて完結となります。
ここまでお付き合い頂きまして、誠にありがとうございました。
今作は自分の〝大好き〟をこれでもかと詰め込んだ本当に自己満足で自己中なお話でしたけれども、それでも皆様にお付き合いいただけて感謝感激でした。
前作から1年以上ぶりの久しぶりの投稿でしたので若干投稿の仕方を忘れていたのもありますし、この内容で投稿して良いものか色々不安もあったりしましたが無事に終われてホッとしております。
拙い文章ではあったかと思いますが、少しでも楽しんで頂けていたら幸せです。
大変恐縮ではございますが、もしよろしければ、ご感想・ご評価等頂けたら幸せの極みです。
改めまして、読者様皆様のお忙しい中、貴重なお時間を拙作に割いて頂きまして、本当に本当にありがとうございました。




