《56》
「先輩とスカイシンボルタワーに行った日に少しだけお話しましたよね?高校生の時、県外の高校に進学したこと。バスケを辞めた私には何も無くて空っぽで、人とコミュニケーションも上手く取れなくなってしまったんです。私はひとりぼっちでした。……辛かったです。私は何のために生きてるのかな、なんて考えちゃったりしたことも……」
努めて明るく話そうとしているが、智花の声には悲哀の色が帯びている。
「1年生の1学期はずっとそんな感じで。夏休みになって帰省した時、親戚の家に遊びに行く機会があって、たまたまそこである物を見せてもらったんです」
智花は一旦言葉を切った。いつしか、俺は智花の話に聞き入っていた。残された時間は本当に僅かしかなくて、こんなことしている場合ではないのに。俺は静かに耳を傾ける。
「それはテニスの試合のDVDでした。私、テニスはよく知らなかったのですが、親戚のお兄さんに解説してもらいながら観させてもらいました。
高校の大会の決勝戦で、第1シードの方とノーシードの方の試合。試合は序盤から第1シードの方が主導権を握って、圧倒的な力でリードを拡げていきました。ノーシードの方も粘り強く戦うのですが、点差は開いていく一方で……。試合展開は変わることなく、第1シードの方がマッチポイントを掴みます。『これで終わりかな』と思いました。どう考えても、力の差は歴然でしたし、3本連続のマッチポイントでしたから状況的に言っても決まりだろうって。……でも、それは私の早合点でした」
智花の声に微かに熱が混じり出す。
「そこからが始まりでした。ノーシードの方は驚異的な粘りを見せたんです。もう1つのミスも許されない状況で、その方は相手の攻撃に耐えて耐えて、積極果敢に攻めてみせたんです。凄い、と思いました。圧倒的な差をつけられて、絶望的な状況に追い込まれながら、それでもその方は俯くことなく、臆することなく、ただ前だけを見て、立ち向かっていく姿に……気がついたら引き込まれていました。揺るがない気持ちの強さ、瞳が発する輝き……私の目にはとても眩しくて。いつの間にか、その方に視線は釘付けになっていて。……格好良かったです。思うと同時に、不思議な感覚が私のことを包んだんです。暗闇に光が差したみたいに、私の中の淀んだものすべてを浄化してくれるようなじんわりとした温かさ。なのに、心臓はドキドキしっぱなしでした。初めての感覚でしたけど、今でも鮮明に思い出せます」
熱っぽく話していた智花の口調は言葉が続くにつれてまあるく柔らかいものになっていく。穏やかだった。まるで、大切な秘密を明かすのをどこか楽しんでいるように。流れる空気は場違いなほど優しい。智花の声はいつまでも聞いていたくなるほど心地良かった。
「試合はその方が大逆転で勝って優勝しました。凄く嬉しかったです。……可笑しいですよね?私が勝ったわけでも何でもないのに。だけど、嬉しかったんです。……たぶん、おこがましくも、私自身をその方に重ね合わせて観ていたからだと思います。本当に勝手ですけど。DVDを観終わった時、何だかまた頑張れる気がしました。目が覚めた、といいますか、私を覆っていた深い靄が取り払われた気がしたんです。……私はもう1度、前を向くことが出来ました。先輩のおかげで」
息をつく智花。まるで、自らに課した重荷を下ろすかのように。
「先輩は私にとって光なんです。深い深い暗闇にひとりぼっちで蹲っていた私のことを照らして、冷え切って壊れかけていた私の心を温めてくれた、掛け替えのない大切な光。ずっとずっと想っていました。いつか絶対にお会いしたいって。だから、この数ヵ月は本当に夢みたいでした。毎日先輩と一緒に居られるのが凄い嬉しくて。……先輩。お願いです。私のことなんかに構わないで逃げてください。先輩には生きていて欲しいんです!私は自分が死んじゃうよりも、先輩が死んでしまう方がずっと嫌なんです!私の最期のお願いを聞いてください!!」
智花の絶叫が響く。
……くそったれめ。
「先輩!?」
突き動かされる衝動に抗う術はない。俺は固く閉じられた扉をこじ開けるために思う存分身体をぶち当てていた。智花の制止の声は聞こえているけど聞こえない。
冗談だろ。この状況で花澤を置いていくとかあり得ない。
あんなこと言われたら、死を受け入れるとか、諦めるなんてこと出来るわけがない。
最期のお願いなんて聞いてやらない。お願いなんてこれから先、何度だって聞いてやる。
俺は昔、誰かに感動を与えられる選手になりたかった。
俺の試合を観た人の心を揺り動かせられるような、何かを与えられる選手になりたかった。
叶っていたのか。俺の知らない内に。
智花に突っ込みたいことが山ほどあった。だから、後でいっぱい問い質してやる。
2人で生き延びたその後で。
何度目かの体当たりで扉は音を立てて外れた。智花は両手足をロープできつく縛られた状態で洋式便器の上に座らされていた。頬が赤く腫れている。唇に血が滲んでいた。
「花澤!!」
「先輩!!」
ロープを解いている時間はない。俺は躊躇することなく智花を抱える。軽い。
「先輩、無理はなさらないで―」
「心配すんな!!」
智花の声を遮り個室を出る。床に捨てられたリモコンをちらりと見やった。【00:30】。
あと30秒。俺は智花を抱えたままトイレを出る。
……どうする!?
今から脱出を試みたところで、たった30秒では階段までの直線距離でタイムオーバーになる。
考えている時間はない。でも、一か八かを覚悟で臨んでも、結果は見えている。
どうする!?何か他に手はないのか!?
ほんの数秒でこの建物から脱出出来る魔法のような方法が……!!
「……あ」
間の抜けた声を漏らす。元来た道から振り返り、俺は見つけた。
おあつらえむきに、片付け忘れられただろう踏み台なんて置いてある。
……これしかない!!
「ごめんなさい、先輩。先輩のこと巻き込んでしまって……ぇ?」
きっと、リモコンの表示を見てしまったのだろう。涙で咽ぶ智花の頭をそっと撫でてやる。
「約束しただろ?守ってやる。絶対に」
……ごめん。
俺は心の中で謝ってからトイレの入り口に立て掛けておいたラケットを手に取り、思いっきり放り投げた。ラケットは目標物を通過する。鋭く砕け散る音が響いた。
そして、智花を抱えたまま俺は少しだけ元来た道へと戻る。少しでも助走を取るために。
「先輩!?まさか……!?」
「ああ、そのまさか。言ったよな?〝諦めたらそこで試合終了〟だ!」
俺は最後の力を振り絞って駆け出した。見立てでは残り10秒満たない。
……ったく、こんな状況でやっと気がつくだなんて。
呆れてものが言えない。だけど、やっぱり。間違いない。
智花を失いたくない。
認めるのがずっと怖かった。認めてしまえば、もう後戻りは出来なくなってしまうから。
でも、無理だ。この気持ちにこれ以上嘘はつけそうにない。
何だよ……何だよ、この子は。俺なんか全然大した男でも、ましてや尊敬されるような人間なんかじゃないのに。それなのに、真っ直ぐで純粋な瞳で、疑うことの知らない無垢な子供みたいに、俺のことを信じ切っている。
だったら……その信頼に応える以外、他にないじゃないか。
だいぶ遅れてしまったけれど、まだヒーローになるチャンスはある。
まったく、何て言っていいのか言葉に困る。この感情は……恥ずかしくて、言葉にするのに躊躇してしまうけど。駄目だ。もう。身悶えするくらい。愛おしすぎて堪らない。
俺なんかでいいのであれば、ずっとずっと傍に居て欲しい。俺の隣でずっと笑っていて欲しい。
そう願うから、諦めるなんて到底無理だ。
「うおぉおおおぉおっつ!」
スピードに乗ったまま気合いを声に乗せ、台を踏み切って粉々に砕けた窓へと飛び込んだ。
宙空に舞う俺と智花。これしかなかった。あのまま爆発に巻き込まれるくらいなら、一か八か、建物外に飛び降りる方が、数%程度助かる可能性は残っている。
あとはもう、運を天に任せるだけ。
……いや。
俺は抱えていた智花の頭を保護するように抱き締める。運命へのせめてもの抵抗だった。
せめて、花澤だけは助けてくれ……!
願うと同時に、背後から眩い閃光が一気に膨張して弾けた。
耳をつんざかんばかりの轟音は聴力を、世界を染め上げる強烈な七色の光は視力を奪い、重力を伴った俺の身体の感覚は瞬く間に消失した。




