《54》
ご都合主義な展開だと思わずにいられない。ゴミの中に埋もれていたが、それは確かにここにあった。俺は思わず手に取った。男が気だるそうな声を出す。
「あん?そんなボール拾って何かするつもり?まさか、そのラケットとボールで俺のリモコンでも撃ち落とそうってか?」
「……そのまさかさ」
嘲るように笑う男に俺も笑って返す。男は更に笑いを上乗せした。
「はぁ!?そんなこと出来るわけないじゃん!!プロの選手でも何でもないてめぇなんかに出来る芸当かよ!?」
「……やってみなけりゃ分からない」
「へぇ、面白ぇ。じゃあ特別に1度だけチャンスをやるよ!でも、てめぇが失敗したら、その瞬間に爆弾を爆発させてやるからな!!」
「好きにしろ」
男はリモコンを握った手をこれ見よがしに翳した。そんなことどうせ出来っこないだろ、と尊大に俺のことを見下している。
……だろうな、普通は出来っこない。修練に修練を積んだ熟練の選手ならさておき、5年以上のブランクがあっておまけにサーブが得意ではない俺の腕じゃあ、ほぼ100%不可能に等しい。
でも、やるしかない。他に打つ手がない以上、これに、このボールに、全てを賭ける以外にない。文字通りの1球勝負。
「……」
俺は構えをとる。サービスポジションに入って地面にボールを弾ませる。リズムを刻む。少しでもブランクを埋めるように、身体に沁み込ませた感覚を呼び戻すように、呼吸とリズムを調律する。
「出来っこねぇ!どう足掻いたって、あの女は助からねぇんだよ!」
集中力が高まっていく。男の声はどこか遠くの方で聞こえた気がした。
……不思議な気分だ。
チャンスは1度きり。打ち直しは出来ない。失敗したら智花は死ぬ。
この極限状態の中で、心は至って平静を保っていた。こんなに落ち着いた気分はいつ振りだろうか。逆に問い返したくなる。ひりつくような緊張感は懐かしくさえ思う。この感覚を、もしかしたら、俺はずっと待っていたのかもしれない。6―6のタイブレーク、ポイント7―6のサービング・オブ・ザ・マッチ。巡ってきた最初で最後のチャンス。幾度となく超えてきた場面。心が高揚していく。俺は目を閉じた。
真っ暗な海を漂っていた。ゆらりゆらゆらゆらり。何も見えない漆黒の海。その中で不意に見えた一筋の光。それはか細くて弱々しいが、決して消えることのない優しい光。この光を絶やしてはいけない。心に誓う。
俺は目を開けた。ボールを宙空へ放る。左肩を入れて右手に握るラケットを背負う手前まで引き上げる。左足に右足を引き付けて〝溜め〟を作る。視線は空。青い雲ひとつない空が広がっている。
こんなに晴れてたのか。今の今まで気がつかなかった。
それじゃあやっぱり、こんな空に涙の色は似合わないな。
ボールを追う。宙を浮き上がり、今正に最高到達点へ。
『1度でもサーブを打ったらいけない。もう2度と右肩は使い物にならなくなる』
不意に、主治医だった先生の言葉が警告を発した。
……知ったことか。別に、使い物にならなくたって構わない。このラストショットを成功させることが出来るのなら、肩の1つや2つくれてやる!
「はぁああぁあっ!!」
ボールがインパクトポイントに来るタイミングに合わせ、俺は持てる力全てを乗せて思い切りボールを叩いた。瞬間、激烈な衝撃が俺の肩を襲った。思わず蹲りそうになるところを堪える。ボールの行方に、運命の行方に、目を逸らさない。
……どうだ!?
渾身の力を込めたボールは音を立てて飛んだ。直線が翔ける。遮るものは何もない。男の掲げるリモコン目掛けて伸びていく。18メートルを一瞬でゼロにする。間違いなく、俺のベストサーブだった。
しかし、
「へへっ、残念だったな!」
男はその風貌にそぐわない身のこなしで俺のサーブを横に躱す。
「バカじゃねーの!?分かってたら誰でも避けれるっつうの!」
ボールの軌道を見ながら、ぶち当たる扉をドヤ顔で見ながら、俺のサーブを批評する男。
外れたボールは男の視線の通り、正面玄関のドアへとぶち当たって跳ね返る。
「じゃあ約束通り、爆弾を―!?」
緩慢に振り返り身体の真正面にリモコンを構えた男の動きが止まる。その目が見開かれた。
「サーブがラストショットだと言った覚えはねぇよ!!」
男が俺のサーブを避ける数秒を利用して、俺は更なる行動を起こしていた。
サーブはお世辞にも得意ではない俺の本当の狙い。
……まさか、サーブがあんな上手くいくだなんて思わなかったけど。
内心少しだけ焦った。あとは……俺の右肩がもってくれれば!
距離を詰めた俺は既に構えに入っている。ボールはワンバウンドして俺の下へと返ってくる。それはまるで引き寄せられるが如く、その着地点に俺はいた。
左足を踏み込み、テイクバックして、点と点を合わせるように乾坤一擲の力でインパクト。フォアハンドの無回転ショット。ボールに余計な回転を与えず、純粋な直球を放った。
男に避ける術は無かった。至近距離に迫った俺に気圧されたのか、身動きひとつせず、立ち尽くすのみ。身体の正面にリモコンを握り締めた左手を今度こそ逃がさなかった。
「あぐっ!!」
俺のショットは見事男の手に直撃する。その衝撃で男はコンクリートの地面にリモコンを盛大に落とし、左手を庇うようにして蹲った。俺は成功の余韻に浸ることなく間髪入れずに男の下へと駆け寄る。見上げてくる男にラケットを差し向けた。
「妙な気を起こすんじゃねーぞ?俺にも相応の覚悟はある」
「……っ」
冷徹で凶気を孕んだ眼をもってして男を睨んだ。俺の雰囲気を察してか、男は完全に意気消沈して項垂れた。俺は万が一のことを考慮に入れて警戒は解かない。続けて詰問する。
「花澤はどこにいる!?」
「……」
「嘘をつこうなんて思うなよ?」
「……4階のトイレにいる」
男は渋々答えた。雰囲気から察するに、どうやら本当だろう。
「ったく、とんでもないこと仕出かしやがって」
どうにも悪態をつきたくて止まらない。
けど、もう大丈夫だ。あとは智花を迎えに行くだけ。まったく、爆弾とか勘弁してくれよな―。
「……え?」
俺は目を疑う。何気なく見た件のリモコン。その割れた液晶部分が点滅を繰り返していた。その赤い点が次の瞬間、数字となって浮かび上がった。【10:00】。
そして、冷涼な機械音と共に数字が【9:59】【9:58】【9:57】と減少をし始めたのだった。
「お、おい!これって―」
「何だ……?まさか!さては、リモコンが誤作動しやがったな?」
俺の様子から、男は現状を把握する。形勢逆転とばかりに勝利の笑みを浮かべた。
「何だよ、結局こうなるんじゃんか。お前の努力もムダだったな?」
「……黙れ!まだ終わっていない!」
俺は声を上げ、カウントダウンを続けるリモコンを拾い上げて、勢いのまま美術館の中へと突入した。




