《46》
「そうなんだ~!!」
昼休み、お茶が飲みたくなった俺は給湯室へ行くと、何やら中からかしましい声が聞こえてきて、ドアノブに掛けた手を一旦引っ込めた。室内には数人の女の子がいるのか、相当盛り上がったテンション高めの声がドア越しに響いてくる。
……出直すかな。
そう思い、踵を返し掛けた足が止めさせられた。
「じゃあじゃあ!品川さんが言ってたことってホントなんだぁ!!」
〝品川〟という単語に反応する。と同時に、中にいるだろう人物の目星がつく。
「……はい。……あぅ」
女の子たちの歓声に混じって微かに聞こえたのは智花の声。
……。
不意に思い出されるのは、いつかの菜穂の会話。
嫌な予感がした。俺は立ち尽くすことしか出来ない。心臓が早鐘を打つ。額にじっとり汗が滲んだ。
中から聞こえるのは楽しそうな声。幾重にも折り重なって思うように言葉を拾えないが、矢継ぎ早に智花が質問攻めに遭っているようだった。
正直、何をやっているんだと思う。こんなことを聞いていてどうする、さっさと事務所に戻ればいいだろ。思うのだけど、身体がまったく動いてくれない。俺は余りに無力だった。
そしてそれは、次のやり取りで痛いほど実感させられた。
「―で、どうだったの?」
「違いますよ。遊びですよ、ほんの遊び。先輩は本気でお相手して下さったかもしれないですが……。先輩のお気持ちを考えたら、さすがに可哀想ですので」
……。
時が止まる。聞き間違いなんかではなかった。
瞬間、何かが壊れる音がした。崩れていく。奈落の底へ突き落とされた気分だった。
ああ、そうだよなと思わずにはいられない。身体中の力という力が抜け、身体を巡る熱が下から上へと上がり始め、目元に集中してくる。気を張っていなければ全部溢れてしまいそうだった。
可笑しいな。……自分でも言っていたじゃないか。俺と花澤は違うって。
……はは。だったら何で、こんなに俺はみっともないんだ?
何でこんなにショックを受けてる?
……分かってただろ?どうせ俺なんか、上手く利用されていただけ。
……本当に〝足湯〟って言葉が似合いすぎて笑えてくる。
「……はは」
哀しいくらいに可笑しくて、これ以上何も聞きたくなくて、俺は当初の目的を忘れ、事務所へと戻った。
「……あの、先輩?」
終業時刻をとうに超え、灯りが消えた会社の屋上。フェンス越しに夜を彩るネオンをぼんやり眺めていた俺の背に控えめな声が掛けられた。
振り返ると、智花が所在なさげに立っている。9月も終盤の夜半、吹きつける風は夏の熱を置き忘れてしまったかのように涼しく、すぐそこまで秋が近づいていることを教えてくれる。
少し肌寒かった。智花も小さな身体を若干縮込ませている。
「どうかされたんですか?急にメールをくださったので驚きました」
仕事が終わる間際、俺は智花のパソコンに一通のメールを送っていた。直接声を掛けるという選択肢は無かった。
「何か急用でしょうか?」
用件は伝えていない。【仕事が終わったら屋上に来て】。呼びつけるだけの簡素なメール。
だから、智花はまだ何も知らない。
「……先輩?」
俺がまだ一言も発しないことを訝しんでか智花の声が緊張の色を伴う。
……。
俺は意を決した。
「ごめん、花澤」
「え……?」
「俺、色々花澤に迷惑掛けてたみたいでさ。全然気づいてなかったよ。もうそんな出しゃばったことはしないから」
「え、え……?先輩?あの、すみません。私、何が何だか……」
おどおど訳の分からなそうに困惑する智花。俺は委細構わず続ける。
「そんな無理しなくていいよ。……俺の役目は終わっただろ?花澤が『誰かに見られてる』って言ってた話。その誰かは花形さんの妹さんだったわけで、花澤の安全は保障された。俺が付き添う必要はもうないよね」
「それは、そう、だと思いますが……」
歯切れの悪い智花。突然の出来事に理解が追いついていない様子だった。
「な?じゃあ、もう大丈夫だ。それから……あとひとつ。明日から花澤の教育担当を外れることになった」
「え……!?」
「代わりに西岡が教えてくれるから何も心配いらない」
「ちょ、ちょっと待ってください!え、嘘……?どうして、そんな急に……」
顔を歪め困窮する智花に対し、俺は一切スタンスを崩すことなく淡々と業務連絡を続行。
「急にも何も、仕事の世界だ。決定なんて突然だし、いちいちそんなことで動揺してたらやってけないよ」
「……先輩、もしかして、あの噂をお聞きになったから」
はっとなり、智花は弱々しく訊ねてくる。
「噂?ああ、品川が言ってたやつ?はは、そんなわけないだろ。でも、それに関しては本当に申し訳なかった。俺が花澤のことを誘ったばっかりにあんな噂流されちゃって。まあ、その内元通りになると思うから、少しの間辛抱してくれ」
俺は事も無げににっかり笑ってみせる。
「そんなこと、私は全然……!!」
「いいよ、そんな気なんか遣わなくて。じゃあ、そういうわけだから」
「先輩……!!」
智花をひとり残して歩き出す。智花に呼ばれるが振り返ることも、立ち止まることもしない。
後ろ髪を引かれるような錯覚に陥りかけるが、振り切って前に進む。そのまま屋上の鉄扉を開ける。
……。
不意に生じた鈍痛に胸の辺りが軋んだ。けれど、俺は一切を無視して扉の向こう側へ。
……これでいい。
自分に言い聞かせる。全てを断ち切って俺は重たい幕を下ろした。
そして智花は翌日、体調不良を理由に会社を欠勤するのだった。




