《2》
「え?何お前、まだ智花ちゃんにちょっかい出してないの?」
焼き鳥を頬張っていた草野は意外そうに目を丸くした。
明くる日の仕事帰り、高校時代からの友人である草野に呼び出された俺は駅前通りの居酒屋にいた。会社帰りとみられるスーツ姿の男女が店内にちらほら見える。俺と草野はカウンター席の隅に陣取っていた。
「ちょっかいって……。だから別に、花澤と俺はそういんじゃないって言ったろ」
「はぁ?この期に及んで何を言ってんだか。智花ちゃんのこと、気になってるんだろ?でもって、智花ちゃんの方からアプローチを掛けてくれてる。これで拒む理由がどこにあんだよ?」
「……」
俺は口ごもり、グラスに入ったノンアルコールビールを口に含む。苦くて不味い。草野と店の手前、付き合いで頼んではみたものの、やっぱり合わない。これじゃあ、本物のビールなんてもっと無理だなと再確認。
「まさかお前、まだ菜穂ちゃんのこと引き摺ってんじゃねーだろうな?」
草野の言葉にグラスに入った氷と俺の心が揺れた。何でもないように装ってみるけれど、どうにも心までは偽れない。胸の鼓動が大きくなる。俺の変化を草野は敏感に察した。
「やっぱりか。まあ、免疫のないお前じゃあ仕方ないかもしれないけど……。でもよ、いつまでも菜穂ちゃんに囚われ続けてるのもどうかと思うぞ?踏ん切りつけて前に進んでいかないとよ」
「……」
言葉を返せずに押し黙る。分かっている。そんなことは百も承知だ。
でも……話はそう簡単なものじゃない。
俺の心に打ちつけられた楔はダイヤモンドよりも硬く、絶対零度の氷よりも冷たい。魔法は未だ解けない。術者が居なくなった今でさえ、効力は延々と続いている。
作楽菜穂。彼女は今頃、幸せな日々を送っているのだろう。
「なっしー、ねー聞いてよぉ」
「あのな、今仕事中だっての」
「だからぁ、その仕事に関することだってば」
1年前まで菜穂は同じ職場で働いていた。派遣社員だった彼女は主に受付業務を任されていて、顔を合わし会話を交わすことはあれど、それ以上でもそれ以下の関係でもなかった。
菜穂は明るく社交的で、喜怒哀楽の激しい子だった。人当たりも良く、声優で男の子役が似合いそうな柔らかい声の持ち主で、周囲からの評判も上々だった。
彼女は当初から社員に愛称を付け、すぐに職場に溶け込んだ。菜穂は俺のことを〝なっしー〟と呼んだ。歳は俺の1つ下で、歳が近いせいもあってかタメ口で話してくることが多かった。女の子と話す機会が今までの人生で数えるほどしかなかった俺にとって、菜穂との会話は心地良く感じていた。
きっかけはとある休日出勤。
「あれー?なっしー、何やってんの?」
仕事が滞りがちだったその週、仕方なく休日返上で出社したところ、受付に菜穂がぽつんと座っていた。日直当番だった菜穂は休日のため暇をしていたらしく、『御用の方はベルを鳴らしてください』と張り紙を残して事務所へついてきた。
「なっしー、お話しよ?」
「駄目です。俺が何のために休日返上で出てきたと思ってんだよ」
「分かってるよぉ~。でも、なっしーに聞いて欲しいの!」
菜穂の懇願を突っ撥ね、俺は仕事に取り掛かるが、菜穂は異様にしつこかった。幾ら気のない返事をしても、幾ら無視を決め込んでも、菜穂は折れることはなく、とうとう俺は根負けした。菜穂の話は同じ派遣社員の愚痴から始まり、職場内での人間関係についてなどに及んだ。ぷんすか怒る菜穂を宥めつつ、適当に相槌を打ったりして聞き役に徹していたのだが、
「え!?なっしー、ヴァンギャム分かるの!?」
菜穂の目の色が変わる。騎王戦記ヴァンギャム。不朽の名作として名高いアニメの1つ。
菜穂の興奮度は一気に跳ね上がる。俺は『知ってる』レベルだったので異常に詳しい菜穂に圧倒されながらついていくだけで精一杯。けれども菜穂は満足したらしく、話が終わる頃にはご機嫌になっていた。
この日を境にして、菜穂と急速に仲良くなった。ヴァンギャム関連のイベントや映画を観に行ったり、アニメや漫画の話をしたり、ご飯やカラオケに行くなど親交を深めていった。時間を重ねるほどに、俺は菜穂に惹かれていった。
「あたし、今気になる人がいるから」
告白の返事。何とはなしに菜穂は続ける。
「でも、そんなこと言える人だと思ってなかった。まあ、頑張ったじゃん?」
軽い言葉に愕然とする。断られたことはどうでも良かった。それは仕方のないことだから。
ただ、そんな答え―言い方を望んだわけじゃない。
いや、都合のいいような答えを望む方が自分勝手だから、彼女がどう返事をしても文句は言えない。
分かっている。だけど、その答えはあんまりな気がした。彼女のキャラクターは知っていたはずだ。それを含めて好きになったはずで、結局のところ自分の自業自得なだけの話ではある。それでも俺は上手く気持ちを整理することが出来ず、数ヵ月の間、菜穂とは仕事以外の話をすることは一切無くなった。
それでも、時間の経過というものは気持ちの修復に絶大な効果があり、いつしか菜穂とは告白以前の関係にまで戻ることが出来た。
「なっしー、明日から旅行行くんでしょ?ちゃんとメール、送ってね?」
大学時代の友人と3泊4日で沖縄旅行に行く前日のこと。菜穂はお土産のリクエストと共にこんなことを言った。普段、メールのやり取りなどほとんどないのに、どういうわけなのかよく分からなかった。
自分も旅行先を回っている感覚を味わいたいのだろうか?
……まさか、心配してくれているのだろうか?
考えに考えを巡らすと、まるで管理されている彼氏や旦那の様を思い至った。
……まあ、どうでもいいか。
俺は深く考えないようにして思ったことを振り払う。
面倒くさい、とは思わなかった。逆に、ちょっとだけ嬉しかった。
俺は行く先々で写真を撮りメールに添付して何通か菜穂に送信した。
「はい、バレンタインデー。今日は休日出勤するって言ってたからさ、来ちゃった。普段手作りなんてしないあたしが腕によりをかけて作ったんだからね」
休日、事務所で1人黙々と仕事をしていると、突然事務所のドアが開いて私服姿の菜穂が入ってきた。手には小さな紙袋を持っていて俺に手渡してきた。カレンダーを見ると2月14日はまだ2日後。当日は菜穂が休みらしく、勤務表には〝休〟の一字が印字されている。
でも、明日は出勤するはずで、渡すにしても明日で良かったんじゃないかと思ったけれど、敢えて言わないままにした。袋を開けると、中には小さな袋にクッキーが詰められていた。出来立てらしく、ほんのりと温かい。菜穂は「また明日ね」と笑顔で帰っていった。
生まれて初めて女の子から手作りのお菓子を貰った俺はありがたく大事に頂いた。
「遊びに行くけど、男の人とじゃないからね?ぜーったい違うんだからね!」
勤務表を見ると、菜穂には珍しく3日間連続して〝休〟の文字があったので訊いてみると友達と関西に遊びに行くと言う。
「お、遂に彼氏が出来た?」と訊ねると、菜穂は強く否定した。その言葉の強さに、いやそんなムキになって否定しなくてもいいのに、と呆気にとられた。
別に、誰と行こうが俺の知ったことないじゃないか。俺は菜穂の彼氏でも何でもないのだから。
口には出さなかったけど、俺は心の中で言葉を返した。
「いいよ、スプーンひとつで。間接キスくらい気にしないでしょ?」
あっけらかんと言う菜穂に唖然とする。職場の若手で時折催される食事会。食後のバニラアイスが配膳され、いざ食べようと思ったところ、俺にだけスプーンが用意されなかった。
店員を呼ぼうと手を挙げ掛けたその時、隣に座っていた菜穂が俺を制した。
正直、焦った。
「え?」ってなるでしょ、そりゃあ。
けれども菜穂は、何事もなかったようにアイスを食べ、「はい、なっしー」と事も無げにスプーンを差し出してくる。
逡巡した挙げ句、俺は菜穂のスプーンでアイスを口に運んだ。女の子がこんなにも平然としているのに、男の俺がどぎまぎしているのは可笑しいんじゃないか、とか、女の子にそんなことを言わせておいてそれを拒否するのはメンツを潰してしまうんじゃないか、とか心の中で言い訳を幾つも並べて。
間接キス。瞬間、身体が熱くなって、その熱っぽさはしばらく続いた。
ちらりと菜穂の方を見やる。
すると、菜穂は『あ、食べた……』とでも言うような少し意外そうに目を見開いていた。
その後、ちょっとだけ菜穂は態度がぎこちなかったように思う。
……おい、気にしないんじゃなかったのかよ。
「はい、誕生日プレゼント。1ヵ月前から何がイイかず~っと考えてたんだよ」
俺の誕生日から1週間以上が過ぎてから、菜穂が小さな包みを持ってきた。毎年、誕生日には「おめでとう」の言葉とお菓子類などを用意してくれていた菜穂。俺の誕生日が月の始めで仕事柄忙しい時期であり、『まあ、もう歳も歳になるからな』と今年は何もないことに納得していたのだが、菜穂は忘れないでいてくれ、それどころか俺のために時間を割いていてくれたのだと言う。誕生日の当日ということは問題ではなく、その心遣いが嬉しかった。
帰宅してから小包を開くと、青を基調にしたストライプのネクタイが入っていた。