《19》
「……ん」
暖かな光をうっすらと自覚し小鳥の囀る声が耳に届く。朝の気配を感じた俺はぼんやりと覚醒する。
……今、何時だ?
起きたばかりでまだ正常に頭が働かないが、身体が徐々に目覚めようとしてくれて、眠気眼を条件反射的に擦ってくれる。ぼやけていた視界がクリアになる。部屋を覆っているカーテンが朝の陽によってどこか幻想的に光っていた。まるで、ダイヤモンドの粒子がカーテンを隔てた向こう側で舞い遊んでいるんじゃないかと錯覚するほど神秘的に映る。溢れ出そうとする強い光は、部屋の中に到達する前にこの空間を守ろうとしてくれるカーテンによって柔らかい淡い光と変わり、とても優しく感じた。
「……花澤は?」
布団の上で寝転がったまま、気だるげにだらだらしていると、急に脳が正常運転を開始した。一気に現実へと戻って来る。身体を起こしてベッドの上に視線を走らせると、智花の姿はなくてタオルケットが綺麗に折り畳まれているだけだった。壁に掛けられた時計を見ると、針が5時50分をちょうど差したところで、思いの外、早い時間帯に目が覚めたことに気がつく。
こんな早起き、いつ振りだろうか……って、そんなことはどうでもいい。
智花の姿が見えない。どうやら、部屋の中には俺だけしかいないらしい。智花の空気を感じなかった。
こんな朝早くにどこか出掛けたのか……?
ゆっくりと立ち上がり、もう1度部屋の中を見回す。昨日は緊張の余り、部屋の中を見渡す余裕は全然なかった。何というか、女の子の部屋をまじまじ見ていいのか分からなかったし、そもそもそんな余裕は皆無だった。今は幾らか落ち着いているが。
目についたのは、壁に掛けられた額縁に入れられている絵が1枚。まるで、写真かと思えるほどの出来栄えに目が奪われた。舞台はどこかの体育館で、智花・真由・陽飛・愛・比奈子とあともう1人が記念撮影をしているような構図となっていて、思わずじっと凝視してしまった。
花澤が描いた絵、なのかな……?それにしても、相当レベル高いぞ、これ……。
「……ってそうじゃなくて」
俺は首を振る。当初の目的に立ち返る。気を取り直してもう1度ゆっくりと部屋を見渡す。すると、テーブルの上に小さなメモ書きと家の鍵が置かれていることに気がついた。
『ちょっとだけ外に出てきます。先輩も外に出られるようならこの鍵を使ってください』
均整の取れた端正で丁寧な字で書かれていて、単なるメモなのに実に智花らしいと思った。
「ちょっとだけ外に出てくる、か……」
文面を口にして、ふとその理由に思い当たった。俺は添えられた鍵を手に取り、簡単に身だしなみを確認してから部屋を後にした。
智花の家を出て坂道を少しだけ下る。目的地は決まっていた。
大きなけやきの木が両端に目印のように立つ入口を抜けると、右前方には真ん中を緑色の芝生で植えられたウォーキングやランニングに適した円形のトラックがあり、散歩道とみられる真っ直ぐ伸びる道を境にした左側には、雨避けが備えられた小さな山小屋然としたベンチが数メートル感覚で置かれている。そんなベンチから更に視線を左に向けると、石造りの階段があり、人工芝のテニスコートが2面と、その更に奥にはバスケのリングが設置されたコートがあった。
「……いた」
そのコートに、智花の姿があった。フリースローラインから延々とシュートを撃ち続けている。智花が撃つシュートは相変わらず綺麗で、撃つ度にボールはリングを掠らずにゴールネットを揺らし続けていた。まったくミスらない。まるで、撮影した智花のシュートシーンを繰り返し再生して見ているような気さえする。
……凄いな、本当に。
俺は途中、自動販売機にてジュースを2本購入し、ゆっくりと階段を下りて智花のいるコートへと向かっていった。
「……はっ!」
一糸乱れぬ、とは正にこのことだろうか。精錬されたシュートフォームは狂うことなく、撃ち出されたシュートは美しい放物線を描いて、ネットを揺らす音だけを届かせる。ネットを潜ったボールは2度、3度地面に跳ねてその間に智花がボールを拾い上げて、またフリースローラインへと立ってシュートを撃つ、の繰り返し。
「……あ」
コートとの距離がだいぶ縮まった頃、智花が俺のことに気がついた。
「おはようございます、先輩。もしかして、起こしてしまっていましたか?先輩を起こしてしまわないように、音を立てないよう注意したつもりだったのですが……」
「おはよう。ううん、全然気づかずに眠ってたよ。朝練だったんだね」
「はい。毎朝の日課です」
「聞いてはいたけど、凄いね、本当に。自主練はもちろんだけど毎朝、こんな早起きをずっと続けてるだなんて」
「いえ、好きで続けていることですから」
えへへ、とはにかむ智花。
「そっか。練習の邪魔しちゃって悪いけど、一息いれない?」
「邪魔だなんて、そんなことないです!喜んで」
俺の申し出に智花は快く練習を一旦中断し、コートにあるベンチで2人並んで腰掛ける。購入したジュースを1本智花に手渡し、お互い口にする。
「すみません、差し入れなんてして頂いて」
「いいって。このくらい」
まったく、律儀というか何というか。そんなに畏まらなくたっていいのに、と思う。
逆に、俺の方こそ、お礼を言わなければいけない立場だろうな。昨日は緊急事態だといえ、男の俺を嫌な顔ひとつせず家に泊めてくれたのだから。
よくよく考えたら、普通、年頃の女の子は嫌なんじゃないだろうか。彼氏でも何でもない男を1人でいる部屋に招き入れるだなんて。それが致し方ない状況だったと言えばそれまでだけど、それにしたって、智花も心の中では気が進まなかったかもしれないし、嫌だったかもしれない。
……やっぱり、ちゃんとお礼をもう1回言った方がいいかも。
「ありがとうございます」
「へ?」
などと考えていた俺を先回りし、智花がお礼を言ってきたので思わず間の抜けた声を出してしまった。
「先輩が昨日、私に言葉を掛けてくださらなかったら、バスケを諦めてしまっていたかもしれません。……駄目ですね。やっぱり、私、バスケ大好きです」
「そっか」
ふっと口元が緩む。それが正解だよ。見てれば分かる。智花がどれだけバスケを好きなのか。自分の気持ちに素直になれて本当に良かった。智花の場合、他人を優先するあまり、自分の気持ちを押し殺してしまうのも厭わない、控えめで優しい性格だから。
せめて、こんな時くらい、自分の気持ちを全部曝け出してしまっても罰なんか当たらない。
「……」
「……花澤?」
不意に考え込むように俯いた智花に、何事かと思って呼び掛ける。数秒の間があって、智花は顔を上げた。意を決したかのように瞳に強い意思を宿しながら。
「先輩、少しお時間を頂いてもよろしいでしょうか?私、先輩にお話しておかなければならないことがあります」
「……あの女の子のこと?」
改まった智花の様子に、この話以外、俺には他に考えられなかった。智花は重々しく頷く。
「はい。ひよりと私のこと。先輩にとっては退屈なお話だと思いますが……」
「ううん、そんなことないよ。聞かせてもらえるかな?」
「ありがとうございます」
智花は礼を述べて一礼する。智花の昔話が始まった。




