《1》
「お疲れ様でした」
室内にこだましていく声に答えつつ、俺―高梨真人は明るく光るパソコンのディスプレイへと視線を戻す。定時は悠に2時間を超えている。そろそろ上がり時かな。取り掛かっていた仕事も一応の区切りがつきそうだった。
「先輩」
不意に呼び掛けられて振り向くと、いつの間にか俺のすぐ横に花澤智花が立っていた。
「まだ上がれないんですか?」
「……もう少しだけやってくよ」
「そうですか、分かりました。私も上がってしまいますね」
お疲れさまでした、と智花は礼儀正しく一礼して歩いていく。キィーッと申し訳程度にドアが開く音がしてぱたりとドアが閉じた。部屋に残ったのは俺と静寂だけ。
「……はぁ」
ため息が漏れた。嘘をついた自分、嘘をつかなければならない自分。情けなくなる。
それでも、こうする以外に、自分自身を守る方法を俺は知らなかった。気を強く持っていないと、同じ過ちを犯してしまいそうで、もしそんなことになってしまったら、たぶんもう2度と立ち上がれそうにない気がする。日常を壊す足音がすぐ近くに迫っていた。
俺は智花のことが気になっている。認めたくはないけれど、事実ふと考えてしまっている自分がいる。今年入職したばかりの新人に何をそんな邪なことを、と思ってしまうが。
身長は俺が椅子に座った時の座高より少し高いくらいの小柄。髪はショートカットで童顔という出で立ちは、下手をしなくとも思いっきり未成年に見える。可愛いのは間違いなかった。
今年の新人の中で1番可愛いのは誰かと聞けば、口々に智花の名前が挙がる。
性格も非常に良い。礼儀正しく真面目で勤勉。仕事もしっかりこなすし、理不尽な物言いにも不平や不満を一切言わず、へこたれた様子を見せることがない。おまけに、驚くほど素直でそこがまた可愛く思う。
……相当だな。
思わず嘆息してしまう。重症。病気は既にstageⅣにまで到達している感がある。
これはもう緩和治療が関の山。あとは当人の気力次第。
……はぁ。
ため息が出る。言い訳にしかならないが、やっぱり可愛いのだ。
しかも、最近よく絡んでくる風に感じる。教育係として付いているせいか、よく懐かれているようにも思う。
……勘違いかな。
いや、そうだ。きっとたぶんおそらく、俺の勘違いだ。と思ってみるのだけど、ふとした時に智花が傍にいる。
無邪気な笑顔。思わず引き込まれそうになるのを何度堪えたことか。
……。
「……はぁ」
大きく息吐く。落ち着け。俺は何を考えている。冷静になれ。そんな感情は所詮〝まやかし〟だ。最初から分かっていたことだったし、改めて分からされたことじゃないか。無理なんだよ。どう足掻いても、どう頑張っても。
心に深い影が落ちる。影はやがて漆黒の闇へと姿を変える。月の光も星の瞬きもすべての灯は黒く塗り潰されてしまう。何も見えない。深淵の闇の浸食は留まることを知らない。全てを飲み込み、全てを消し去る。あとには何も残らない。
どうせなら、俺自身を引き摺り込んで欲しかった。中途半端に心を奪ったところで、俺という人間は残ったままだ。無様だ。哀れであり、酷く滑稽でもある。……完全に玩具だ。
「もう2度と間違いはしない」
確かめるように、俺は自分自身に言い聞かせる。
ズキリと頭の古傷が疼いた。
結局、仕事を延長して会社を出たのはあれから2時間後。日はどっぷりと暮れて辺りには夜の空気が流れていた。9月も半ば。段々と空気が夏から秋へと変わり始めているようで、ほどよく涼しい風が日中溜まった熱気を振り払うかのように時折流れ込んでくる。
「……はぁ」
唐突に、ため息が零れた。あとは家に帰るだけ。予定は何もなかった。
そう、何もない。俺には何もないのだ。
ただ毎日、決まった時間に出勤して、仕事に従事し、終業しては家に帰るの繰り返し。
こうして社会人3年目の日々を送っている。
別に、だからと言って何ら不自由をしてなどいない。それなりに充実はしている。
3年目ということで、仕事のスキルもだいぶ上達した自覚はあるし、上司からも一目置かれるようになって重宝してもらえていることはとてもありがたく思っている。
でも、ただそれだけ。仕事をする以外、今の俺には他にすることがなかった。
いや、する気力がない、と言った方が正しいかもしれない。仕事に対して余りに全力で臨むため、終わった後は放心状態とまではいかないまでも、体力や気力の消耗が著しくてそれ以上、何かをやろうとする気力など起こらないのだ。
……。
不意に、魚の小骨が喉元に引っ掛かったような居心地の悪さが俺のことを包んだ。
……分かってる。自分に嘘はつけない。それはあくまで建前だ。100%違うわけではないけれど。
熱中できるもの、夢中になれるものがないだけだ。
心を熱く滾らせるような、興奮で心を震わせるような、情熱を傾けられるものが何も無かった。
味気ない、と端から見れば思うだろう。でも、当の本人である俺自身、その通りだと思いつつ、だからと言って『それがどうした?』と開き直ってしまっていた。
そりゃあ、今みたく何の前触れもなく『このままでいいのか?』と、ふと考えてしまう時もあるにはあるけれど。
とは言っても、ないものはないのだから仕方ない。無理をしたって、無駄に疲れるだけ。そんな無理などしない方がいい。しんどい想いをするくらいなら、やらない方がマシだ。
そう、やらない方がいい。
……。
「うぉおーっつ!モモカちゃ~ん!!」
人でごった返しになっていた駅前通りを抜け、駅構内へ入っていこうとして、男たちの野太い歓声が上がり、何事かとその方向へ足を向ける。
すると、駅舎の前にて眩しいくらいのスポットライトが舞っていて、その中心で派手な衣装を身に纏った女の子たちがマイクを手に、観客(ほとんど男)たちの歓声に笑顔で応えていた。
アイドルの路上ライブ、というやつだろうか。普段は見た覚えのないことから、今日だけのために設けられた簡易ステージの上にて、歌を唄い、ダンスを披露し、ファンに笑顔を振りまく。
これだけアイドルと観衆との距離が近いというのはファンにとっては堪らないかもしれない。
ふ~ん、こんなところでライブね。
けれど、俺にはこれ以上の感想はない。アイドルに興味はまったくなかった。
ステージ上にいるアイドル然とした女の子は5人いて、その誰もが幼い顔立ちをしている。おまけに身長も大してなくて、ミニサイズという言葉が似合う。そういうコンセプトで売っているのだろうが、実年齢は何歳なんだろうかと思えるほどだ。可愛い、とは思った。〝アイドル〟を称すのなら当然の資質なんだろうけど。
順に彼女たちの顔を見ていき、1人の女の子に目が止まる。一瞬、『え?』と思った。
メンバーの中に智花にそっくりな女の子がいて2度見してしまった。
けれど、もう1度見直して別人だよな、と思い直す。だいぶ似ていたが、智花にある目元のほくろが無かった。
それにしても、似てるな……。
「ロリコン、最高!!」
沸き上がった歓声に思わずギョッとする。
おいおい、さすがにその単語はまずいだろ……。
呆れ気味に冷めた視線を送るが、「あー」と少しだけ納得する。
【ローリング・コンクエスト☆ゲリラライブ☆】との弾幕が風に揺れていた。
どうやら、グループ名を略した意図で上がった歓声らしい。さすがに狙って付けたんだろうなと思わざるを得ない。俺は乾いた笑みを浮かべる。
幾らグループ名だからと言っても、ほどほどにしとけよ、と思わずにはいられないが。
「今日はみんなに報告があります☆9月25日金曜日の午後3時、〝レインボー・クラッシュ〟というイベントがありますっ♪ローリング・コンクエストからはアタシとカスミンの2人が参加予定なので、お時間がある方は是非来てくださいね!詳細は公式ホームページで確認してちょ☆」
「リリアー!!」
「カスミー!!」
歓声があちこちから飛び交う。熱気が押し寄せ、何もしていないのにじっとりと汗が浮かんできそうだった。
……何はともあれ、熱中できるものがあるってことはいいのかな。
俺は踵を返し、人混みを抜けて駅構内へと入り帰宅の途に就いた。