《16》
「……」
愛に教えてもらった場所で、智花は独り佇んでいた。
体育館を出てぐるっと回った裏手、木々で木陰になった場所。ベンチに座ることなく、銀色の手すりに手を掛けてその先に見える公園を眺めているようだった。
「……花澤?」
話し掛けていいものか分からないまま、俺は智花の名前を呼んだ。
「先輩……」
俺に気づいた智花だが、背を向けたままそう呟くきりで振り向いてさえくれなかった。
花澤、もしかして……。
「すみません、勝手にみんなの元から離れてしまって」
「いや……」
智花の声に涙が滲んでいる。智花は泣いていた。
「可笑しいですよね、みんなのことを巻き込んだ張本人が1人で逃げちゃうとか。あり得ないですよ」
自嘲するように智花が笑う。無理をして笑っているのがバレバレで、作り笑いもすぐに消えてしまった。沈黙が流れる。風にそよぐ葉が擦れる音だけが聞こえる。
……。
「どうするんだ、花澤。勝負、受けるのか?」
「……受けません。これ以上、みんなに迷惑かけちゃいけませんから。辞めます、バスケ。ひよりの言う通りなんです。本当はわたし、バスケをしてはいけない人間なんです。全部、自業自得なんですけどね。全部……私のせい」
「……」
智花はどれだけ自分のことを責めるのだろう。過去、智花にいったい何があったのか。想像さえ及ばない。ただ、ひとつだけ言えることは、痛い。
「馬鹿ですよね。1度、ちゃんと辞めたのに。もう2度としないって、約束したのに……。性懲りも無く、またこうやってバスケをやって……。今度こそ、辞めなきゃ」
そう言葉にしたきり智花は口を噤んだ。自分に言い聞かせるように、無理矢理自分の気持ちに踏ん切りをつけるように、紡いだ言葉。俺と智花の間に言葉の余韻だけが残る。
得も言われぬ歯がゆさを覚えた。奥歯に何かの食べ滓が挟まって取れないような、じれったさがじわじわ拡がっていく。
……それは、違うだろ。
沈黙が流れる。お互いに何を言うこともなく、ただただ立ち尽くす。言葉を掛けるべきかどうか迷い、そんな権利が俺にあるのか分からず、延々と思考が繰り返されてはぐるぐる回る。
……。
答えは出ていた。にも関わらず、口が開けない。何を躊躇しているのだろうか。……分からない。
風が吹いた。木々を払い、駆け抜けるように吹いた一陣の風。その勢いに意図せず1歩前に足を踏み出された。まるで、見えない誰かに背中を押されたみたいな格好で、思わず後ろを振り返ってしまいたくなったほど。
……。
だが、俺は後ろを振り返らない。前だけを見据える。自然と口が開いた。
「……花澤」
傷つき、傷つけて、涙に咽ぶ智花のことをこれ以上見ていられなかった。迷いに迷って口を開いてしまった。しばらく続いた長い長い沈黙を破った。
「花澤が過去、さっきの女の子と何があったのか俺は知らない。彼女との約束もそれは大事なことだったんだろう。だけど、それは自分の本当の気持ちを押し殺してまで守る必要ってあるのかな?……部外者の俺が言うのもなんだけどさ。敢えて、言うよ。辞めたくないなら、辞めるな」
「……私は……」
ようやく、智花が俺の方へと身体を向けた。智花の顔は涙と涙の跡で濡れている。木漏れ日にキラキラ輝いていた。
けれど、智花は困惑している。気持ちが、心が、揺れているのだろう。きっと、自分の本当の気持ちと約束に囚われている気持ちとがせめぎ合っているのだ。
気持ちは分かる。だけど……。
「花澤の気持ちは分かる。だから、強要はしないし出来ない。だけど、1つだけ言わせて欲しい。諦めたら、そこで全部終わりだよ。今までしてきた自分の努力も、想いも、全部無くなっちゃう。それを全て踏まえた上での結論であれば、何も文句はないよ。でも、後で悔いが残る選択だけはして欲しくない。自分の気持ちに素直になれる時に素直になれないと、絶対に後悔するものだから」
正直、何様だよ、と思う。文句はないって……。
俺は智花の家族でも彼氏でも何でもないのに、この偉そうな物言いはいったい何様だよって。
だけど今、間違いなく、智花の大きな分岐点に来ていると思う。この選択を間違えたら、きっと一生後悔する。
この問題に介入するつもりは毛頭なかった。自分でもびっくりだ。らしくなさすぎる。何でこうまで智花の肩を持とうとしているのか。
それは……花澤に過去の俺が見えたから。
俺には分かる。俺の場合、有無を言わさない強制終了だったから尚更だ。自分の意思で決めることが出来るなら、自分の気持ちに素直にならなきゃいけない。
真由じゃないけれど、智花はバスケを辞めてはいけないと思う。まだまだ智花のことを〝知っている〟だなんて大それたことは言えないが、それでも、どれだけバスケのことが好きなのか、見ていれば自然と分かってしまう。この子は心底バスケのことが大好きだ。
それに、この小さな身体はバスケを欲して止まないはずだ。
あんなにコートの中を自由に駆け、跳んで、彼女だけのリズムを奏で、美しい放物線を描ける素晴らしい才能を持ってして、それを全て捨て去ることなど出来るはずがない。
ましてや、嘘をつくことだって辛いはず。それだけの高みにいるのだ。「はい、おしまい」だなんてあり得ない。
自画自賛するわけじゃないけれど、俺だってそれなりに成績を残してきた。知る人ぞ知る存在となり、多少なりとも一時代を築いたと言ってもいいかもしれない。
出来ることなら、もっとテニスを続けていたかったし、もっともっと高みを目指したかった。
……いくら足掻いても、もう手遅れ。今となっては夢の世界でしか叶わない夢と成り果てた。辛すぎるぞ、こんな夢……。
でも、智花は俺じゃない。まだ間に合う。手遅れになる前に気づくべきだ。自分の可能性に。
願えば叶うじゃないか。願わなければ、何も生まれない。俺のこんな想い、して欲しくないし、させたくなかった。
……伝えるべきことは伝えた。少しでも、届いただろうか?
あとは……花澤次第。
「先輩……」
俺の言葉を聞いた智花は、眉根を寄せて目を伏せ、何事か言おうか言うまいか、迷っているようだった。俺は智花の答えを静かに待つ。
しばらくして、意を決したのか、智花が顔を上げ口を開いた。
「……辞めたくない。私、やっぱり辞めたくないです!バスケ、大好きだから!みんなのことも!大好き。……これからもみんなで一緒にバスケやりたいです!」
……よく言った。
本心を乗せた言葉と共に、智花の瞳から新たな涙が零れ落ちた。
「ああ、だったら―」
「勝つしかないっしょ!」
俺の言葉を先取りして、背後から声が響く。真由の声。気がつくと、智花の仲間たちがゆっくりとした足取りで歩いて来ていた。
「うん!絶対に勝とうね!」
「勇往邁進、絶対勝利」
「みんな同じ気持ちよ、智花。勝ちましょう。必ず!」
仲間たちの瞳には力強い意志の強さが込められていた。智花の瞳から大粒の涙が零れた。
「……みんな、ありがとう」