《14》
「……はあ」
ため息しか出てこない。緩やかな時間の流れる土曜日の午前中。こんなに憂鬱な休みなんてどれくらい振りだろうか。
……。
後悔って何で先に出来ないのだろう。……無理か。
それにしたって、自分の浅慮さに呆れてものが言えなくなる。どう考えてもあの時、陽飛の問いの内容を確認すべきだった。訳も分からないまま、流されるだけ流されて、結局は後悔して……。
アホだ。アホすぎる。何で貴重な休みを潰さなければならないのか。
……。
自己責任だと言えばそれまでだが、何かに理由をつけて少しでも自分を慰めたい気分だった。勝手だとは思うけど、人間なんて大抵そんなものだろう。あー、あー……。
鬱屈した感情が渦巻いて止まらない。見上げれば、夏を少しだけ残したからりとした青空が広がっていて、俺の気持ちと丸っきり正反対でそれにつけても何となく不満に思えてしまう。
普通、こういう時はざんざん降りの雨模様とか、どんよりした曇り空が相場だろうに。
「先輩」
そんなことを考え辟易していると、いつの間にか智花がやって来た。いつも会社で見慣れているようなスーツ姿ではなく、スカイブルーを基調にした斜めにイエローのラインが入ったジャージを羽織り、短パンにスポーツバッグの出で立ちで今すぐにでもバスケが出来る臨戦態勢。
……っていうか、そんな格好したら余計に社会人だなんて到底思えないのだが。……余計なお世話か。
「すみません、お待たせしてしまいましたね」
「いや、俺も今来たところだから」
よっ、と壁に預けていた身体を軽く反動をつけて壁から離れた。
「じゃあ行こうか?」
「はい!」
にっこり頷く智花。
……悪いのは俺だからな。
今日ばかりは仕方がない。完全に俺の過失。愚痴るのは心の中だけに留めて何事もないように、いや、むしろ楽しみにしていた体で対する。本心をぶちまけたら、まず間違いなく智花が傷つく。さすがにそれは可哀想だ。だから、おくびにも出さない。
フラストレーションは溜まるばかりだが。……禿げたら嫌だな。
智花に気づかれないよう自嘲気味に笑みを漏らし、2人で駅の改札を潜った。
「本当に宜しかったんでしょうか……?」
最寄り駅で降りて会場へ向かう途中、智花が気遣わしげに訊ねてきた。
「え?何が?」
「今日は先輩、本当はお休みだったじゃないですか。真由がほとんど強引に来てくださることを決めちゃって……。ご予定とか、本当はあったんじゃないかって」
上目遣いに訊いてくる智花。
……ったく、この子は。
「そんな気を遣うことなんかないよ。休みだけど別にやることなかったし」
「そうですか?ならいいのですが」
「それに、昨日の帰りにも言ったけど、花澤のプレーを見てるとスカッとするから」
「先輩……」
明るく繋げたつもりで言ったのに、智花は気恥ずかしそうに目を伏せてしまい、まずったかなと思う。
でも、本心だから仕様がない。
昨日の帰り道、気落ちしていた俺だったが、智花に練習のことを尋ねられてつい弁を連ねてしまったのだ。思わず興奮してしまった。スポーツ選手だった古い血が俺の中で騒いだ。歯止めがきかず、褒めちぎった。その時ばかりは沈んだ気持ちはどこへやら吹き飛んで、賛辞を贈った。
それくらい、智花のプレーは凄かった。競技は違えど、そのレベルの高さは分かるし、何よりその高みにいることに尊敬の念を抱かずにはいられない。
……。
ちょっとだけ羨ましかった。そんなこと、口が裂けても言えないが。
「まあ、ともかく。今日も宜しくな」
「は、はい!宜しくお願いします!」
気まずくなりそうな空気を断ち切るように会話を終わらすと、智花は気を取り直してくれたみたいで元気よく返事をしてくれる。
褒められるのは嬉しいものだが、むず痒いし、逆に居たたまれない気持ちになるものだ。実際俺だってそうだったし、智花に至ってはそれは顕著だろう。別に、智花のことを精神的に攻めたりしようとした訳なんかじゃ無論ないが、結果としてそうなってしまい少しだけ悪く思った。
やっぱり、発言には気をつけないとな。反省。
そんなこんなで会場に到着。入ってすぐの下駄箱に靴をしまい、受付へと向かおうとした俺と智花の足が止まる。正確には止めさせられた。
「えー!?ちょっと待ってよ!なんで!?あたし達、昨日ちゃんと予約したじゃん!!」
焦りを伴った真由の声が館内に響いたのだ。
「今のって、井口さん、だよな?」
「はい、真由の声です。何かあったんでしょうか?」
「行ってみよう」
智花と頷き合い、下駄箱の棚から顔を覗くと、ちょうど受付の真ん前で真由の姿を認めたので、俺と智花は小走りで真由の元へと向かった。こちら側からだと後ろ姿しか見えないが、燃えるような赤いジャージを着た黒髪ロングの女性と向かい合って立っていた。
「それはあり得ないわ。だって、土曜日のこの時間は私たちが毎週予約を入れているんだから。間違いなく、受付の手違いね。きっと、最近いるバイトの人が勘違いして予約入れちゃったんじゃないかしら?まあ、どっちにしても、コートの使用権は私たちにあるわ」
「そんなのってないよ!」
「だから!あなたも分からない人ね」
「何かあったの?」
「大丈夫?」
「あ、まーくん、花ちゃん!」
言い争いを続けている相手を挟んで声を掛けると、真由が心強い援軍を得たとばかりに困り顔を解いた。
「ねー、聞いてよ。なんか、昨日コート予約したのにさ、ちゃんと予約取れてないって言うんだよ。それっておかしいよね!?」
「あのね、だからさっきから説明してるでしょ?ちょっと、同じチームの方ですか?いい加減、理解してもらわないと―」
「え」
半ば疲れ気味に振り返った女性と智花の視線が交錯して時間が止まった。
まるで、お互いに見るはずのないものを見てしまったかのような、驚きに満ちた表情。
「ひより……」
ぽつりと呟いたのは智花。呆然としている、とでも言うべきか、智花は放心状態に近いくらいその顔に生気を失わせてしまっていた。
「へ?花ちゃん、この人と知り合いなの?」
「……こんなところで会うなんて思いもしなかったわ。久し振りね、智花」
「うん、久しぶり……」
ぎこちなく応える智花。智花にひよりと呼ばれた女の子は、一転して笑みを浮かべて智花に応じる。
けれど、その笑みは友好的とは程遠く、どこか嘲笑に近いように感じた。
どういうことだ?知り合い……友達、じゃないのか?
「何?智花、そんな格好してこれから何するつもり?まさかとは思うけど、バスケなんて言わないわよね?」
「え、えっと……」
「まさかじゃないやい!バスケに決まってんじゃん!花ちゃん、すっげぇ上手いんだかんね!見たら度肝抜かれるんだから!」
高圧的な女の子の物言いに口ごもる智花をフォローするように、真由が興奮気味に言い放った。
すると、女の子は声を上げて笑い出した。
「智花が上手い?ふふ、あははは!ちょっと、笑わせないでよ。〝終わった選手〟に何言っちゃってんの?あなた、目がどうしようもないくらい悪いんじゃないの!?」
「な、なんだとぉ!ふざけんな!おい、花ちゃん!何か言い返せって!花ちゃんならこんなヤツ、ソッコーでやっつけられるっしょ!?」
「……」
智花のことを揶揄する女の子にヒートアップする真由だが、それに反して智花は眉根を寄せて無言のまま俯いてしまっている。智花のこんな顔、初めて見た。
……花澤……?
「花ちゃん……?」
「さすがに、智花は分かってるわね。……っていうか、どういうことなの?私、言ったわよね。あなたはもう2度と、バスケやらないでくれるって。あの約束はどうなったのかしら。私に見つからなければ、隠れてバスケやってても大丈夫だと思った?……何度私のことを裏切れば気が済むの?」
「それは……」
「ちょ、ちょっと待ってよ!ねえ、どういうこと!?なんで、花ちゃんがバスケやっちゃダメなのさ!そんなのおかしいでしょ!?」
「部外者は口を挟まないでくれる?これは私と智花の問題なの。あなたには関係ないわ」
「関係大アリだよ!あたしは花ちゃんの仲間だもん!花ちゃんはウチのチームのエースなんだ!エースのこと侮辱されて黙ってなんかいられるか!!」
真由はいきり立って女の子に食ってかかる。当の女の子の表情が変わる。真由もその変化にたじろいだ。相手を威圧する目力。永遠に解けない冷たい氷を連想した。
「智花があなたのチームのエース、ね」
「そうだよ!なんか文句あんのかよ!?」
「ちょ、ちょっと真由!どうしたの!?」
「何かあったの?」
「すったもんだ?」
とそこへ、既に集合していた陽飛・愛・比奈子がやって来た。真由と女の子の口論に尋常じゃない事態を察して駆けつけてくれたらしい。
「こいつが花ちゃんのこと侮辱したんだ!」
ずびしと女の子に向かって指を差す真由。その剣幕に状況を飲み込めない陽飛たち。無言のまま俺と目が合い、声を発しないまま会釈で挨拶を交わしておく。
「ふーん、この子たちが智花のチームメイトなわけね。私のことを騙して、この子たちとずっとバスケを続けていたわけか」
「そ、そんな……!私、騙してなんか―」
やっとのことで口を開いた智花だったが、その言葉も途中で遮られた。
「騙したでしょ!?バスケを2度とやらないって約束を破ったんだから!嘘つきも甚だしいわ!」
「それは……ごめんなさい。でも、ひより、私は……」
鬼のような形相で智花のことを糾弾する女の子に、智花は懸命に抵抗しようとするが、言葉を言い切ることが出来ずに押し黙ってしまう。智花の小さな身体が震えていた。
「『でも、私は』?智花、あなた勘違いしてない?言っておくけど、あなたの気持ちは関係ないわ!隠れてやってるなんて最低よ!恥を知りなさい!……もう1度約束しなさい。金輪際、バスケを辞めるって。それで許してあげるわ」
「ひより……」
悲痛な面持ちで、今にも涙が溢れそうな瞳で訴える智花。女の子は自分の要求に首を縦に振らず、顔を歪め立ち尽くす智花に腹立たしげに舌打ちした。
「何、その目は?未練ったらしい汚れた目。……ふぅん。だったら、勝負する?私のチームとあなたのチームで。あなたのチームが勝ったら、いいわよ?もう私は口を挟まない。好きなようにバスケでも何でもすればいいわ。でも、私のチームが勝ったら今度こそ完全にバスケを辞めてもらう」
「勝負……」
「その勝負、受けてやる!」
女の子の申し出を受諾したのは、他ならぬ真由だった。
「ま、真由!?あんた、状況分かって言ってるの!?もし、負けたら……」
「分かってるよ!でも、ここまでボロクソに言われといて退けるわけないだろ!?それに、勝負に勝てば花ちゃんはなんの文句もなくバスケを続けられる!これ以上ないジョーケンじゃん!!」
「ふふ、じゃあ、決まりね。時間は……来週のこの時間でいいかしら?言っておくけど、直前にビビって逃げ出しても不戦敗ってことになるからね?」
「誰が逃げるか!そっちこそ、吠え面かかせてやるからな!」
「楽しみにしてるわ。智花がどういう答えを出すのか、もね」
女の子は身を翻し、コートの方へと歩いて行ってしまった。女の子の姿が見えなくなるや、陽飛が口を開いた。