《10》
「……」
「どうかした?」
ふと智花の視線に気づいた俺は声を掛けた。
まさか、例の視線を感じているのだろうか、と思い身構えるも、智花の雰囲気がそれとは別物だったため、身体に走らせた緊張をすぐに解いた。智花は俺を見上げるようにして、ほわんとした気の抜けたような顔をしていた。
「いえ、なんか……不思議な感じがしまして」
「不思議な感じ?」
「こうやって、いつも通る道を先輩と一緒に歩いているんだなって思うと、不思議、というか……なんというか。上手く言えないんですけど」
にへりと笑う智花。
……大丈夫かな。
智花の気の抜け過ぎ具合に不安を覚える。仮にも、智花は得体の知れない誰かに狙われているかもしれないわけで。そのために俺が付き添っているのだ。
そりゃあ、ずっとビクビク不安がられていても困るけど、こうも緊張感がないと、こっちとしても気が抜けてしまう。
「……何か感じたりしたらすぐに教えてな」
「は、はい!」
余り気が進まなかったが、敢えて釘を差すと智花は表情を引き締めて返事をしてくれた。ちゃんと趣旨を理解してくれているのでほっと安心する(本人からの依頼なので当たり前といえば当たり前なのだが)。
ハンバーグ店を後にして、バスに乗り幾つかの停留所を過ぎ、モノレール駅前で降りた。人の往来が多い商店街を通り抜け、住宅街をしばらく行くと国道にぶつかる。通りに沿って北上するように歩を進めた。四車線の道路であるものの、車の往来は思ったよりも少ない。民家やアパートが並んでいるがぎゅうぎゅう詰めという訳でもなく、窮屈さを感じない程度に空間の余裕が感じられる。所々に畑や田んぼが点在していて、田舎っぽさがあって妙に落ち着く。
ハンバーガーショップやゲームも扱う古本屋を通り過ぎて、大きな交差点の手前に小学校が見えた。ちなみに、交差点の信号機に添えられた看板を見ると、道路の反対側の坂を登っていくと大学があるらしかった。
「あともう少しです」
小学校のすぐ脇道に入り道沿いに歩くと橋があった。と言っても、大して高さがあるわけでもなく、下に流れる川の水量も大雨が降ったとしても溢れそうにはない程度のささやかなもの。むしろ、川遊びをするのにもってこいとさえ思えた。
「この辺りくらいから、なんです」
橋を渡りながら、智花は俯き加減に声を潜めてぽつりと言った。
「え、ここ?」
周囲を見回す。橋を渡り始めてちょうど半分くらいの場所で、民家の明かりが弱々しくぼんやり灯っているが特に視界を遮られるような障害物は見当たらず、死角という死角はないように思える。
「近い、ですから」
「ん?あ、ご、ごめん!近過ぎた!?」
俺は飛び退くように慌てて智花との距離を取った。よく考えなくても智花は女の子で、男である俺への絶対不可侵領域的な距離があったのかもしれない。もっと思慮深くなくてはならないなと猛省する。
「あ、いえ、そういうことではなくて!」
悪い事をしたかも、と思っていると、智花は手を振って慌て気味に否定。
「私と先輩、こうやって近いのでお互いがお互いを認識できますけど、少し距離が開くと……」
言いながら智花が止めていた足を進めると、ほんの数メートル行ったくらいから智花の姿が朧気になる。
「先輩、どうですか?私のこと、見えますか?」
「ちょっと厳しいかも」
答えて俺も智花の後を追った。
「周囲の民家の明かりはここまで届かなくて。夜のせいで死角になってしまうんです」
「なるほど」
となると、この橋の上は一転して危険な場所に成る。一本道で周囲には遮るものなど何もないと思えたのに、まさか〝夜〟が障害物になるだなんて。対応策が浮かばない。
考えられる最善は、智花が日の出ている内に帰宅することだけど、定時は18時で今の季節、日は完全に暮れている。やはり、誰かが付き添ってあげなければならないだろう。
……甘くはなかったか。
上手くいけば、今日1日でお役御免になれるかとも思ったのだがアテが外れる。
さて、どうしたものか……。
ともあれ、それは追々考えることにしようと決め、ひとまず忘れておく。
智花と一緒に橋を渡りきると、年季の入ったアパートにぶつかる。傍らに何の木かは分からないが葉を身籠った大木と竹林があり、強烈な緑の匂いが充満していた。アパートから二手に別れた道は緩やかな傾斜の坂道と少し下るように迂回する道。
「こちらです」
智花が先導するのは下り道。道の途中まで流れる川に沿うように続いていたため、穏やかな川のせせらぎが耳に心地よかった。徐々に川辺りから離れていくと木々が多くなってくる。生い茂る木々たちはどれも大きくて高く、まるで道を覆う緑のアーケードだった。涼を得るには絶好の場所に思う。
しばらく緑の道を歩くとカーブに差し掛かり、そこで視界が開ける。背の高い金網に囲まれたテニスコートが見え、カーブから始まった上り坂を行くと大きな運動場が目につく。坂の途中に入り口があり、【小塚運動公園】のプレートが掛けられていた。
「ここの公園には毎朝お世話になっています」
「あ、言ってたストレス解消法の?」
「はい。ほんと大したものではないですが」
「毎朝ってことは出勤前に?」
智花はこくりと頷く。
「もう完全に日課になっていまして。えへへ、ちょっと病気かもしれません」
「凄いな……。そんな早起き、俺には無理だ」
「昔から朝は強い方でしたので。逆に、夜の方が苦手かもです。……あ、着きました」
智花の足が止まり、俺も智花に倣う。会話をしながら上った坂道、その中腹ぐらいの場所にある、見るからに真新しい5階建てのマンション。白と水色のコントラストが絶妙で西洋のお城を思わせるようなお洒落な造り。ここが智花の家らしい。
「私の部屋は209です」
「そっか。じゃあ、ここまでで大丈夫かな?」
「あ、はい。そうですよね。すみませんでした。先輩のおかげで、今日は安心して帰ることが出来まし
た。ありがとうございます」
恭しくお辞儀をする智花。
「いいよ、そんな畏まらないで。戸締りしっかりね」
「はい!先輩、また明日で」
「また明日」
小さく手を振る智花に手を上げて応え、俺は踵を返して歩き出す。元来た道を戻っていく。足取りは重い。
これ、俺ん家から相当距離あるぞ……。
家に着くまでにどれくらいの時間を要するのか。頭が痛くなる。しかも、この行程が明日以降もずっと続くかと思うと憂鬱すぎる。早いとこ、何か上手い対策をとらなければならないのだが、それを考えるだけでも面倒くさくて堪らない。
……本当に厄介事だ、まったく。
「……ん?」
脳内でぶつぶつ文句を垂れていた俺は橋に差し掛かったところで何やら違和感を覚えた。誰かにじっと見られているような刺すような視線。俺のことを見定めているみたいに、穴が開くほど見られている気がする。
……これが花澤の言っていたやつか?
お世辞にも居心地がいいとは言えず、背中にうすら寒い悪寒じみたものが走る。
……さっさと帰ろう。
俺は不気味な暗闇が覆う橋をそそくさと渡り帰路へ就いた。