婚約者に「愛することはない」と言われたその日にたまたま出会った隣国の皇帝から溺愛されることになります。~捨てる王あれば拾う王ありですわ。
その国の王は病床に臥せ、あと幾ばくかの命であった。王位継承式の支度に者々が忙しく駆け回る最中、その隙を突くようにフィリベール王太子はいきり立つ。
「お前との婚約を破棄する」
それが破滅への引き金になるとは、よもや夢にもおもわずに。
「レヴィーナ、お前はつまらない女だ。未来を見通す聖女との触れ込みで、この私の伴侶の地位を掴んだのだろう?」
王太子は気の早いことに、この謁見の間にて壇上の王座でふんぞり返る。王座より伸びる深紅の絨毯の先では、召された婚約者レヴィーナが恭しく頭を下げていた。
錦糸の髪に花のかんばせ。しなやかな手足に、優美な所作。人々より尊ばれるものを多く持ちながら、それらをここぞと利用する素振りなく、彼女は目を伏せたままに申し上げた。
「あなた様にお仕えするためこの世に生を受けた身でありますれば、この私の真心をお汲みいただきたく存じます」
焦りも情けを乞う卑屈な姿勢も、彼女はおくびにも出さない。この場に従えられし従者らは固唾を呑み事態を見守る。
ラクロワ侯爵家の末娘レヴィーナが王城に召し上げられ早三月。王太子は彼女の、このように畏怖のない態度が何より気に食わない。評判の、聖なる力などには興味もない。彼は従僕の、いじけた心の暗闇を垣間見る時こそ満悦に浸れる、それだけの人物だ。
「お前を愛することはない。女はただ見目麗しく、頭は鈍いのが良い。ラクロワ家もうるさい人間ばかりだしな。すぐにも私の御代がやってくる。いい機会だ、この王城から出ていけ」
衆人らの焦りで場の空気は湿り気を帯びる。レヴィーナは声を失い立ち呆けた。
彼女は成るほど日頃から毅然な態度を崩すことなく、それは婚約の成立したその日から、王太子に尽くす生涯に誇りを抱いたからだ。彼女はただ他生の縁で結ばれた人を愛したく、この度の婚約はそのよすがなのだと信じていた。言葉の裏を読む人の存在を見越せない、無知で無垢な少女であったのだ。
「悔しゅうございます! レヴィーナ様ほど思いやりに溢れたご令嬢はいらっしゃいませんのに。聖なる力だって、権力争いの元になることを危ぶんで……」
自室に戻った途端にまくし立てる侍女を嗜め、レヴィーナは窓の向こうをぼんやり見つめた。
「いいえ、予言の力なんて元よりなかったの。子どもの頃は視えていた気になっていただけ。まだ子どもだったから、臆面もなく話してしまって」
「しかしずいぶん評判になりました。人々の未来をちゃんと当てておられましたのよ」
「どちらにしても今は何も視えないわ」
しかし彼女は理解していた。予言の力を求めていたのは王家の重臣らであって王太子本人ではない。王太子の周りには艶やかな女性が多く取り巻いており、妻として対等に、ひとりの人として尊び合いたい自身は受け入れられるものでなかったと。
挙句この恬淡とした態度が、婚約破棄に及ぶほど王太子の不興を買ってしまった。こうなれば責が実家ラクロワ家に及ぶのは必至。
彼女は不出来な自身を責めた。
その行く末を暗示するかのような暗雲立ち込める、王城の夕空であった。
夜もすっかり更けたころ、人目を忍びレヴィーナは王宮庭園の隅に置かれる古井戸にやってきた。あたりの草木は煩雑に茂り、夜鳥の寒々しい空音が聞こえる。
「もう私に未来などない。生まれ変われるなら次こそ伴侶と愛し合いたい。嘘偽りなく、虚栄もなく疑心もなく、ただ共にあるだけで幸せにあふれ満たされる日々を……」
一族の助命嘆願を自室の机に書き置いてきた彼女は、ためらいなく井戸に飛び込んだ。
瞼を開けると、その視界に飛び込んできたのは並立する木の棒だ。それらは椅子や机の脚だと徐々に気付くのだが、彼女はまだ朦朧として、伏せたままのんきな独り言をつぶやいた。
「あら。想像していた天界の地とは、草花の敷き詰めた野原だったのに……」
おもむろに起き上がると、その部屋はレンガが壁を成し、ところ狭しと並ぶテーブルの奥にはカウンターが見える。
ほの暗いそこに明かりを灯すは四隅の篝火。その一角にひとり腰掛ける人物を、彼女は目に入れた。
「お酒のにおい……。ここはダイニング?」
あの世にも食料をいただく理由があるのだろうか、と考えを巡らすが、よく見れば自身の身体も妙に生々しい。この感触も何も変わっていないではないか。
「……誰かそこにいるのか?」
テーブルで伏せていた男が彼女に気づいたようだ。レヴィーナは立ち上がり、人物の様態をまじまじと見る。酒瓶に囲まれる彼は、前屈みの姿勢のまま彼女を睨みつけた。
「ここはどこ? あなたは誰?」
「お前こそ誰だ」
「ここは死者の集う家?」
「私の家だ。死者とは失敬な」
その物言いに、ここは生者の家ということが判明した。また男は目を反らしたまま項垂れ、微動だにせずにいる。
「酔っているの?」
レヴィーナは彼の隣に腰掛けようと寄っていった。
「酔えたら良かったのだが。……呑めないんだ」
「下戸なの…」
椅子を引いて彼の隣に腰を下ろす。その顔を覗き込もうとすると、彼もほんの少し彼女の方に目を向けた。
斜めから彼の顔を目にしたレヴィーナは、はっと言葉に詰まる。
ずいぶん若く美しい男だ。長い睫毛の奥の目は若干虚ろなものだが、すらりとした鼻筋に、女性と見まごうふくよかな、形の良い唇。無造作にかき回した後の髪は暗がりですら光を集める銀の絹糸のよう。
────計算し尽くして造られた蝋人形みたい。美しい。
その瞳にも光を灯せたら、と思わせるには十分な、男の妖艶さであった。しかし時が止まったのはレヴィーナだけではない。
唐突に現れた乙女の可憐な面立ちに、彼も一瞬にして心奪われていた。深海の泡にもなぞらうマリンブルーの瞳を、せつなげな表情にそっと乗せた清らかな少女だ。薄暗いここの背景などつゆもそぐわぬ貴い娘に、神の使いの精霊か?と、彼も清しい空間へ招かれたようにおぼえた。
しかし直ぐに、得体の知れぬ者に謀られようものなら、と頭を振るう。
「呑めない酒をあおるなんて、どうして…?」
「この国はとっくに腐りきっている……」
突如現れた精霊に救いを求めてしまったか、彼はぽつりぽつりと語り始めた。
この青年は末端貴族の三男坊。イザード家のセドリックといった。
イザード家……聞いたことないわ、ここは我が国とは違うのかしら、と彼女は思ったが、続けて彼の語りに耳を傾ける。
彼は優秀な成績をおさめ学院を卒業し枢密院議員の配下に組みしたが、家柄を見られ小間使いにしか使われないようだ。
「この社会は間違っている。己だけ蜜を吸いたがる奴が多すぎる。贅沢な宮殿を一歩出れば、困窮した民草の明日も知れぬ暮らしぶりというのに」
彼の国も圧政が敷かれ、抗う者はたやすく刑に処される。民衆は互いに不信感を抱き本音を閉ざし、殺伐な街の風景ということだ。
どこの国も変わらないのね、そうレヴィーナの心は沈んだが、まだこの時は、自身には縁遠い世界のことのようにも感じていた。
「人のいい生真面目な父は上に利用された挙句、手酷く裏切られた。家族の出世の道を閉ざされ、母は病み寝込んでしまった」
「お気の毒……」
「私は、正直者が馬鹿を見る、こんな国を変えたい。しかし、このような身分の者の進言など鼻で笑われ切り捨てられる」
レヴィーナも多少は男性社会の機微を理解している。このように利発で口巧みの若者はいいように使われ、手に余れば目の上の瘤となるだろう。
「出自に恵まれ袖の下で上っていくボンクラをいつも下から眺めている。今日はそういう輩にうまく生きろと諭された」
こぶしを固く握る彼。
「こんな世の中で、私の誠意も努力も、ろくに認められやしない……」
口惜しさを隠さない彼の傍らで、レヴィーナはふと、少々身を乗り出してその瞳を盗み見た。
「…………!」
彼がその痛々しい瞳を伏せる直前、確かに視えた。
一条の、力強い光がつんざいた。
覗いたその瞬間はまだ、底知れぬ深い暗闇であった。次の刹那、奥のそのまた奥から放たれる、希望の光が。
────この人は……あたたかな光をまとい、歩みの先で国を救う。
レヴィーナは子どもの頃に視えていた、あの感覚を思い出した。
教えてやればよいのだろう。あなたは何らかの偉業を成し遂げる男だと。しかし彼は絶え間なく愚痴を続ける。
「こんなお人好しの家に生まれてきた運命が憎い。地位があれば、資産があれば、それだけで蔑まれずに済むのに。この身分社会で私は他の者よりもっと、もっとずっと尊重されたい。そうでなくては生まれてきた甲斐がない。私は永遠に敗者だ!」
しかし彼女は、彼の野望ではなく、真心に働きかけたくなった。
「地位や金がそんなに大事? それらを持つ者は幸せかしら」
また自身を取り巻く現状を顧みて、彼女はふと伏し目がちになる。
「地位も金も求めれば際限はなく、いつまでも飽くなき欲求に追い立てられて人の一生なんて終わってしまう」
が、次に上向き彼に見せた表情には、慈しみというものをたたえていて。
「愛しく思う人がいて、その人を守るために日々懸命に働き、感謝し合い尊重し合う。それは命が終わっても、永遠に消え去ることのない確かな思い」
そっと彼の肩に、たおやかな手で触れた。
「愛はささやかでも力強いの。そんな愛を生涯で見つけられた人こそ、永遠の勝者よ」
「そんなの……」
自身の怖気を認める彼には、屈託ない彼女の微笑みがあまりにまぶしい。直視に耐えず顔を背けた。
「……無理だ。そんなもので納得できない。何かを成さなくては、何かにならなくては、男に生まれてきた意味がない。こんな虚しい立場では愛しい家族も守れないんだ!」
「…………」
彼のむせび泣くような怒号に、彼女は一時言葉を失ったが。
「やっぱりあなたは、愛しい者を守りたいのね。それなら……」
彼の中には確かに柔らかな思いが存在すると知り、自身の視たものを伝えようとした。
ところが彼は、彼女の手首をぐっと掴み、突して顔から詰め寄るのだ。
「こんな……何も分かってない女は汚してしまいたくなる」
目を細めた彼は許しを請うているようでもあった。
夜の静けさの中、レヴィーナは拒む余地もないが、目をぱちくりとして。
「困るわ……。あ、いえ、困らないわ」
「どっちだ」
「困らない」
彼女は婚約者としてフィリベール王太子に操を捧げるつもりでいたが、つい先ほど気まぐれに捨てられ追放も免れない事実を思い出した。もはやこの身などどうなろうとも。
「それであなたの、一時の安らぎとなれるなら」
レヴィーナは目を閉じた。
その素顔に、虚勢を張ったセドリックは、まるで神々しい、これはやはり神の使いなのだ、と胸を詰まらせ己を恥じた。
手は放された。まぶたをゆっくり開けるレヴィーナに彼は後ろめたく、ごまかすために酒を一口飲み干した。
「呑めば辛いことを忘れられるの? 私も一口欲しいわ」
彼女はたった今のことを気にも留めず、無邪気に顔を覗き込む。すると彼は唐突に、彼女の後ろ頭を大きな手で包み、彼女の口元に己の口を寄せたのだった。
「んっ……??」
彼女は口移された液体を一気に飲み込んだ。
「いや、あの、……たまらなくなった」
彼女の頬に節くれ立った長い指を添え、彼は今も切ない目をしている。それを受けレヴィーナは、酔いとも違わぬ熱がこみ上げた。するとその時。
「あっ……」
「どうかしたか?」
身体に稲妻を受けたような衝撃を覚え、椅子から落ち、うずくまる。
「おい、大丈夫か……」
どこかへ飛ばされる予感が走る。抱き起こそうとした彼の腕を慌てて掴んだ。
「聞いてっ…。見失わないで。あなたはきっと、国を変える……」
そして力を振り絞り食堂の出口へと。そこを曲がった瞬間、彼女は飛び立った。
「レヴィーナ!?」
急いで追ったセドリックが出口を抜け、彼女の曲がった方へ向いた頃には、そこに何の気配も感じられず。
ひとり残された彼は指先で自身の唇に触れ、彼女とのひと時が夢でないことをぼんやり確かめていた。
「……あら……ここは…?」
うつぶせの彼女が目を開けたらそこはいつものごとく、差し込む日の光で暖かいまどろみの午前。自室に戻ってしまったと自覚した。
机の上には昨夜書き遺した嘆願書がそのまま置かれている。死ねなかった、そう彼女は頭を抱えた。
ちょうどその時、王太子からの使いが呼びにきた。
「仰せの通り実家に帰る支度をしているところですが」
とにかく早々に、謁見の間へ来いとのお達しだ。
本日も物々しい空気流れるその場に到着し、深く礼をした彼女を待っていたのはこの言葉だった。
「婚約破棄を白紙にしてやらぬこともない」
「……?」
ただいまフィリベール王太子の周りには煌びやかな形の女性らが囲んでいる。その者らもレヴィーナに対し、優位を誇る心持ちで見下げていた。
「ここで今、お前がいかに私にふさわしい女であるか、訴えてみろ」
「は?」
珍しく怪訝な表情をあらわにしたレヴィーナだった。
「家臣らは類まれな美貌だの学才だのお前を誉めそやすが、お前など、私の亡き母上の足元にも及ばない。この私がどうしてお前で満足できようか?」
王座の王太子は肘をついたまま足を組み替えた。
「お前のどこがこの女たちより優れていて、これらを差し置いて妃の座に就けるというのか。いかに私の隣に並ぶのに遜色ない女であるか、私を説き伏せてみろ」
「…………」
「私が納得するのであれば、婚約破棄を取り下げてやろう」
レヴィーナはここでようやく気が付いた。昨日の婚約破棄は彼の仕込みであったのだ。日を跨いでまで自身を辱めるために敷いた、狂言の舞台なのだこれは。
己の才や器量のいかに素晴らしいかなど、彼女は衒いのなさを美徳とするよう教育された令嬢だ。切々と語るなどもってのほか。
「おい、お前は何ができるのだったか」
「はい、殿下。私、5か国語を操れます。会話術はどなたにも負けませんわ」
「そこのお前は?」
「私は書が得意でございます。この宮廷にも飾られておりますの」
令嬢らがそれぞれの特技を鼻にかける。この挑発に乗るわけにはいかなかった。芸術など絶対の基準のないもの。ここで仮にレヴィーナが楽器を歌声をと謳おうものなら、ニタリとこびりついた笑みを浮かべる王太子の、鶴の一声で叩き落される。どう出たところで同じ、ただ弄ばれているだけなのだから。
目を閉じると、悩めるセドリックの姿が脳裏に浮かぶ。彼女ももう昨日までの彼女とは違っていた。
────今ならあなたの気持ち分かるわ。他者を踏みにじることに忙しい人もいるのね。
ならば、と彼女は奮い立った。
「私にも、どなたにも負けない技能がございます」
「ほう?」
王太子の目は輝いた。ここで彼女が物申すなら、しょせん取り巻きの者らと何ら変わらぬ、身分やら金やらに執着隠さぬ浅ましい女だと罵る手札が増える。
「フィリベール様、あなたのような不幸な方を愛することができます」
「……は?」
「だって、あなた様は愛されたくてしかたなくて、私にこのような仕打ちをなさるのでしょう」
「なんだと!?」
王太子は立ち上がった。彫刻のごとし顔に怒りの筋が浮かんだ。
「そちらにいらっしゃるお方々のどなたにもできないことを、私ならして差し上げられますわ。お可哀そうなあなた様に心から同情し、生涯の終わりまでよしよしと撫でて差し上げます。地位などどうでもよろしいですし、贅沢も好みません。あなた様が私に心を開いてくださるのを楽しみに、余生を生きてまいりますわ」
壇上の娘たちは震える王太子になすすべもなく、尻込みするばかりだ。
「寂しさに耐えきれず私の愛を欲する時は、いつでも私の部屋にお訪ねください。私はあなた様の婚約者ですから、心から尽くして差し上げましょう!」
レヴィーナは再びドレスの裾をつまみ、かくも優雅に頭を下げた。そして許しを得るより先に、踵を返し謁見の間を後にしたのだった。
自室に戻ってからは、書いた嘆願書を手に取り、くしゃくしゃと丸めて棄てていた。
再び彼女は庭の古井戸へ向かう。死のうとして? いいや、どうせ命運はより力のある者に握られている。それが心底虚しくて、その心を慰め合えるであろうあの彼に。
また、会えるかもしれないと、その身を井戸へ投げうったのだった。
「今度は……?」
そこは夕暮れ時の草原か。伏せるレヴィーナは痛みも感じず、ただ草の香りに身を委ねていた。いつしかざくざくと草を踏む音が地を伝い聞こえてくる。
「そこの者、いかがした?」
声を掛けられ、慌てて半身を起こした。すぐそこには鏡のような湖が広がり、赤々と夕焼けを映している。はっとして声の方を振り返ると。
「……セドリック!」
「レヴィーナ?」
呆然とした彼を見つめ、たった一日ぶりだというのに、胸をたちまち熱くする。そうした、顔を紅潮させたレヴィーナを、セドリックはゆるりと抱き起こし、
「君は……不思議な女性だ」
目を細めてそうつぶやいた。
「……っ」
レヴィーナはどうしても甘えたくなり、彼の胸に突如とび込む。
「私、嘘をついた」
「?」
「愛せるわけないわ! あんな権威主義の権化で、自身を彩る添え物の女しか必要としていない人、愛せるわけない! ……でも愛せると言ってしまった。私は初めて嘘偽りを…。いえ愛したいのよ、きっと彼は寂しくてひねくれてしまっただけ。きっと何物かの犠牲者なのだから……」
そのようにまくし立てようと、彼に意味が通じるわけもない。
「無理しなくてもいい」
彼は理解したのか、彼女の目を見つめるため、両肩をやんわり手に包み、自身から優しく引き離した。そして彼女をなだめんとするひたむきな視線を、ただ投げかける。
「無理なんて……」
「残念だが、人には生まれついての悪党なんていうのもいるのだ。君は無理しなくていい」
彼女は彼にそう言われたかったのだろう。気分が落ち着いたら自身も彼の面立ちをよく見つめてみた。どうも昨夜の彼よりいくぶん顔立ちが精悍になっていて、何か吹っ切れたようでもある。
「あなた、変わったかしら?」
「……君と以前に会ってから3年は過ぎただろう。変わるに決まっている」
レヴィーナは言葉を失った。時の流れが等しくないことを知った。
しかしここはあずかり知らぬ空間であり、そもそも彼が実在の人物かも分からない。これはただの、彼女の夢の世かもしれない。
「ずっと君に礼を言おうと思っていた」
「え?」
「私が変われたのは君のおかげだ」
「……? 私が何か?」
「家族のため友のため、がむしゃらに突っ切る覚悟ができた。私にはもうそれしかないのだから。すなわち、私を認め支えてくれる人々のために奮起するだけが、私の唯一の真心だと」
彼はまた彼女を見た。少し、触れたそうにして。
「君が教えてくれた」
「あなたの瞳に、命を懸けようという強い意志が見える……」
このときセドリックの瞳に一抹の寂しさが灯る。
「ああ。私は明日、戦場へ発つ」
「え……」
彼のプールポワンは血のような赤い色をしている。それは覚悟の色だった。
「愚者を滅ぼし国の秩序を正す」
レヴィーナは悟った。世を変えたいと願った彼の、ここは一世一代の局面であると。女の身で命を大切になどと言えるはずもない。命を懸けねば世を変えることなどできないと、覚悟を決めた男に。
「私もあなたのようになりたい! 強く逞しく、勇気に溢れ信念を貫くその姿に……」
この瞬間、レヴィーナは彼の意志に当てられ、広いこの世を思うようになった。生まれ変わったのだ。
「嬉しいことを言ってくれる」
夜が明けたら戦地へ赴く彼は、幼少の頃より気に入りのこの湖で、故郷に別れを告げていたところだった。
柔らかな風がふたりを包む。その矢先に、彼の肩にひとひらの葉が舞って落ちた。彼はそれを円錐になるよう巻き、盃を作った。
「水杯を交わしてくれないか」
レヴィーナは彼がすくった湖水の盃を、そのしなやかな手でそっと、こぼさぬように受け取った。このとき指の先が少し触れただけで、彼女は頬を夕陽色に染めた。
夕焼けに照らされ彼女の影が盃を飲み干す。水滴で輝く彼女の唇を見やった彼は、自身の影に心の揺れを映した。
「そろそろ帰りましょう」
彼女はどこに帰るというのか、しかし彼はその言葉に逆うことなく、名残惜しんで踏み出した。
家路へ向かう彼。「きっとご無事で」そんな温かい声が聞こえた気がした。分かってはいたが、後ろを振り返るとまたもそこには、誰も存在しなかった。
────私も彼に倣い、立ち上がりたい。何らかの、私にできることを…。
レヴィーナが帰り来たのは同じく自室のベッド上。すぐにも現実感が押し寄せる。彼女は何の力も持たない一令嬢で、彼のようには立ち向かえない。
昨日あのような態度を王太子の前で取ってしまったことで、一族の躍進も風前の灯だ。
しかし以降、王太子は何を言いつけてくるでもなかった。実家ラクロワの力は王家ですら侮れるものでないらしい。レヴィーナは父に手間を取らせてしまったと己の不甲斐なさに沈んだ。変わらず次期王妃の地位に就いたまま、彼女は謹慎の日々を過ごす。
して雪降る夜、国の王は身罷り、後日新しくフィリベール王が即位した。
豪奢な王冠をかぶり尊大さを増した新王の受け継いだものは、荒んだ国の実情であった。飢饉に見舞われ疫病の流行り、しかし国は何の策も講じずに民へは重税ばかりがのしかかる。あちらこちらで悪政に抗する民衆の蜂起が起こり、つど王宮から軍隊が送り出され、それを見聞きするたびレヴィーナは無力感に憂き身をやつすのだった。
あくる日、フィリベール王とレヴィーナの婚礼の時がやってきた。
レヴィーナの心はとうに冷めきって、いかなる形で王の悪政に抗議を行えるかとそればかり思う昼夜を送った。
暗澹たる日々に彼女は思い至る。婚礼のさ中に命を賭して訴えようと。すべての人々に安寧なる日常を。表現と信教の自由を。その演説を阻害されたならすぐにも果てようと彼女は、白銀の短剣を婚礼衣装に仕込まんとしていた。
大聖堂脇の控えの間にて婚礼衣装をまとったレヴィーナは、侍女らの目を盗んでそこを抜け出した。今は裏手の森の入り口で、手に握る短剣を鬼気迫るまなざしで見つめている。これをバルーンドレスの裾に隠し、即座に取り出せるようにと。その時だ。
「……まさか、レヴィーナなのか?」
男性の低い声で名を呼ばれ、彼女ははっと横を振り返った。
「っ!? セドリック……」
森の茂みをかき分け出てきたそれはなんと、とても貴族とは思えぬみすぼらしい衣装に身を包んだ彼であった。
なぜだかその面立ちは以前より彼を大人びて見せ、威厳すら垣間見せるほど。
「どうして……」
ここに、と言葉尻も失せたほどにレヴィーナは動揺する。彼と対面したのは、あの古井戸を通った機会であったのに。しかし彼も同じく困惑の色を浮かべているのだった。
レヴィーナは慌てて短剣を自身の背に隠した。
「……君は一度たまたま出くわした者と、約束もなくたまたまどこかで出くわしたら、それは偶然だと思うか? それとも運命だろうか?」
この唐突な問いかけに、目を丸くするレヴィーナ。ただ少々上を仰いで返事を思索する。
「たまたま出くわした者と再び出くわすことは、よくある偶然だと思うわ……」
「そうだな」
セドリックはいったん目線を逸らし、言葉を続けた。
「では2度たまたま出くわした人とまた、たまたま出くわしたら、それはどうだ? 偶然か、運命か?」
「……3度目のたまたまはあまり起こらない、かもしれないわね……」
「そうだよ。私はそれを運命だと考える。だから次、君とたまたま出くわしたら……その時は求婚しようと思っていた」
つと吹いたそよ風が、木々の葉擦れの音をかすかに鳴らした。
「セドリック……」
彼の踏む草の音も鳴る。足早に詰め寄った彼は、レヴィーナの手を掴み声を張り上げた。
「なのになぜ君は他の男のために婚礼衣装をまとっているんだ!」
それは他者が見ればまるで、純白の清らかな乙女を驚かす粗暴な男、といった画であった。
しかしレヴィーナは彼相手に怯むことはない。彼の繊細な心を知っているから。なにより激しく求愛されているような感覚に陥り、顔を不意に赤らめるのだった。
────連れて逃げてとは言えない。
彼女はこれより大聖堂で、純白のドレスをあの日の彼の衣装のように赤く染め、果てるつもりでいるのだから。
「放して」
泰然として突き放す彼女に、セドリックはあたかも捨てられた犬の様子で、すぐ手に力をなくした。
「私もあなたに出会えて、進むべき道が決まったの」
「……?」
「私、みんなに言いたいことがある」
「うん?」
彼女は一度うつむいた。
「もう会うことはないでしょうけれど、もしまた、たまたま会えたらその時は……」
そして見上げると、泣きそうな顔で言葉を紡ぐのだった。
「あなたと愛し合いたいわ」
「レヴィーナ……」
今すぐ抱きしめ連れ去ろう、そのような衝動に駆られるセドリックを視線で制しながら、レヴィーナはじりじりと後ずさりを続ける。そしてばっと振り返り、元居たところへ走っていった。
「レヴィーナ!」
なぜ彼がそこにいたのかレヴィーナが知ることはなく、しばらくした後、大聖堂周辺に祝福の鐘が鳴りわたる。
祭壇より神像が、終生連れあうふたりを見守る。
厳かな空気こもるこのカテドラで、花嫁レヴィーナを真横に携え、フィリベール王は形ばかりの誓いの言葉を述べた。
続けて述べるはレヴィーナ、彼女はこの時を待っていた。
牧師は不審に思う。新婦の「誓います」の一言がなかなか聞こえてこない。
レヴィーナの緊張は尋常ではなかった。
────この演説にすべてを懸けるの。今ここには国の要人がすべて集っている。彼らはみな知っている。この国の現状を。知っていて目を覆っている……きっと私の一族も。
彼らの真心にこう問いかけましょう。あなたの生き様はそれでいいの? 自分さえよければいいの? きっと真実のあなたはそうでないことでしょう。我が国に生まれた人々の道に温かな光が照らされるよう、すべての人が立ち上がれる未来を。
「……っ」
彼女が声を張り上げんとする、その瞬間だった。
大聖堂の外で喧噪が上がったかと思えば、扉がギギイと押し出される。
重々しい音を立て扉が大きく開かれると、まぶしい太陽光が式を見守る者らの目をくらませた。
その強い光の中に立つ、大きな、一人の人間が。
────この光景は、あのとき見た……。
「レヴィーナ!」
扉口で勇ましい声がとどろく。
「……セドリック……」
赤い刺繡の施された黒地軍服に身を包み、腰には大剣を納めた威厳あるセドリックの姿が今、そこに。
「こっちへ来い! レヴィーナ!」
「なんだ! いったい何が起こったのだ!!」
青筋を立てフィリベール王が激高する。しかし周囲の者も狼狽するばかり。
「狼藉者だ! 取り押さえろ!! ……なぜ兵らは来ぬ!?」
大聖堂の周囲では軍隊が囲み、厳重に警護しているというのに。何事もなかったように静かなものだ。
緊張の高まるなか、扉口の御仁は数歩前進し、また声を張り上げた。
「我はウォルデア皇国、皇帝セドリック=イザードである! 首都フォルグレースは既に我が軍が包囲した。今日より貴国ホルンブルグ王国を、我がウォルデア皇国の領土とする!!」
「なんだと…!?」
「当然この大聖堂を取り囲む軍隊も壊滅した。ものの数刻でな」
鐘の音が鳴り響く間に外で小競り合いの起きていたことは、こちらにいる者には知る由もなかった。信じ難いことだが、事実でなければこの男がこの場に来られようはずもない。
「フィリベール王、そして側近の者らよ。そなたらはこれより我が国の法にのっとり詮議にかけられる」
敗戦国の王の命が助けられるわけもないことは、ここにいるすべての者が理解している。
「すぐにもこの場に我が軍が押し寄せる。覚悟して待たれよ」
王は首を大きく振りよたよたと後ずさる。
「誰か! その者を捕えろ! 早く!!」
しかし聖堂内の兵士はセドリックの両脇を抜けてきた兵らに取り押さえられた。その場にいる残りの者は文官ばかり。逃げ場はない。とうとう王は腰を抜かし、その場に崩れ落ちる。
「さぁレヴィーナ。こちらへ」
「……!」
大きな手を差し伸べられ、レヴィーナはたまらず駆け出した。そして彼の前に辿りついたら、はにかんだ笑顔を見せたのだ。
「まさか、あなたが隣国の皇帝になっていただなんて」
「詳しい話は後で。そういえば君は、言いたいことがあると言っていたな。言えたのか?」
「いいえ、まだ」
「そうか、なら」
彼はその逞しい腕で彼女をあちらへお向きとエスコートし、目くばせで激励する。レヴィーナは頷いた。
「フィリベール王」
あごを少し上げレヴィーナは、腰を地に付けたままの彼を見下した。威風堂々とした皇帝セドリックに比べ、なんと情けなく惨めな姿か、と憐憫の情すら抱く有り様だ。
静まり返る中、彼女はついに声を張り上げた。
「金輪際、私にそのお顔を見せるものではありませんわ!! この〇〇〇〇〇〇〇!!」
彼女の愛らしくも透き通る声が、カテドラの空気の間を響き渡った。
くるりと振り向いた笑顔のレヴィーナは、少し息を切らしながら彼に問いかける。
「恋人と別れた侍女の捨て台詞を思い出して真似てみたのだけど、どう?」
セドリックは目を丸くしている。
「あら、間違っていたかしら…?」
どこまでも無邪気なレヴィーナの表情をじっと見つめ彼は、とうとう噴き出し、
「いいや」
くっくっくっと少年さながらの顔で笑ったのだった。
「もっと言ってやれ」
そしてふたりは手を繋ぎ、式場を駆け出した。
冬の夕暮れに溶け込むように、そろりと夜が降りてくる。
ここ制圧した王城の屋上で、皇帝セドリックは鋸壁の間から広く領土を眺め、国を良き方へ導く決意を新たにしたところだ。
「我が国は潰え、ウォルデア皇国の土地として生まれ変わる……」
「レヴィーナ、許してくれ。君の生まれた国を……」
「いいえ。大事なのは国の名ではない」
彼は祖国にてクーデターの首謀者として、自ら皇帝を討ち取った。周囲の信頼を得、新皇帝に祭り上げられたのはそれからすぐのことだった。国内の課題は山積みであったが、西隣のホルンブルグ王国がウォルデア皇国を飲み込まんと画策していたことも、間者の調べで明るみとなり。国同士が対峙する将来は、彼が皇位に就いた7年前から、とうに視野に入れていたのだ。
「そうだったの…。そして密偵を送りこみ、交渉の末我が国の将軍と内密に結託し、この度の奇襲に成功した…。皇帝自ら戦場にやってくるだなんて……なんて危険なことを」
「戦争では多くの血が流れる。その現実から目を逸らさずに、命の重みをいつも感じていたかった。たとえ私が果てたとしても、この意志を継ぐ者がまた現れよう」
「あなたは着実に道を切り開いていったのね。私もあなたのように、この手で拓いてみたかった。やはり女の身では……」
叶わないことだった、と彼女は言いかけた。しかし。
「あの日、戦地に向かう前夜の私に、力を与えてくれたのは君だった。いや、それ以前からだ。初めて会ったあの日から、君の声がいつも胸を駆け巡り、私を奮い立たせたんだ」
言いながら彼は、彼女の白い頬にそっと手を寄せる。
「君の力は皇帝である私を動かす、この国で最も尊く強大なものだ。君のためなら何だってやり遂げてみせる。何でも言ってくれ。君の望む未来を切り開こう」
レヴィーナはその彼の手を自らの手で優しく包み、涙ぐんだ目で答えた。
「私と未来永劫、愛し合ってください」
何を口にせずとも彼は必ず光差す方へ、民を導いてくれると信じている。だから彼女自身の、まさにこの瞬間の望みを素直に打ち明けた。
「それはこちらから申し込むつもりだったのに!」
彼もこの上ない幸福感の中で、顔をゆるゆるにほころばせた。
賢い皇帝と慈愛あふれる妃が手を取り合い治めるその国は、そこに暮らす人々に絶え間ない静穏をもたらし、永きにわたり栄えていった、と今日も世界のどこかで語り継がれている。
~FIN~
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