恋するトラットリア②
~谷奈々緒の場合~
四年前の春。
彼女は三年目のキャリアに突入し、シェフからそろそろピザ窯の火の管理を覚えてもらうことになると打診されていた。年明けから任されたパスタ場の仕事をなんとか一人でこなせるようになり、更なるステップアップを期待されているのだ。
小柄で小動物のようなイメージのある彼女だが、見た目とは裏腹に中身は料理に対する熱いハートを持っていた。クチーナでの仕事は男女平等で、重たい荷物を運んだり、一日十時間以上の立ち仕事だったり、熱湯や熱油、熱々の調理器具が剥き出しの肌に触れることなどは日常茶飯事で、傷跡が残るほどの火傷なら勲章だと言われるような過酷な労働環境だ。そんな中でも彼女は叱咤激励を受けながら必死に食らいつき、先輩から技術を盗み、誰もが嫌がる仕事を率先して行い周りからの信頼を徐々に獲て、自分のポジションを確立した。今では笑い話だが過去には少し風邪気味だと言って何事もなく働いていた時があったが、その直後にクチーナで倒れ病院へ救急搬送された。診断結果は中等の肺炎で、放って置けば危険だったかもと医者からもシェフからもこっ酷く叱られたこともあった。仕事は辛いし、同世代の友人のようにお洒落だって出来ないし、なかなか遊びにも行けないが辞めたいと思ったことは一度だってなかった。
「おーい、集まってくれ」
シェフがサーラに全員を集めた。
「今日から入ってもらうことになった島村や。現場は初めてらしいから一から仕込んでやってくれ」
「島村明です、宜しくお願いします!」
「指導係はそうやな…奈々緒、お前や」
正直なところ今は自分のことで手一杯なのだがシェフに指名されたなら仕方がない。(…足引っ張んなよ)と心の中で毒づいてから笑顔で
「谷です、宜しくね」
「宜しくお願いします」
思い返してみると最初はお互い気味悪いほど猫を被っていたものだ。が、その粗は直ぐに目立ち始めてた。みじん切りは粗くなり粗みじん切りは更に粗くなった。五ミリのデ(角)切りをお願いすると一ミリから一センチまでの斑で切って寄越した。
「島村くん、何やこれは!?」
「…え?言われた通りのデ切りですけど」
「あんなー…はぁー、もうええわ。お客様にお出しする食材を触るのはまだまだ早かったみたいやね。あっちでシルバーでも研いといて」
言われるがままに隅に引っ込み布巾でフォークを研き始めた彼の行動に呆気に取られた。あんな言われ方をして悔しくないのか?いや、確かに上役から指示を受けたのだから従っているのだが、…自分ならこの場合もう一度やらせてくれと絶対に食い下がるところだろ、と同じ人間でも考え方がまるで違うのだなと、彼に哀れみとも取れる表情を向けた。
明くる日も、また明くる日も、奈々緒は彼に一度だけ包丁を握らせたが結果を見る度にシルバー研きを命じた。
そんな事が二週間も続いた頃、珍しく晩のラストオーダーまで残っていたシェフに部屋まで呼ばれた。
「ちょっと付き合えよ」
見るからに高そうなグラスにこちらも見るからに高そうな琥珀色の液体が注がれる。
「どないや?指導係は」
「…正直やり甲斐は感じません。自分に向いているとは思えないし、彼もそのうち辞めてしまうのではと」
グラスに注がれた液体を喉に流し込むと体の奥がカッと熱くなるのを感じた。それから暫くは今の主流イタリアンや最先端の調理技術の話題に変わり、三十以上年の離れた大先輩相手に持論を展開していた。もちろん琥珀色の液体が助力しているのは説明するまでもないのだが。
「でっ、ですよっ!シェフっ!そういった議論もあちこちであり現在のガストロノミーを踏まえて今後のウチの店の方向性を考えるんなら確実に遠心分離機と凍結粉砕機を導入しましょう!」
「ガストロノミーって…わかったわかった、お前ちょっと飲み過ぎやで。…そろそろええかな」
時計の針は既に日付を跨いでいた。シェフに連れられオーナー室を出てクチーナの方へ連れられる。
「おいこら、自分の足で立ってくれよ。言うておくけど俺は今でも死んだ女房一筋なんやからな」
泥酔に近い状態の彼女はシェフの恥ずかしいカミングアウトも聞こえていないようだ。
ウエスタンドアの前まで来るとシェフに口元を抑えられる。クチーナにはまだ明かりが灯っていた。
「う、うーん?あれぇ、まら誰か居るですぅ?」
「しっ、静かに。…見てみい」
その光景を目の当たりにして先程までの高揚感が徐々に収まっていく。音を聞くだけでも不規則でリズム感もなく、出来栄えの悪さが手に取るように分かる。しかし、それを行っているのがあの島村明だった。刻んでいるタマネギのせいなのか、日中の不甲斐なさを感じてなのかここからでは判断出来ないが、時折目元を拭っている
「ここ暫くずっとあんな調子なんやで。全く、あんなに大量のアッシェをどうするんやろな」
彼女はまだ目の前の光景に理解が追いつかなかった。あの島村が?何故?自主練?こんな時間に?
「…奈々緒、お前一流の料理人になりたいか?」
「当然です」
一切の迷いも間もなく力強く即答した。
「…そうか。ならよう覚えとき。一流の料理人ってのは一人じゃ絶対になられへん。周りに心強い仲間が必要やし、その仲間を纏め引っ張っていく力も必要や。世の中には色んな奴がいてる。出来の悪いやつ、鈍臭い奴、言うことを聞かない奴。そんな奴らを突っぱねて遠ざけるんは簡単や。せやけどな、もしその突っぱねた奴の中に光る原石が居たらどうする?そんな奴らのホンマの能力を引き出してやれる力があったらどないや?」
先程まで呂律が回らなくなる寸前だった彼女だが、思考ははっきりしてきた。それでも問いかけてくる師の言葉に応答は出来なかった。
「…教え方は一人一人違うし、これはホンマに永遠の課題っちゅうくらい難儀なことや。けど指導係に向いてないと投げ出してしまえば二流で終わるぞ?辛いし、面倒だし、めちゃめちゃパワーもいるが、一流を目指すんなら臆せず立ち向かえ、これは自分の為なのだと立ち向かえ。お前にその資質は充分ある。あいつん中の何かを動かし今、ああしてるんが何よりの証拠やろ」
一言一言が耳から全身に染み渡り、完全に酔いを覚ました彼女は黙って島村明を見つめた。
普通ならこのまま黙って見守り、数日後に包丁捌きが上達した彼を労い一件落着なのだろう。だが、そこら辺は普段よく気が利くはずの彼女なのに、熱いと言うか、後先考えないというか、破天荒だ。
「お、おいっ…」
制する前に行動を起こされ、シェフは頭を抱えながらも鼻で笑った。
「こらー!何時だと思ってんねん!」
「うわっ、谷さん」
「ったく、そんなにタマネギをアッシェしてどないすんの!?ええか?一回しかやらないからよーく見とき」
綺麗な包丁捌きでタマネギがあっという間に完璧な微塵切りになった。
「余計なことは考えない。力を抜いて手首のスナップで包丁を下ろす。包丁の側面を左の人差し指に当てて左手でコントロールすんの、左手が包丁を連れて行くイメージな」
「…左手で包丁を連れて行く」
奈々緒の包丁捌きを見様見真似でやっていると直ぐに指を切った。
「指が落ちない程度ならどんどん切りいな、絆創膏は幾らでもあるわ」
「酷い、すげー鬼軍曹」
その後も、一回しかやらないと言っていた彼女だが何度も何度もやってみせた。彼もその心粋を汲んでか、必死に応えようとしてくるのが分かる。
「ったく、よくそんな昔のこと覚えてるよなー」
二杯目の生ビールに口をつけながら明は顔をしかめた。
「あの後、暫く全員の賄いが白米からタマネギソテーにk変わって散々睨まれたわよねー」
こちらはハイボールを飲みながら上機嫌な奈々緒であった。
「だから秋司くん、あなたはこんなみたいになったら駄目よ。今のところ仕事は凄く丁寧だし気は効くし、今のままでお願いね」
「はは、はい」
彼の歓迎会を兼ね若手で仕事終わりに彼らが行きつけの一晩中やっている居酒屋に飲みに来ていた。秋司の隣では生ビールを半分だけ飲んだ多田春奈が何の夢を見ているのか、気持ち良さそうに眠っていた。
~冴島秋司の場合~
閉店後、ゴミ袋を纏め裏にあるダストボックスに付けられたダイアル式の南京錠を外し放り込んだ。暗証番号は4桁で"1128"、山根達郎の亡くなった母親の誕生日だそうだ。開けた時の不快な臭いに身を引き、明日の一番で清掃しなくてはと思った。
この店で働き初めてひと月が経ちクチーナの仕事はまだまだこれからといった感じだが、一日の流れや雰囲気、それにメニュー毎のワインのペアリングは完璧に覚えた。イレギュラーで発生する本日のスペシャリテワインには苦戦しっぱなしだが。
ここまで順調に来てるのもひとえに指導係を務めてくれている多田春奈の存在が本当に大きいと感じていた
。彼女の教え方はとても的確で隙がない。かといって厳しいわけでも甘いわけでもなく、掴みどころはないのだが。そんな中で彼が感じた指導係としての彼女の長所は相手と同じ目線で話をしてくれること。サーラでトレイを持っての移動は空の状態でも必ず水平にしておくこと。邪魔になるからと垂直にし脇で抱えてしまうとグラスの結露などで知らないうちに水が溜まっていることもあり床を濡らすことになる。彼女は去年それが原因で客を転倒させてしまったことがあった。幸い大事には至らなかったらしいが。このように時には自分が実際に体験した経験談や失敗談を挟みながら説明をくれる。
「四番プリモ上がったよー!」
「グラッツェ!」
「八番さん、プリモのワインをおかわりされたのでセコンド少し遅らせてください!」
「了解!とりあえず十分遅らすからまた声掛けて!」
ディナーがピーク時間だ。この日は平日だが客席の八割は埋まっていて、客席も厨房もそれなりに活気があった。トラットリアは上品で慎ましく食事をするような場所ではなく、ワイワイガヤガヤ楽しく過ごす場所だ。秋司はこの店のそんな雰囲気にも惹かれていた。一緒にサーラを動き回る奈々緒と陽菜子は、彼が気がつきもしないような些細なことに反応し客が求めるものに次々応じていく。
「三番、グラスが空。おかわりかお水を」
客席を見渡しながら足でまといにならないよう何かを見つけようと目を凝らしていた彼の後ろを、次の目的目掛けて通り過ぎようとする奈々緒に小声で告げられる。慌てて三番テーブルに目を向けると、中年の男性客がセコンドのアクアパッツァを堪能し、これから残り少ない白ワインのグラスに手を伸ばそうとしているところだった。
(…エスパーかよ)
生唾を飲み込み再び彼女見ると、親子連れのテーブルで両親が話に夢中になり、退屈そうにしていた小学校低学年くらいの少女の脇に片膝をつきテーブルに紙ナプキンで折られた猫とペンギンを並べてみせた。目を輝かせた少女は、テーブルに備え付けの紙ナプキンを手に嬉しそうに折り紙を始めた。
「よーく見とくといいわ。あの子の接客での気配りは天才的なところがあるのよ」
男性客から承った追加の白ワインを用意していた彼に陽菜子が近づいてきて話しかけた。
「はい、大袈裟かもですけど…鳥肌が立ちました」
「…鳥肌?あぁ、サブイボのことね」
最初に入った店では調理場の人間が客席へ配膳することは一切なかった。調理をしても客の顔は殆ど見えたことはなかったし、下膳の皿に料理が残っていても何かを感じることはなく同僚と笑っていた。もちろん、そういった厨房と客席がセパレートされている店を全て悪く言うつもりは無い。裏を返せばそういうスタイルの店で素晴らしい評価を得ているとすれば、それは料理人と給仕人が完璧な信頼関係で結ばれていることの証明なのだから。ただ、前の職場では残念ながらそういったことはなかった。自分も含めて何もかも駄目駄目だった。
キャロディルナに来てからは料理に対する姿勢や、もっと言えば人間性まで180度変わった。いや矯正されたのだ。サーラをしていると本当に客の顔がよく見える。その日の気分や体調も声や仕草で把握出来る部分もある。そしてそれを踏まえもし自分が今クチーナに居ればこの客にはこういう調理、こっちはこうといった感じに自然と考えさせられるようになっていた。逆も然りでクチーナで調理しながら客席の雰囲気が気になってしょうがない時もある。下膳の皿に残食を見つけてしまった時には誰が作ったとか関係なく悔しかった。
焦げ付いた鍋を力を込めて磨きながら、ここに居る人たちに本当の意味で早く認めて貰いたいと彼は強く思った。
~冴島秋司の場合~
アイスコーヒーのストローで水を2、3滴すくい縮れたストローの空き袋に垂らし、ニューっと動くミミズのように遊んでいる。
「ったくー、なんで貴重な休日に男2人で茶をシバいてんだ?」
三ノ宮駅の目の前にある百貨店の地下二階。その先輩のお気に入りの純喫茶は、落ち着いた雰囲気で客層も年配者が目立つ。口髭を生やしたマスターは、物静かながら居なくては成立しない存在感を示し、厳選されたブレンドコーヒーの香りも、豆を挽く音も、レコードで流されるタイトルを知らない音楽も、全てが計算されてこの憩いの場を完成形へ導いているように感じられる。
「なんでって、明さんが呼び出したんじゃないですか」
店自慢のブレンドコーヒーを啜りながら、今年入ってきた弟分も「自分だって男二人なんて嫌ですよ」と言わんばかりに口を尖らせて返事をする。
今日は火曜日でキャロディルナの定休日だ。従業員は皆休みで予定が合えばこうして集まることもさほど珍しくはない。
「明さん、本当は俺じゃなくて誘わなきゃいけない人居るんじゃないですか?」
「は、はぁ!?はぁ!?だだだ誰だよ!?」
しまった、と冴島秋司は思った。つい本音が出てしまい彼女に頼まれた事を思い出した。それにここでその意中の女性の名前を出してしまうと、この先輩は益々ヒートアップしそうで他の客に迷惑がかかりそうだと思い、同業者として自重し話題を変えた。
「そ、そういえば気になってたんですけど、明さんは関西弁じゃないですよね?元々こっちじゃないんですか?」
「あ、あぁ、中学まで横浜で育ったよ。父親の転勤で高校からこっちだから、神戸に来て…もう九年か。高校出て調理学校は大阪だったんだけどな、言葉は全然染まらんな」
取引業者との検品時に「まいど」や、「おおきに」などを使っているのを耳にするが、和ませるためであって決して自然と出る関西弁でないことは秋司でもわかる。
「それにしても奈々緒さんと仲良いですよね?なんか夫婦漫才見てるみたいだし。二人を見てるのが一番関西に来たなって実感出来ますよ」
「どないやねん」
得意の無理した関西弁でビシッとツッコミを入れてくる。
「…付き合っちゃえばいいのに」
何気ない会話の流れの中に、急に確信に触れた話題を自ら放り込んで内心緊張した。
「はぁ?誰が?」
「あ、明さん」
「俺が?…誰と?」
「奈々緒さん」
「はぁ?ないない、あいつはそんなんじゃねーよ」
全く興味がない、といった表情でつまらん話をするなとアイスコーヒーを啜る。
「お前はどうなんだよ?彼女居ねーの?」
「居るなら明さんと喫茶店なんかに居ないでしょ」
「じゃあ奈々緒、いいじゃん?」
「…じゃあって」
本当に奈々緒さんを異性として見てないのだろうなと感じた。彼女にどう報告するか迷ったが、ありのままを伝えるしかないだろうと思った。
ターゲットに呼び出された時には何か収穫があるのではと期待したが、収穫はその位かとガッカリする彼の目の前で、能天気にアイスコーヒーの残りを音をたてて吸い込んでいた。
「と、ところで秋司さ。陽菜子さん…最近どう?」
「はぁ?なんで自分に聞くんですか?知りませんよ」
やはり陽菜子さんの話で呼び出されたのかと察した。
「いや、お前最近よく2人で喋ってんじゃん?」
確かに最近は親しく話せるようにもなったが、あの人の場合は全員に同じだ。
「明さんだって話してるでしょ、同じですよ」
「な、なんか俺のこと言ってなかった?」
(全く、この人は…)
と外国のホームドラマのようにわざとらしく頭を抱え、両手を振りお手上げのポーズを目の前で出来ればどれだけ楽だろうと思えた。
(明さんは恋をしてるんだな…)
ふと先日、オーナーの見舞いに同行させて貰った時に言われたことを思い出した。
「料理が上手くなりたきゃ恋をしろ」