恋するトラットリア①
トラットリア。
イタリア料理を出す店の呼称で、本国イタリアでは主に大衆食堂や家庭的なレストランといった意味合いで広く認識されている。
決して優劣があるわけではないが、順に説明するなら高級レストランをリストランテ、大衆レストランはトラットリア、居酒屋感覚のオステリア、軽食喫茶の店ならバールと呼ぶ。他にも専門店としてピザ屋ならピッツェリア、パスタ屋ならスパゲッツェリアなどがあり、これは認定を受けて掲げるものではなく、あくまで店の亭主が開業するにあたり出資者や客にコンセプトを明確にするために表記することが多い。
この物語はそんなトラットリア発祥の国より約九千七百キロ離れたアジアの極東にある小さな店で起こった小さな奇跡と恋の話。
~冴島秋司の場合~
東京の調理師学校を卒業して一年は講師に進められるがままに近場のイタリアンレストランに就職した。彼の出身校は飲食業界ではそこそこ名の知れた学校で、卒業してその道に進むなら就職先に困ることはそうはないと言われるほどの評価はされており、彼もまた最初こそ鳴り物入りでそのレストランに入ったのだ。イタリアンを選んだのは在学中に和食、フレンチ、中華、トルコ、アフリカ系など多種多様な料理や文化を学んだ中で自分に一番しっくりくる、と言うか単純にお洒落で格好が良かったからだ。しかし現実は甘くなかった。授業で習う専門用語や技術というのは結局はマニュアルでありお堅い型式なのだ。例えば皿の中央に盛られてるメイン料理の脇に添えられる所謂付け合せと呼ばれる料理。ビーフステーキならポテトや人参を連想するだろうあれだ。この付け合せを授業ではガルニチュールと習う。いや、そうとしか習わない。しかし日本中のレストランの厨房を覗いてもガルニチュールをガルニチュールと呼ぶ料理人は一人もいないだろう。何故なら長いからである。現場ではそんな呼称を使っている暇などない。大抵は「ガルニ」や「ガロニ」などその現場で誰かが呼び初め受け継がれるある種の伝統のような専門用語が存在する。今語ったのはほんの一例であり、そんな事が用語でも実際の調理作業でも無数に存在する。明らかに戦力になっておらず、足を引っ張っているだけの自分、実のない毎日の繰り返し…結局そのレストランで一年続かず、その年が明ける頃には近所のコンビニでアルバイトをしていたのだ。
料理が嫌いになったわけではない。ただ元々そこまで熱意があったかと聞かれればそうとも言えない。
高校在学中、決して勉強が出来たわけではなく、中途半端な大学に行くくらいなら手に職をと調理師を目指した。学校の講義で最初に習ったオムレツ、家で何度も何度も練習して実家に戻り両親と妹に初めて食べてもらい笑顔で「美味しい」と言ってもらえたあの感覚は忘れられない。
午前三時を回り客のいない時間帯に商品棚の整理を行っているとふと雑誌コーナーで足が止まった。
"美味しいグルメ-B級イタリア料理特集-"というタイトルが目に飛び込み、ふと雑誌を手に取りパラパラ捲った。北海道の地産地消カルパッチョ、新潟の米粉で練ったラビオリ、東京の下町で食べれる絶品ティラミス、アフォガート。全国の幾つもの店と料理が紹介され、どれもイタリアの定番料理ながらその創意工夫が写真からでも苦労し惜しまず料理人が努力した結果だと伝わってくる。
(…いいな、俺もこういう仕事がしたい)
北から順番に紹介されていた特集は関西圏へ入る。ぼんやりと憧れを滲ませ眺めていた彼の心が急に昂った。他の店の料理だって素晴らしかったが、その店の数枚の料理の写真だけは彼には別次元に思えた。色鮮やかな野菜のインサラータ。肉の火入れ加減が絶妙でイタリアの国旗を表すような盛り付けのタリアータ。専門外の目から見てもわかる完璧なテンパリングで美しい光沢を纏ったトルタ・アラ・チョコラート。
これ以上どこが凄いのか言葉では言い表せないが感覚で響くのだ、間違いなく自分はこういうセンスが好きだと。
店の門構えを映した写真には亭主であろう人物を中心に、その左右にコックコートとギャルソンの格好をした若い男女が五人肩を並べて、その横に店へのアクセスが載っていた。
店の名はTrattori chiaro di luna(トラットリア キャロ ディ ルナ)
(…キャロディルナ、ルナは月…月光、月明かり、か)
~山根達郎の場合~
小雨が降る中タクシーで病院へ向かう。店から車でなら15分ほどのところにある総合病院だ。スマートフォンを取り出し明日の仕入れ状況を確認している時だった。
「あっ、達郎さん?谷です、もう病院ですか?」
「いや、もう直ぐやけど。どないした?」
「18時予約の関本様がセコンド(メイン料理)を魚に変えてほしいとのことで、今チャンバーにあるのは鯛、鰆、メバルなんですけど…」
「待った、確か関本さんのところプリモ(メインの前の料理)もワカサギのフリットやなかったか?」
「そうなんですよー、なんでどないしようかって皆で話してて」
「魚魚か…わかった、こっちで少し考えるから他の予約のテーブルの仕込みは任せるで」
電話をきり頭を抱える。副料理長の頃もメニューや献立組みに散々悩んできたが、最終責任を取るのはあくまでシェフだ。そのシェフであり実父である喜一郎が急性のヘルニアで倒れ入院したのが一週間前のことだ。
病院へ担ぎ込まれた父親に最初に言われたのが「店は閉めるな、お前がシェフや」だった。
「調子はどない?」
「あぁ、大丈夫や。そないにしょっちゅう来んでもええって、お前こそ大丈夫なんか?」
「なんとかやわ。正直、店番するんがこんなに大変やとは思わんかったけど」
わっはっは、と得意げに笑う父の姿を見て達郎も誇らしく思った。十年前、彼まだ高校三年生の時に母親を亡くしそれから父と二人三脚でやってきた。他所の家庭事情は知らないが、親子としては上手くやれている方だと思う。親子としては、で仕事となると話は別だ。身内贔屓を完全に取り除き客観的に見ても料理人、山根喜一郎は凄かった。若い頃は本番イタリアで修行をし、帰国後も東京や大阪の名だたるホテルのイタリアンで部門シェフを任されたこともあったそうだ。もちろん彼だって一流料理人の前に人間なのだから欠点だって幾らでもある。しかし彼の手から生まれる料理の数々はそれらを差し引いても有り余る魅力を客にも従業員にも示すのだ。言葉ではなく背中で周りを引っ張っていくカリスマ性も備えているように感じていた。
キャロディルナを開いたのは母を亡くす二年前だった。達郎は高校を卒業すると直ぐに父の店で働いた。最初は料理の"り"の字も知らない素人だったが、努力家で几帳面な性格も功を奏したか喜一郎の右腕となれるまでにそう時間はかからなかった。喜一郎と共に店を開いた当時のスタッフは引退や独立で、今では一人も残っておらず達郎が一番の古株だったが、今は今で素晴らしいスタッフに恵まれたと感じられた。
「そういえば明後日やったね、新人が来るんわ」
「あぁ、彼か。こんな状態になってしまって申し訳ないな。せやけどなかなか面白そうな奴やったで」
一度目を通した履歴書を再び見せらせた。
(さえじましゅうじ、二十二歳。調理師専門学校を卒業後、東京のレストランを九ヶ月で退社…)
「電話越しに働かせてくれなんて言われたんは何十年振りかな、このご時世に。雑誌の写真を見て心が震えたとか言うてたわ」
「東京にやって幾らでも名店はあると思うけどね」
「とにかく俺が戻るまではしっかり仕込んでやってくれ、シェフ代行」
肩をパンと叩かれ満足そうに笑ってくる父親にまた来ると伝え病室を出た。父親にアドバイスを貰おうかとも考えていたが結局、言い出すタイミングが見当たらなかった。
(さて…関本さんとこのテーブル 、セコンドはどないしようかな…)
~落合陽菜子の場合~
キャロディルナは、JR元町駅を降り中央競馬の場外馬券売場の裏にある元町商店街の一角にある地域密着型の大衆イタリアンだ。客席は時に多少の増減はあるが、基本は40席程でメニューはコース料理とアラカルトを用意している。営業時間はランチが11時から15時で休憩を挟み18時から23時がディナータイム。ラストオーダーはそれぞれ三十分前だ。定休日は毎週火曜日。従業員は現在入院中のオーナーシェフを除き五名でその全員がクチーナ(厨房、調理業務)とサーラ(客席、接客業務)を交代制で行っている。
午後四時、遅い昼食を済ませサーラの床を掃き掃除している時だった。
「陽菜子さん!」
クチーナから飛び出してきた島村明が、トレイに載せたエスプレッソとティラミスを彼女のに置いた。
「きょ、今日自分がドルチェ担当で、よかったらデグ(味見)してもらえないっすか!?」
「えー、またー?最近この辺が気になってんのにー」
陽菜子は自分の脇腹辺りをさすってみたが、サロンを巻き美しい曲線を描くウエストラインにしか見えないのは明だけではないだろう。
「こらー、明!サボるなー!」
「げっ、奈々緒」
クチーナへ続くウエスタンドアが再び開き現れた声の主は谷奈々緒だった。高校卒業後、二年制の調理師学校を出てここに入った四年目の明とは同い年だが、奈々緒は高校で調理師免許を取得しており卒業後ここへ入ったので社会人としては二年先輩なのだ。
「ティラミスはさっき私がデグしたやろー?なんでまた陽菜姉に食べてもらってんのよ!」
「いいだろ!お前のバカ舌なんてあてになんねーし。陽菜子さんは元々パスティッチェーレ(デザート担当)だし」
「はいはい、もうわかったから…」
パンパンと手を叩き彼の持ってきたティラミスを一口食べ「ウマいウマい」と頭を撫でると、仕込みに戻るよう二人ともクチーナへ戻した。
(にしてもあの二人、お似合いだと思うんやけどなぁ…)
サーラの椅子に座りエスプレッソをゆっくり啜る。島村明が自分に気があることは薄々気づいている。しかし自分自身、彼に気がないことも気づいている。なので愛の告白などをされる前に、どうにかあの二人をくっ付けるいい案はないか思案していると、不意に扉に取り付けてある鐘が鳴り入口が開き若い男が入ってきた。
「ごめんなさい、まだ準備中なんです…」
「あ、えっと、違います。お客じゃないんです。明日からお世話になります。冴島秋司と言います。本日は挨拶だけさせてもらおうと伺いました」
「…えーっと…ん?」
「…あれ?ん?」
お互い首を傾げたまま暫く睨めっこが続いた。
~多田春奈の場合~
キャロディルナのサーラ用制服は、男女共にギャルソンスタイルで男性は白いワイシャツ、女性は白いブラウスに蝶ネクタイを締めベストを羽織るのだがこのブラウスがよろしくない。半袖しかないのだ。だいぶ暖かくなってきたとはいえ三月の終わりはまだ冷える日も多いし、もっと季節を巻き戻せば地獄に感じる。
毎日ある事ではないが、この日はランチの客入りが良くディナー営業に向け食材の補充が必要となり買い出しに行くことになった。買い出しはクチーナ担当にはディナー営業の仕込みがあるので、その日のサーラ担当が行くのがこの店の決まりだった。
店の財布と買い出し用のリュックサックを背負い薄手のカーディガンを羽織った多田春奈は商店街にある贔屓の店を渡り歩いた。
「よう春ちゃん、今日はなんや?」
「こんにちはー。ごめーん、今日はお肉と野菜なのー」
手を振りながら露骨にガッカリする魚屋の大将の前を通り過ぎる。
(クレソンにケール、トレヴィスはあるやろうけど、問題はプンタレッラかぁ… )
プンタレッラとはイタリア原産の青野菜でチコリの仲間に分類される。旬は冬から早春で、最近ようやく日本でも注目され始めている。爽やかな苦味が特徴的で生のままサラダで食すのが最も一般的だろう。キャロディルナのアラカルトメニューのインサラータ(サラダ)にも最近取り入れられたのだが、シェフに提案したのは春奈だった。アラカルトメニュー、つまり店の顔とも言える定番メニューは基本固定なので新しく採用されることはなかなかあることではなく二年目の彼女の案が通ったのはまさに大金星だった。
「あ、達郎さんですか?すみません、やっぱプンタレッラはありませんでした。クレソンとケールを多めに買うので代用させてもらっていいですか?…はい…はい。すぐ戻ります」
取引をさせてもらっている市場直営の八百屋ならまだしも、飛び込みで入る街の八百屋の陳列台にプンタレッラが列ぶのはまだまだ先のことのように思う。
速足で店に戻ると客席に見知らぬ男性が座っていた。サーラには他に誰も居ない。目が合ったので会釈してクチーナへ向かった。
「戻りましたー、あの人誰ですか?」
「おかえりー、明日から来てもらう新人さんやって。春ちゃんと同い年じゃないかな」
「へー。あっ、島本さん野菜類お願いします」
「おー、おおきに。グラッツェ」
「にしても達郎さんが何も教えてくれへんから最初不審者かと思っちゃったわよ」
陽菜子がプンプンするのを達郎は仕込み片手間でなだめていた。
「せやから悪かったって、ちょっと色々あって忘れてたんよ。あと五分で仕上がるからちょっと頼むわ」
秘伝のサルサディポモドーロ(トマトソース)を作ることが出来るのはオーナーシェフと達郎だけでこの仕込みの時だけはどうしても離れるわけにはいかない。
「よし、オーケー。悪い明、これ移しといてくれないか?」
「あ、私やっときます!」
キッチンポットを手に準備していた春奈が寸胴を受け取りこぼさないよう慎重に移し、最後はゴムベラを使い寸分の無駄もないよう流し込む。空の鍋を洗い場に運び気づかれないように縁に付いた僅かなソースの残りを指で舐める。これをするために出しゃばってでもソースを移したかったのだ。今ではあまり無い話だと思うが、昔は後輩に片付けを任せる時など、水の張られたシンクに鍋を突っ込みワザと味見を出来なくさせるような事もざらにあったのだと、オーナーシェフから聞いたことがある。ただ、先輩にしても覚えた技術というのは必死で掴んだものであり、これから長く食べていくことになるであろうそんな技術を、易々と他人に教えてたまるか、覚えたいなら死にもの狂いで盗んでみろ、と、敗戦国である日本が僅か数十年の内に当時、世界第二位の経済大国まで押し上がれた背景に末端で働くそんな国民達の切磋琢磨が高度経済成長という一時代を築いたのだと、少し誇らしげにも話していた事を思い出した。
そんな事を考えながら寸胴を洗っていると、いつもより鍋が輝いていた。逆に指先は黒くくすんでしまい、汚れを落としてから陽菜子とディナーの準備に取りかかろうとサーラへ出たところで達郎に呼ばれた。
「こちら、明日から入ってもらう冴島秋司くん。冴島くん、こちらはスーシェフ代理の落合陽菜子くん。それから君と同い年で二年目の多田春奈くんや。」
「改めまして、冴島秋司です。雑誌で観たこの店の料理に惹かれました。分からないことだらけですが宜しくお願いします!」
「秋司くんね、私のことは陽菜子って呼んで。雑誌って去年の暮れに取材に来てやつかしら?私のインサラータを観てくれたんやね」
「多分そうですね、あのお皿はホンマに綺麗でした。…あっ、多田春奈です。私もまだまだ修行中の身です、お互い頑張りましょう」
クチーナに居た明と奈々緒も呼ばれ一通り顔合わせは終わり、達郎から明日は九時に出勤してくれと伝えられ彼は去っていった。
「それにしても…」
と陽菜子が前置きをして、意味深な間を取り顎に右手を添え神妙な面持ちに変わった。その場に居る全員が身構えた。
「…シュウジとアキラってアイドル、前に居らんかったっけ?ぷっ」
「…」
面倒見がよく仕事にも真摯に向き合い頼れる姉御肌で、黙っていれば誰もが息を飲む絶世の美女なのに口元がたまに残念になる。ただ、それがまた良かったりするのかもと春奈は尊敬する大好きな先輩を想った。