胡桃とシシャモ
とある喫茶店。20代前半と30代前半の女性が向かい合って珈琲を飲んでいる。
火曜日の昼、ブレンドを口に含ませながら、麻子は目の前に座る、自分より若い女をじっと見つめる。
襟元に白いレースが施された黒のワンピース。切れ長な目と、長い睫毛、透き通った肌という、典型的なミステリアスな雰囲気は、やはり同性からみても不思議な魅力を感じる。
◇
麻子は都内の出版社に勤めている。週に二、三日の頻度で、昼休憩は喫茶店巡りを趣味にしている。
今日も馴染みの喫茶店に向かった。店の入口に入ろうとしたとき、後ろから呼び止められた。
「あの、失礼ですけど出版社に勤めていらっしゃる方ですか?」
一瞬、ぎょっとしたが、平静を装って麻子は彼女に微笑む。相手が年下なので、少し警戒心を緩めた自分がいた。
「はい。勤務してますが、どうかしましたか?」
「もしお一人なら、ご一緒したいのですが。」
最近何も楽しいことがなく、たまには変なことに巻き込まれたかった気持ちがあった。
そして気づいたら、彼女と向かい合っていた。
◇
話をきくと彼女は現在会社員で、かつて出版社への就職活動に失敗して別業界に勤めていると言う。
彼女曰く、「就職活動に失敗したことで、自分は自覚していたほど特別な人間ではなかったということを思い知らされた」そうだ。最初は怪しんでいた私も、彼女との会話に惹き込まれていった。
自分たちの間の壁が、しだいに薄くなっていく。
「私、小学校の卒業文集に「小説家になりたい」って描いたんです。イチローが卒業文集の夢を叶えたみたいに、書いた以上、そうしなければならない定めみたいなものをずっと感じます。」
「小説家を目指せばいいじゃない。別の会社に就職してるのかもしれないけど、小説は趣味として書くことができるし。書き続ける気骨さえあれば、誰にだって小説家になる権利はあるの。資格なんていらないんだから。」
「小学生のときは、空を飛んだり好きなことができる!という理由で小説家になりたかったんです。
でも、今は別の魅力も感じます。たとえば、胡桃とシシャモって、普通自然界で生きていたら、絶対に出会うことなんてないですよね。でも人間が木から胡桃を収穫して、海からシシャモをとって、調理して、ごまめとしてこの世にだしますよね。」
「ええ。たまにスーパーでみかけるけど。」
「本来出会うはずのないもの同士をひきつけて、世の中に出すっていう、そこに私は魅力を感じるんです。だってシシャモも胡桃の実も、本来絶対に出会うことがないもの同士なのに。」
たとえがごまめの話で合っているのか、正直わからない。
けど彼女とって小説を書くということは、本来出会うことのないもの同士を出会わせること。
その旨味、感動を与えることに魅力を感じるということは伝わってきた。
◇
それから、私達はブレンドをもう一杯注文してひたすら話を続けた。とにかくいろんなところに話は飛躍した。私は時計を見ることも忘れていた。
好きなアイドルの話や明晰夢の見方とか、印象派の話、関西の芸人と関東の芸人の違いとか、各国の映画祭の話だとか、彼女はとにかくいろんなところにアンテナを張っていて、話していて飽きることがない。
初対面同士の会話には思えない情報量を私に吹き込んでくる。だけど、私はふとこの子に試されている気持ちになる。共鳴を求められているのと同時に、彼女からの挑戦なのかもしれない。
彼女は話続けた。
「この前、ラジオに失恋話を投稿しました。ステッカーは2枚もらえたから、自分用と、失恋した相手に、渡す理由は言わないでいらないシールだよ、って一枚あげてみました。」
「彼がリスナーだったら怖いわね。」
「不思議な顔で、ありがとうと言って、手帳の六月のページに貼ってくれました。今は十月なのに、六月に貼られちゃったけど。」
◇
彼女がお手洗いに行ったときに、時計をみたら二時半だった。さすがに無断で戻ってこないのは、いくら外回りに行っていたという言い訳でも乗り越えられないかもしれない。
だけど損した気持ちには全くならなかった。
「今日はおもしろい話を沢山聞かせてくれてありがとう。私そろそろ行かなきゃ。私の話も沢山聞いてくれてありがとう。失恋相手に後悔させる方法は、別れたときよりもとびきり綺麗になることっていうじゃない。だから貴方は小説を書くべきだと思う。」
彼女は椅子をテーブルに戻しながら言った。
「ありがとうございます。マネキンになってしまった女の子の話とか、どうですか?」
「今言わないの。ちゃんと何万字の原稿にしてから、期限を守って応募してこないと。」
◇
彼女を地下鉄の入口まで送ったが、連絡先を訊かれることもなかった。むしろ私の方がこれからも、
友達として彼女と話したかった。彼女は礼儀正しく、だけどさっぱりと私に別れを告げて、地下鉄へ向かう階段に消えていった。
数秒間、誰もいない階段を眺めて、我に返り会社の方向に歩く。
空は紺色のような薄気味悪い色になっていた。だけど自然と嫌な気持ちにはならなかった。
狐に包まれた気分になりながら、麻子は横断歩道を渡る。