10 黒い毛の犬②
あれから、一週間ほど経った。
シュー様は私に会いに来ることも、謝罪のための手紙をくれることもなく……私の日常は、お菓子屋さんでアルバイトをする前に戻りつつあった。
彼とはご縁がなかったんだと、何度も自分に言い聞かせる。それに、少し足を伸ばした程度で済んで、深入りする前でよかったとも。
双方ともに、家族に会ったりした後だと、非常に気まずくなるもんね……。
私はお父さんに留守を任された店先で、雨の降る窓の外を見ていた。アディプトの雨季は長くて、湿気が鬱陶しい。早く夏にならないかな。
「……姉ちゃん!」
ロニーがガンっと音をさせて、勢い良く扉を開ける。
「もうっ。ロニー。扉を開ける時は、ゆっくり丁寧に開けなさいよ。傷ついちゃうでしょ。出世払いばっかりしてたら、何年も給料貰えなくなるわよ」
いつものように小言を言おうした私を遮るようにして、ロニーは慌てて言った。
「そんなん、本当にどうでも良いから! こっちは、すごく大変なんだよ!」
血相を変えたロニーに、早く早くと手を引かれ私は小走りになった。
「え……え! ロニー。ちょっと待ってよ!」
私は走るロニーを追いかけて、つんのめるようにして付いて行く。
近くの路地の奥まった所に、この前に見かけた黒い犬が震えていた。前足には、怪我もしているようだ。かなり深手を負っているのか。滴って流れた血が、透明な水たまりの中に揺れている。
「大変!」
私たちは協力をして、黒い犬を抱き上げると家に連れ帰った。大きな布を何枚か掛けて、ぐっしょりと濡れた毛を拭き取り、大きな傷口は消毒してガーゼを当てて包帯を巻いた。
「こんなに大きな怪我をして……どうしたのかしらね」
ロニーは何か言いかけて止めると、ブンブンと首を振って上を指差した。
「姉ちゃん。部屋へ連れて行こうよ。ここは冷えているから、風邪を引いてしまうよ」
確かにこの玄関は寒くて、暖房などもない。そうねと、私は納得して頷いた。
拭き取ったとはいえ、長くて黒い毛はまだ湿っているようだ。毛布などをかけて、体を温めた方が良いだろう。
大きな犬はロニーに抱えて貰い、二階の私の部屋へと連れて行く。姉ちゃんという声に振り向くと、ロニーは複雑な表情で言いにくそうに言った。
「ごめん。姉ちゃん。友達と……これから、約束してて」
私はロニーに微笑んだ。前から遊ぶ約束をしているなら、仕方がない。ロニーも怪我をした犬が気になっているようだけど、私が傍に付いて様子を見ていれば特に問題もないはずだ。
「ここは、任せて良いわよ。店も閉める時間だし戸締まりだけはしておいて」
「わかった! 出来るだけ、早く帰るね!」
ロニーは元気良くそう言うと、階段を大きな音をさせて駆け下りて行った。階段の木材は古いんだけど、ロニーは遠慮なしなんだよね。いつか踏み板が抜けても、知らないから。
それではと、私は黒い犬を振り返った。
所在なく彼は、キョロキョロと私の部屋を見渡している。慣れない場所に連れて来られて、緊張しているのだろう。
「おいで」
私は安心させるように、ポンポンとベッドを叩いた。
しつけられた賢い犬みたいだし、私の意図していることもわかってくれるはずだ。
迷うように一度私の目を見てから、黒い犬はベッドの上へ飛び乗った。
その上にこの子用に出して置いた予備の毛布をかけると、素直にくるんと丸くなった。可愛い。
もう寝ただろうと私が部屋の外に出ようとすれば、クウクウと甘えたような声で鳴いた。
「ふふ。どこにも行かないわよ。少しだけ、待っていてね。あなたにも、食事とお水を持ってくるわ」
私は一度、ふわふわの毛に包まれた黒い頭を撫でてから部屋を出た。
かなり躾がされているみたい。トイレの時は、扉をガリガリと掻いて外に出て、そのまま何処かに行くのかと思いきや。また、帰って来た。賢い。
夜に私は夜着に着替えると、ベッドの中からおいでと黒い犬を呼んだ。
知らない部屋で飼い主とは違う人に呼ばれ戸惑っているのか、びくびくとしながらこちらに近づいて来る。私はすっかりと乾いたふわふわの毛皮を抱きしめながら、この子と同じ大きな黒いお耳を持つ人を思い浮かべた。
どうか。シュー様が今、幸せであると良い。