トビシグレ
言うほどホラーでもないですよ。
雨降り頻る、乾いた水無月の夕刻のことだ。
私は、都内の高校に通うごく普通の女子高生。
その日も、いつものようにバスに乗りこみ、左の窓の方を向いて、つり革を掴みました。
もうすぐ定期テストです。
私の成績は平均から見れば少し上くらいでした。
ですがなかなか勉強が手につかないもので、何となく焦っていました。
早く帰って、今日は古文、がんばらなきゃ。
その年は乾いていました。
これまでにないほどの乾燥だ、と今朝のニュースキャスターは話していました。
実際に東京でも6月に入ってから、もっと言うと5月からだったでしょうか。
まとまった雨は降ってはいませんでした。
生まれつき雨女らしかった私には、少し寂しいように感じられました。
バス停をひとつ、またひとつと通りすぎていきます。
雲は、段々と茜に染まっていきました。
その時までは、確かに晴れていたのです。
私の見たあの雨が、本物なのであれば。
バスは県道を道なりに進み、しばらくすると大きな交差点に差し掛かります。
左折して、交通量の多い国道に出た、その時でした。
突然雲の色が変わり始めました。
するとあっという間に空は低く黒い雨雲に覆われました。
数分と経たないうちに、雨が降りだしました。
ぽつりぽつりと降りだした雨は、すぐに路面を濡らし、やがて激しい豪雨へと変わりました。
やっぱり私、雨女だ。こんな雨がいきなり降りだすなんて。
ちょっぴり驚きつつも、車窓を眺めていました。
眺めていましたが、しばらく眺めるうちに、その異変に私は気がついてしまいました。
不思議なことに、誰も傘を差さずに歩いているのです。
車だって、このバスだって、ワイパーは誰も動かしていません。
次のバス停にバスが停まりました。一人降りる人がいるみたいです。
その人を見ていても、やはり傘は差さずに歩きだしていきました。
明らかに、何かおかしい。
気になって、隣に立っていた人に尋ねてみました。
「全く、ひどい雨ですよね。最近降ってなかったのに、こんないきなり。」
でも、やっぱり、返ってくる答えは私の認識に反していました。
「ええ?雨なんて、降っていませんけれど。僕の目が悪いんでしょうか」
やっとはっきりと状況がわかりました。
私だけがこの雨を認識していたのです。
しかし、事実はわかっても理解が追い付きません。
ベルを押して、次のバス停で降りることにしてしまいました。
数分後、バスはバス停に到着。
手早く運賃を払って、すぐにバスから降りました。
その瞬間。
確かに雨は私の肩を濡らしたのです。
周りを見渡しても、誰も濡れてなんていません。
私だけが雨に降られていました。
それで、動揺していたのでしょうか。
私は、そこが赤を示した信号の上だったことに、気がつけませんでした。
次の刹那、私の身体は、濡れた路面に、潰されるほど強く、押し付けられました。
妹が車に轢かれた、と連絡が入ったのは、今日は早めに上がれそうだと思っていた、その時だった。
俺と妹は、歳こそ離れていたが、喧嘩も少なく、常に仲が良かった。
そんな妹が、高校生活も順風満帆、これから、と言うときに、こんな事になってしまうなんて。
直ぐに会社を飛び出して、現場に向かった。
両親は離れて暮らしており、一番先に着いたのは俺だった。
着いて直ぐ、妹の遺体の顔を見させて貰った。
悲しいどころか、絶望すら覚えた。
その年の天気のせいか、涙さえ枯れ果てて、暫く立ち竦んでいた。
数時間後、両親が現場に駆け付けた。
進級以来妹に会えていなかったからか、はたまた我が子への特別な思いか、二人とも号泣していた。
親が声を上げて泣く所を、俺はその時初めて目にした。
お陰で、つられてこっちもやっと涙が出てきた。
だが、長く現場には居させて貰えず、警察官に軽く話を訊かれた後、帰らされてしまった。
その夜は眠れなかった。
それからは、通夜だったり、葬式だったり、慌ただしかった。
葬式の時に来てくれた妹の友達が思っていたより多くて、こんなに沢山の友達が妹を思っていた事を気付かせてくれた。
そしてまた、どれだけ大きなものを喪ったのかも、ひしひしと感じさせられた。
そして彼女は、家族の墓のもとに眠った。
初めて墓に向かった時は、雨女だった彼女らしく雨の天気だった。
そう言えば、我が家で墓参りに行くときはいつも雨だったような気がする。
俺らの「雨崎」という苗字のせいだろうか。
それとも彼女のお陰だったのだろうか。
それからも俺は事あるごとに妹の墓に向かった。
何度も行くうちに、もう4年もの月日が流れてしまった。
生きていれば大学生か。
何で、亡くなってしまったんだろう。
そう言えば、今年は雨が少ない。
あの年も雨が少なかったっけ。
丁度4年目の今日、家族で現場に行くことにした。
俺は車で、両親は電車で来ると言っている。
夕方。
県道を真っ直ぐ進む。
仕事はボチボチで、中の上と言ったところだ。
だが今回の案件には手間取ってしまい、何となく焦っていた。
明日もがんばらなければ。
暫く進んだ所で、大きな交差点に差し掛かった。
ここを曲がると国道に入る。その先が事件の現場だ。
そうして左折した、その時だった。
空の色が急に変わり始めた。
雨が降りだすのに、数分とかからなかった。
やがて降りだした雨は、激しい豪雨へと変わった。
しかし、何かおかしい事に気が付いた。
歩道を見ても、誰も傘を差さずに歩いているのだ。
なのに濡れていない様子だった。
周りの車も、一台としてワイパーは動かしていなかった。
異変を確かめようと、信号待ちの間に両親にメールを送る。
『雨が降り始めたね』
だか、やはり、返ってくる答えは俺の認識に反していた。
『なに言ってるの、アンタ。雨なんて降ってないじゃない』
その返信に気を取られたか。
雨に意識を割かれたか。
俺は、次の信号が示す赤に、気が付けなかった。
車から投げ出され、意識が遠退いていく俺の身体を、確かに雨は、濡らしていた。