離婚旅行
『 離婚旅行 』
どうして、こんなふうになったのだろうか?
どうも、よく思い出せない。
始めは単なるボタンの掛け違いだったのかも知れない。
恐らく、そうだったのだろう。
小さいことの積み重ねが巨大なものとなる。
つまり、塵も積もれば山となる、ということか。
良い意味で使われれば、愚公、山を移す、ということになるが、あいにく、私たちの場合は逆だった。
私は車窓の風景を眺めながら、そう思った。
会社を定年退職したら、悠々自適とまではいかないにしても、平穏なのんびりした暮らしが待っているはずだった。
子供は幸い、皆独立して暮らしている。
妻と二人だけの落ち着いた生活が待っているはずだった。
私は、前に座っている妻を見た。
ひょっとすると、妻も私と同じような気持ちを持っているかも知れない。
しかし、妻の表情からは何も窺えない。
とりすました顔で、車窓の風景を観ている。
心の冷たい女だ。
妻との関係はもはや修復不可能だ。
定年前に抱いた私の思いをずたずたにした、この女が憎い。
私は、そう思った。
パリのオステルリッツ駅から電車に乗って、オヴェール・シュル・オワーズという町に行くことにしていた。
パリ近郊の、いわゆる、イル・ド・フランス地域に属する小さな田舎町に行くのだ。
シャンティとか、シャルトルといった有名な観光地もあるが、イル・ド・フランス地域で初めて訪れる町として、オヴェール・シュル・オワーズを選んだ。
選んだ理由は明白だ。
ゴッホの墓を見たかった。
それだけの理由だった。
六月のイル・ド・フランスの柔らかな風景を観ながら、私は妻との離婚を考えていた。
このフランス旅行を終えて、日本に帰ったら、離婚届を出すつもりでいた。
目の前の妻も、離婚には既に同意している。
後は、私のささやかな財産をどのように分けていくか、という事務的な処理が待っているだけだった。
一時、成田離婚という言葉が流行ったことがあったが、あれは、新婚旅行で海外に行った若い人たちの話だった。
今、私と妻は三十年という結婚生活を送る中で、離婚旅行をしている。
成田離婚を経験した若い人たちは、次は、失敗しないよう、男も女もそれぞれ、他の異性と巡り合う中で努めるだろう。
しかし、熟年期を過ぎ、老年期にさしかかっている私たちにはもう、そのように努める機会は無いだろう。
成田空港に到着し、家に帰って、離婚届けに判を押して、役所に出す。
それで、ジ・エンド、だ。
ポントワーズ駅には九時二十三分に着いた。
この駅で乗り換えることとなっていた。
オステルリッツ駅を出たのが、八時十三分であるから、一時間十分ほど電車に乗っていたことになる。
ポントワーズ駅は結構大きな駅であるが、乗降する乗客の数は少なく、駅のホームは閑散としていた。
SNCFという略号で呼ばれるフランス国鉄の電車が三台ほど停車していた。
車両前面の色がそれぞれ異なっていた。
赤色、青色、そして、薄紫色に塗られていた。
行き先、方面によって、色が塗り分けられているのかも知れない。
可笑しかったのは、灰色に塗られている車体の上部に落書きがあったことだ。
何カ所か、黒スプレーで噴き付けられたような落書きがあり、そのまま残されている。
消す気もないらしい。
「あらっ、こんな落書き、どこかで見たような気がするわ」
呟くような口調で、妻が言った。
「日本でも、似たようなスプレーの落書きは結構見掛けるよ。このように、電車の車体への落書きはさすがに見ないけれど、国鉄路線の壁とか、塀とかで結構見掛ける。意味不明な落書きだけれど」
全世界で、このような落書きが組織的に行なわれているのかも知れない。
この駅で、オヴェール・シュル・オワーズ方面の電車に乗り換えることとなっていたが、どうも要領を得ない。
電光掲示板はあるが、馴染みの無い名前が並んでいるだけだった。
せめて、オヴェール・シュル・オワーズという文字が表示されていれば、一目瞭然なのだが、電光表示板に表示されている名前はちんぷんかんぷんの名前ばかりで、果たして、オヴェール・シュル・オワーズに停まるのか、さっぱり判らない。
仕方が無いので、通りかかった人に訊くことにした。
改札口に向かおうとしていた老婦人に訊ねてみた。
彼女は、ちょっと待ってね、と言って、改札口から外に出た。
すぐに戻り、次の電車がオヴェール・シュル・オワーズに停まる、と言ってくれた。
十時二十一分発の電車に乗った。
閑散とした車両の中で、私と妻は向かい合って座り、会話を交わすことも無く、ぼんやりと車窓から過ぎ去っていく風景を眺めた。
今回のフランス旅行は妻との離婚旅行であった。
新婚旅行は沖縄だったが、それ以後、妻とは旅行らしい旅行はしなかった。
会社をリタイアしたら、海外旅行をしよう、と妻とは話していたが、その記念すべき第一回目の海外旅行がそのまま離婚旅行になるとは全然思わなかった。
半年ほど前に、飛行機の手配をして、パリのアパートも一ヶ月の期間で借りて、準備した。
今まで、一週間とか、二週間程度の海外出張は経験していたものの、一ヶ月という比較的長期間の海外暮らしは初めての経験であり、何となく、心が弾んでいくのを感じていた。
しかし、心の弾みとは別に、妻との関係はだんだん冷え切っていった。
子供と一緒に暮らしていれば、子供は夫婦のかすがい、とやらで、案外うまくいったのであろうが、子供は全員独立し、私たちのもとから去って行った。
夫婦二人の生活は気楽でいいですね、と人からはよく言われるが、実際は逆である。
四六時中、顔を突き合わせて暮らす、という生活に私たちは慣れていなかった。
若ければ、二人きりの生活はそれなりに、きっと楽しいものになるであろうが、齢を取ってからの二人きりの生活は他人が思うような、労り深い生活とはならない。
相手の欠点ばかりがやたら目立ち、鼻についてくるのだ。
ささいなことでもすぐ、言い合いになり、相手に負けじ、と頑張ってしまう。
その結果、いつも、言い争いの喧嘩になってしまう。
仲直りもせず、知らん振りで元の生活に戻るが、また、何かの機会で同じように喧嘩をしてしまうのだ。
この繰り返しの中で、私も妻も、ほとほと疲れ、嫌になった。
つい、どちらかともなく、離婚、という言葉が口に出てしまい、現実味を帯びてしまった。
今更、キャンセルも出来ないので、とりあえず行こう、でも、このフランス旅行から戻ったら、離婚届けを出して別れようということになった。
十二、三分ほどで、オヴェール・シュル・オワーズ駅に着いた。
随分、近かったんだなあ、と私は思った。
ホームに降り立ち、何気なく時計を見たら、十時三十四分だった。
乗り換えの時間が長く、パリから二時間二十分ほどかかったが、ようやく、目的地に着いた。
やれやれ、と思った。
乗車する人もほとんど居なかったが、降りる人もほとんど居なかった。
まさしく、田舎の淋しい駅で駅員も居ない無人駅だった。
ホームの表示も無く、行き先の表示板も何も無かった。
ホームがあり、階段で昇降し、ホームを移動する通路があるだけだった。
帰りの時間を調べようと思ったが、それらしい時刻表の表示は無かった。
それでも、何か時刻表があるだろうと、駅舎の中を調べて廻った。
ようやく、掲示版に、時刻表らしい紙片が掲示されていた。
到着駅に、パリ・北駅という名前を見つけた。
電車は一時間に一本程度しか無かった。
時刻をメモして、駅前に出た。
駅前に立った。
周囲を見回したが、賑わいはまるで無かった。
駅前は広い道が通っていたが、閑散としており、車の往来もほとんど無く、時折、忘れた頃に車が通る程度だった。
通りを横切ると、小さな掲示版があった。
駅を後ろにして、左に行くと、『ゴッホの家』があり、右に行くと、『ノートル・ダム教会』があると掲示されていた。
随分とシンプルな掲示板だったが、こんな掲示で十分な町なんだろう。
ゴッホと弟・テオが眠る墓はノートル・ダム教会の裏手にあるということだったが、とりあえず、『ゴッホの家』を訪ねることとした。
少し、歩いた。
それほど狭い歩道でも無かったが、妻は私と並んでは歩かず、私の後を数歩遅れて歩いていた。
可愛げの無い女だと思った。
フランスに来てまで、私と並んで歩こうとはしない。
昔は違った。
鬱陶しいと思うほど、並んで歩きたがった女だったのに。
時には、むやみと手を繋ぎたがる女だった。
また、腹が立ってきた。
ふと、右手を見ると、小さな公園があり、中央に、痩せてひょろ長い男の像が立っていた。
キャンバスを背負い、絵具箱を肩から下げた男が不機嫌な顔で立っていた。
誰が見たって、判る。
ゴッホの青銅の立像だった。
優に二メートルを越す大きな立像だった。
「ゴッホって、背の高い人だったの?」
妻が間の抜けた質問をしてきた。
「まさか、この像は大きめに造っているんだよ。こんな巨人はいるはずが無い」
オランダ人の身長は現在、男子平均で百八十二センチほどあり、世界一の高身長を誇っているが、ゴッホが生きていた頃の平均身長は百六十八センチ程度で、ゴッホも平均身長程度の身長であった、と以前聞いたことがある。
当時の日本人の身長は、というと、ゴッホが生まれたのが千八百五十三年であるから、幕末の頃である。
おそらく、百六十センチも無かったのでは無いか。
右手に何か持っている。
絵筆が、スケッチ用の鉛筆かも知れない、と思いながら、私はゴッホ像を見ていた。
像の周囲に、説明板は何も無く、像の下部の基礎に、ゴッホの名前が刻まれているだけだった。
妻がカメラを構え、私の写真を撮ってくれた。
私も妻の写真を撮った。
フランスに来て、一週間になるが、そう言えば、妻の写真を撮ってやったことが無いな、と思った。
どうせ、離婚する女だ、写真を撮って思い出にすることもないだろう、と心の片隅で思っていたに違いない。
妻も薄情だが、俺も薄情な人間だ、と思った。
妻は、写真を撮ってくれない、そのことに対して、別に文句は言わなかったが、何となく、心の痛みめいた感情を抱いた。
『ゴッホの家』に着いた。
ゴッホが住んでいたのは『ラヴー亭』という居酒屋の三階だった。
今、そこは居酒屋では無く、少し高級な感じのレストランとなっている。
レストランの門扉は閉ざされていたが、シンプルな白壁の外壁に囲まれたこのレストランの横には脇道があり、行くと、ゴッホ記念館の入口があった。
受付で暇そうにしていた若い女から入場券を買って、少し辺りをぶらついていたら、記念館入口となっている二階の階段の方から声がした。
見上げると、十二、三歳ぐらいの少年が二人、階段の手すりに凭れるようにして、何か言っていた。
どうも、入場券を買ったかどうか、訊ねているようだった。
胸ポケットから入場券を取り出して見せたら、安心したかのような笑みを浮かべた。
「入場券売場が目立たないので、買わずにうろうろする観光客が多いのかな。親切で言っているのかも知れないが、どうも、買わずに入場しようとする不届き者め、と咎められているような感じも受けるね」
「言葉が判らないと、つい、叱られているような感じを受けるわね」
私の言葉に珍しく妻が反応した。
家の壁はモルタルに自然石を直接嵌め込んだような茶褐色の壁で、屋根瓦は赤茶けた色をしている。
一階のレストランに続く道は煉瓦ブロックが敷き詰められている道であるが、それでも、道の両側には小さな花壇があり、青紫色の紫陽花が今が盛りとばかり咲いていた。
紫陽花は日本でも六月の花だ。
日本の場合は、六月は梅雨の季節であり、紫陽花は梅雨に似つかわしい花だと思っていたが、フランスでは特に梅雨は無いらしい。
明るい光に照らされて咲き誇る紫陽花を私たちは暫く観ていた。
階段の下には、ワインの瓶のオブジェがあった。
瓶底を上にして、たくさんの瓶を枝のように並べたオブジェが三つあった。
一見したところ、クリスマス・ツリーのようにも見える。
さすが、芸術の国、フランスの洒落たオブジェだと思った。
二階に上って、記念館の入口に立った。
観光客が二、三人入口に屯していた。
記念館の係の人と思われる女性が現われ、前の入場者が今、案内ビデオを見ているから、五分ほど待ってくれ、と言った。
入口から右の通路が順路となっており、ぐるりと廻って、この入口に戻るらしい。
入口の奥が、観光物産、記念館の土産物売場になっているらしく、館内見物を終えたらしい四、五人の観光客が絵葉書とか、複製の絵を物色していた。
その内、私たちの番が来たようだった。
若い女の子が現われ、右手の通路に案内された。
すぐ、三階のゴッホが住んでいた部屋に案内された。
小さい、まことに小さい部屋であった。
屋根裏部屋のような部屋で広さは四畳半も無く、三畳ほどの小さな部屋であり、しかも、変則三角形みたいな変てこな部屋だった。
ベッドを置いたら、後は、小さな机と椅子が一つずつしか入らないような部屋で、勿論、当たり前だが、バスも無ければトイレ設備も無い、シンプルそのものといった部屋にゴッホは死ぬまでの二ヶ月を過ごしていたのだ。
妻も、部屋の小ささに驚いていたようだった。
私たち五、六人の観光客は案内人の説明を聞きながら歩き、上映室でゴッホが住んでいた頃のこの地域の様子、簡単なゴッホの生涯を纏めたビデオを鑑賞した。
ゴッホは支援者であり、友人でもあったガシェ医師の紹介でこの居酒屋の二階に部屋を借りた。
部屋代は何フランだったのか知らないが、随分と安かったらしい。
それはそうだろう。
こんな部屋だったら、日本でもひと月、一、二万円といったところだろう。
ゴッホは拳銃での自殺未遂の後、この部屋で一昼夜苦痛に呻きながら、死んでいったと伝えられている。
ガシェ医師と、急遽駆け付けた弟のテオが死にゆくゴッホを見送った。
土産物の店を覗いてから、私たちは階下に降りた。
レストランに入ろうかと思ったが、十二時近くにはなっていたものの、店の中は閑散としており、いかにも準備中といった雰囲気だったので、後で寄ろうということに決めて、私と妻は記念館を出て、駅の方角に戻った。
駅前に出た。
駅を右手に見ながら、更に歩くと、左手に見覚えのある教会が見えてくる。
ゴッホの絵、『オヴェールの教会』と呼ばれている教会であり、まさに、見覚えのある教会といって過言ではない。
通りに面したところ、教会の頂部に時計が設置されている。
一種の時計台のようにも見える。
思わず、腕時計で時間を確認したら、案外正確な時刻表示をしていた。
教会の外壁は白っぽい煉瓦造りで、屋根は三角屋根で、赤茶けた瓦か、石葺きとなっている。
教会の窓は先端が少し尖っている細長いアーチ型の窓となっている。
この教会は地元では、ノートル・ダム教会と呼ばれている。
ノートル・ダムは、我らが貴婦人、という意味で当然、この教会は聖母・マリアに捧げられた教会である。
ノートル・ダム教会、或いは、ノートル・ダム寺院はフランスの都市、町の至るところにある、ごく一般的な名前である。
固有名詞であるが、中味としては、ほとんど普通名詞のような名前である。
このオヴェール・シュル・オワーズの教会は周囲に余分な装飾建築は一切無く、緑の芝生の上に、すっくと立っている。
私たちは教会に入ってみた。
日本もそうであるが、ヨーロッパの教会はミサの時間を除けば、誰でも気軽に入れるという良さがある。
来る者は決して拒まない、というのがキリスト教の良いところかも知れない。
車輪のような輪模様の彫塑が施されている正面入口から中に入った。
やはり、予想通り、内部は薄暗かった。
しかし、正面にあるステンドグラスは実に明るかった。
大きな十字架があり、その周囲を色とりどりのステンドグラスで飾られた窓は美しかった。
聖母・マリアが描かれているステンドグラスの下に、祭壇があり、厳粛な雰囲気を醸し出していた。
素朴な椅子に腰を下ろし、目を閉じて、束の間の静寂を味わった。
隣に座った妻の微かな息遣いも判る静謐な空間に私たちは居た。
不思議なことに、妻と一緒に座っていても、とりわけ緊張感は感じなかった。
珍しく、私はリラックスしていた。
久し振りに味わう心の安らぎを覚えた。
教会の中から出て、道に出ると、通りに面したところに、この教会を描いたゴッホの有名な絵のポスターが掲示されていた。
絵では、ゴッホ特有のうねるような歪みを持って描かれているが、実際は勿論、うねってもいなければ、歪んでもいない。
但し、姿としては極めて正確に描かれているのが判る。
しかし、時代の変化だけはどうしようもない。
絵では、明るい黄色の色彩で土の道路が描かれているが、今の現実世界では、味気無い舗装道路があるばかりである。
絵に描かれている農婦も居ない。
ただ、教会だけが絵に描かれた姿のまま、歳月を越えて、建っている。
掲示板のところで、背景に教会が写るようにして、妻と私は交互に相手の写真を写した。
二人っきりの生活というのは、子供の世話が無い分、気楽な生活にはなるが、反面、子供というクッションが無い分、対立したが最後、息が詰まる生活を強いられる。
仕事があれば、その時間帯は相手のことを考えることは無いが、サラリーマンを完全にリタイアした身では、そうもいかず、一緒に居て、顔を突き合わせる時間がどうしても増えてしまう。
よく、長年連れ添った夫婦というものは空気か水みたいな存在、関係となり、角を突き合うことも無く、自然な感じで、生活を共に出来る、という人もいるが、私たちの場合は残念ながらそうはいかず、相手の欠点ばかりが目立ち、一緒にいること自体が苦痛となってきた。
これは、私ばかりでは無く、妻もそうだったのだろう。
妻は、私にとっては些細なことと思われたことも、執念深く覚えていて、あの時、あなたはこうだった、あの時、あなたはこうしてくれなかった、と恨みがましいことを何かにつけ、言い、私をなじるようになった。
そんな昔のことを言われる度、私はうんざりし、憂鬱な気持ちに襲われることとなった。
こんな生活は真っ平御免だ、思い切って別れて、自由になろう、それがお互いのためだ、と思うようになっていった。
墓地へ向かう道を私たちは歩いて行った。
歩いて行く道の上に、綺麗な空が見えていた。
周囲に、建物は何も無い。
空だけがすっきりと見えている。
道は少し、右に曲がっている。
ゴッホ好みのうねりだ。
道の両側は一面の麦畑、それ以外は何も無い。
今は収穫前で、麦畑の麦の穂はぎっしりと実をつけている。
キャンバスを背負ったゴッホがひょっこり現われても不思議は無い風景が広がっていた。
あちら、こちらで、ゴッホが黙々と写生しているかのような錯覚すら与える風景が目の前に広がっているのだ。
この風景を私は見たかったのだ。
少し、目が潤んできた。
どこか、安らぎを感じさせる、懐かしいような風景の前に立ち、私は傍らの妻を見た。
彼女も陶然とした眼差しで、目の前の風景に酔っているようだった。
麦畑の他は何も無い。
家も無い。
あるのは、空と、遠くに見える森の木立と、ゴッホと弟が眠る墓地があるばかり。
道の分岐点に、この風景を描いたゴッホの絵のポスターが掲示されていた。
これも、有名な『カラスのいる麦畑』の絵である。
麦畑の向こうに、二組の男女が手をかざし、風景を眺めて立っていた。
六月の気候は少し暑さを感じさせたが、この麦畑のあたりには風も吹いており、私は辺りを見廻しながら、解放された伸びやかな気分を味わっていた。
今、こうして私の脇に居る妻も、若い頃は私の帰りを待ちわびて、夕食も摂らずに私を待つ女だった。
でも、いつ頃からか、私を待たずに、夕食を摂るような妻になってしまった。
子供が出来てからだ。
まあ、それは仕方が無い。
私の帰りを待っていたら、子供は飢えてしまう。
子供に食べさせると共に、自分も食べてしまう。
これは、言わば、自然の摂理だろう。
自然の摂理だなんて、俺も大袈裟な物言いをする男だ。
そう思ったら、自然と笑みがこぼれてきた。
人も時間と共に、変化する。
妻が変化すると共に、私だって、妻から見たら変化しているのだろう。
どっちもどっちで、おあいこ、かと思った。
墓地の入口に立った。
掲示板が立てられている。
画家の村、オヴェール・シュル・オワーズ、と書かれ、この墓地に葬られている八人の画家の名前と、墓の所在が番号付きで記載されている。
ゴッホは第一番目に記載されていた。
私たちは墓地の中を歩き、ゴッホの墓を探した。
墓地を囲む塀際に、寄り添うように並んでいる二つの墓石があった。
向って左側が兄、フィンセント・ファン・ゴッホの墓で、向って右が弟、テオドール・ファン・ゴッホの墓である。
墓には、ここに眠る、としか刻まれていない。
フィンセントは三十七歳で死に、四歳違いの弟・テオドールは兄の死後、半年しか生きなかった。
兄の死後、まさに、後を追うかのように死んだ。
テオの人生、一体何だったのだろうか。
兄を一番理解していたのは間違いない。
兄の天才を一番信じていたのも間違いない。
不器用に生きる兄の最大の支援者、パトロンとして人生を送ったのも間違いない。
そして、兄同様、弟・テオも燃え尽きるように死んだ。
今、二人並んで、ここに眠っている。
しかし、それにしても、ゴッホ。
ゴッホの三十七歳という年齢での死。
宮澤賢治も確か、三十七歳で死んだ。
この二人は同じ匂いがする。
殉教者の匂いがする。
ゴッホには弟のテオが居たが、宮澤賢治にも妹のトシが居た。
どちらも、兄の最大の理解者であった。
夫婦でも、お互いがお互いの最大の理解者であれば、夫婦の間はきっとうまく行くに違いない。
でも、そんな夫婦は一体どれくらい居るのだろうか。
ほんの一握りさ、と私は勝手に思うこととした。
墓の背後の石の壁には緑の蔦が這い、赤い花が咲いていた。
そして、墓石の前には緑の草が一面覆い尽くすかのように密生して生えている。
墓石に寄り添って、紫の小さな花も咲いており、墓石の上に、赤い花の花弁が三枚ほど帽子のように載っていた。
ゴッホは今から百二十年ほど前に死んだ男だ。
千八百九十年と言えば、明治二十三年となる。
第一回の衆議院選挙が行なわれた年で、日清戦争が勃発する四年前の年だ。
村の外れで、ゴッホは自ら胸に銃弾を撃ち込んだ、と伝えられている。
自殺説の他、他殺説、事故説等の異説も多くあり、事の真相は曖昧なままだが、三十七歳という、長いとはとても言えない生涯を閉じたことだけは確かである。
この村の滞在は僅か二ヶ月であったが、七十点という絵は残された。
いずれも、傑作ばかりと言われている。
まさに、奇跡の二ヶ月と言って良い。
ゴッホは死ぬために、このオヴェール・シュル・オワーズという小さな田舎町に来て、猛烈な意欲で描きたいものを描き、そして、燃え尽きたように、この世を慌ただしく去っていった。
さて、妻と円満に離婚することが出来たら、私はどういう生活になるだろうか。
私は離婚後の生活に思いを馳せた。
家は妻に渡し、どこか、住みたいところでアパートを借りて住むのもいいだろう。
一人暮らしなのだから、一DKでも、二K程度で十分だろう。
気楽な暮らしが待っているはずだ。
年金もそこそこ貰える。
厚生年金の報酬比例分と老齢年金を合わせて、ワーキング・プア程度の収入は得られる。
その金額に、妻に渡す金の他に残る貯蓄の金を合わせて、何とか死ぬまでの生計をたてる。
私は幸せになるかも知れない。
しかし、妻はどうなる。
年金は老齢年金しか貰えない。
私からの財産分与で貰う金で何とか暮らさなければならない。
家はあるが、老齢年金までの収入は無い。
貯金を崩して何とかやるしかない。
どうしようもなくなったら、子供に依存するしかない。
子供のところを渡り歩いて暮らすことになる。
何と無く、哀れな生活になる、と思った。
しかし、自ら蒔いた種だ。
自業自得だろう。
墓地から歩いて、教会、駅周辺を経由して、ラヴー亭のレストランに戻った。
一時半近くになっており、レストランは開いていた。
半分ほどのテーブルが埋まっていた。
私は舌平目、妻はホタテガイの料理を食べた。
日本であれば、魚料理は上を食べ終わったら、下半分は箸でひっくり返して食べるということが許されているが、フランス料理では、魚をひっくり返すという行為はタブーとされているということを何かの本で見ていたので、私は悪銭苦闘しながら、ナイフとフォークで骨を慎重に取り除きながら、全部食べた。
食べ終わってふと、目を上げたら、レストランの主人と思しき人と眼が合った。
どうも、私の食事風景を眺めていたらしい。
主人は微笑み、ウインクした。
マナー良く、食べる東洋人に対する好意であったかも知れない。
私は眼を戻し、ホタテガイを食べる妻を見た。
妻が意外に小さく見えた。
ナイフで小さく切り分け、フォークを使って口元に運ぶ仕草はとても頼りなげに見えた。
私は妻の意外な側面を発見したような気がした。
と同時に、食事の時に妻の食べる様子をじっくりと見たことがないことにも気付いた。
私は自分だけ、さっさと食べて、妻と会話することもなく、居間に引き籠って、テレビを漫然と眺めるという習慣をここ十年ばかり続けていたことにも今更のように気付いた。
今、私の目の前に居る妻は以前のような活発な妻では無くなっていた。
少し身をかがめ、少しずつ食べ物を口に運ぶ、初老の弱々しい女であった。
妻に憐れみを感じた。
この女と今、別れようとしている、離婚しようとしているのだ。
俺は悪い男かも知れない、と私は思った。
レストランを出て、駅に向かった。
この町の観光は済んでしまった。
『ゴッホの家』、『オヴェールの教会』、それに『ゴッホと弟・テオが眠る墓地』、この三つさえ見れば、この町の観光は終わる。
後は、全て余分だ。
私たちはパリに帰ることとした。
駅に着いた。
が、どのホームから乗るのか、皆目、判らない。
電車の時刻表はあるが、ホームの表示が無い。
ホームは二つあるが、どのホームがパリに向かう乗場か、何の表示も無いのだ。
駅員に訊こうと思ったが、ここは肝心の駅員もいない無人駅なのだ。
乗客も居ない。
と思ったが、運良く、乗客らしい女性が来た。
一見すると、日本人らしい若い娘だった。
でも、実際は韓国の女性だった。
やはり、どのホームから乗るのか、判らないと言った。
やがて、電車が来た。
来た時と反対方向の電車ならば、安心したところであるが、来た時と同じ方向の電車であった。
韓国の女性に訊いたら、いいんじゃないかと思う、ということだったので、思い切って乗車することとした。
結果的には、それで良かった。
後日判ったことだが、オヴェール・シュル・オワーズはパリとは一つの環状線の中にあり、二つのホームのどのホームから乗っても、最終的にはパリのどこかの駅には着くということだったのだ。
私たちは、十四時三十五分発の電車に乗った。
「韓国の女性は勇敢な女性が多いわね。一人で、ここまでいらっしゃるものね」
「そうかも知れない。日本人と中国人は団体客が多く、個人旅行はあまり見ないけれど、韓国系の旅行者では団体客なんか見ないもの。結構、韓国人は個人旅行が好きなのかな」
「あのゴッホの墓地周辺の麦畑で見掛けた人たちも四人ほどだったけれど、言葉を聞いたら、韓国語系統だったもの」
「ああ、そうだったね。でも、そういう観点で言えば、僕たちも結構、珍しい日本人にはいるかも知れない」
「ツアーでは無く、個人旅行をするために、半年間もフランス語を独習していたものね」
妻の言う通り、私はここフランスに来ようと決めた時点から、フランス語の電子辞書を買って、独学でフランス語を勉強し始めた。
ツアーと違って、個人旅行ならば、全てが自己責任となる。
旅行者程度の語学は出来なければならぬ、と私は思い、毎日二時間程度は勉強した。
心の中には、或いは、妻にいいかっこを見せたい、という思いもあったのかも知れない。
どうも、妻の前で、私はいいかっこをしたことが無い。
団塊世代である私は、一応は、企業戦士の一人だった。
右肩上がりの時代にあっては、夜遅くまで働き、家にはほとんど寝るためにだけ帰ってくるような生活を続けた。
子育てで半ばノイローゼ気味になっていた妻をほったらかしにして、私は会社人間と化していた。
土曜日は休日だったが、会社に出勤した。
日曜日は体がばてて、ほとんど一日、家でごろごろとしていた。
子供にせがまれると、しょうがなく、近くの遊園地に行く程度であり、父親の務めとやらはほとんどしなかった。
時々は、妻からヒステリックな口調でなじられることはあったが、完璧に無視していた。
今、妻からその当時の私の言動、態度を何かにつけ、なじられると、悪かったなあと思う反面、あの時代の男は大体そんなものだったと開き直る気持ちも多分にある。
そんな気持ちがある以上は、どうしても言い争いになってしまうのだ。
自己肯定というのは、こういうことか。
自己否定は切ないが、自己肯定、自己是認はあまり美しいものでは無い。
私は少し苦い気持ちで、そう思った。
「でも、フランス語はむつかしいよ。一方的に、話すことは出来ても、相手の言うことが判らなければ、全然会話にはならない。半年、勉強しても、所詮は旅行者程度のフランス語さ」
「でも、旅行を決めてから、半年も勉強したんだもの。私は、あなたを偉いと思っているのよ」
「僕は褒められているのかい。でも、偉い、と思っているんだったら、それを言葉にして、僕に言わなきゃ」
「言うと、あなたはますます図に乗ってしまう。だから、言わないのよ」
「言う、言わない。それが問題だ。ハムレットじゃないけれど、言葉に出す、出さない、で、状況は随分と変わるものだよ」
「それは、そうかも知れないわね」
「そんなものだよ」
私の言葉に、妻が軽く頷いた。
少し悲しげな表情を見せた。
乗った電車はペルサン・ボーモン駅までの電車で、私たちは乗り換えることとなった。
この駅にはちゃんと駅員が居た。
拙いフランス語でホームを確認し、十五時十分発のパリ・北駅行きの電車に乗った。
私が妻と知り合ったのは、学校を卒業して、会社に入った時だった。
最初に配属された部署に、彼女が居た。
少し生意気な女、というのが私の第一印象だった。
私の一年前に入社した先輩社員には何かと親切な癖に、新入社員の私には何故か冷たい感じがしたのだ。
部署に、独身の男女の親睦会があった。
今の言葉で言うと、合コンを定期的に行なう独身者の会だった。
食事会ばかりでは無く、日帰りの旅行も行なった。
集団で海水浴にも行ったし、近くにある鍾乳洞にも行ったりして、わいわいと遊んだ。
その内、彼女が近々お見合いをするという噂が聞こえてきた。
当時の彼女は二十歳になったばかりの齢であったが、その地域の結婚年齢はとにかく早く、二十五歳程度の年齢で、もう肩身が狭いといった状況であった。
その噂を聞いた時、私は冷静では居られなくなった。
思い切って、夜、彼女の家に電話をかけた。
電話口に出た彼女は突然の私からの電話を訝しく思っている様子だった。
ぎごちない会話が少し続いた後、私は勇気を振り絞って彼女に言った。
お見合いはやめて、僕と付き合ってくれないか、と。
暫く、沈黙があった。
電話口の前の彼女の表情をいろいろと想像した。
随分と長い時間のように思えた。
やがて、呟くような小さな声が聞こえてきた。
OK、という声であった。
私は翌日以降、この少し生意気な娘と付き合うこととなり、一年後に結婚した。
それから、転勤して、子供も生まれ、ばたばたと会社人生を送った。
転勤も定年までの間に五、六回あり、その都度、妻は頑張った。
ふと、思いがけない言葉が脳裏に浮かんだ。
似つかわしくない言葉ではあるが、私の脳裡に浮かんだ言葉は、・・・。
『戦友』という言葉であった。
私にとって、妻は戦友であった。
辛い時、悲しい時、いつも一緒に居た戦友であった。
そんなことを思っていたら、いつしか、前に座っている妻が愛しい存在のように思えてきた。
急に、離婚という言葉がどうしようもなく、つまらない言葉のように思えてきた。
私と妻とのこれまでの人生という歴史がこんなことで断ち切られていいのか、と思った。
パリ・北駅には十五時四十六分に着いた。
ホームに降り立ち、地下鉄に向かった。
地下鉄を乗り継いで、アパートがあるオステルリッツ駅に向かいながら、私は思った。
まだ、間に合うかも知れない。
今回の旅行をしてから、私たちは別れることとしていたが。
まだ、やり直せるかも知れない。
熟年離婚なんて、淋し過ぎる。
ふと、目を上げたら、そこに妻の眼があった。
私を見ていたらしい。
何か、言って、とその眼は言っていた。
「さあて、これから、どうしようか。アパートで少し休憩してから、歩いて、ノートル・ダム寺院あたりを散策してみるのもいいし」
「途中で、アイスクリームの美味しいお店もあるし、ねえ」
「どうせ、十時半頃までは明るいし、アイスクリームを嘗めながら歩くのも悪くない」
「歩きながら、私たち、もっと話をしましょうよ」
「話す、か。そう言えば、このところ、話をすることが無かったなあ」
「そうよ、私たち、会話が無かったわ」
「でも、会話をすると、いつも、喧嘩になったじゃないか」
「会話がいつのまにか、喧嘩になってしまう。悲しいことね、ねえ、そうは思わない?」
「じゃあ、一つ、提案がある」
「どんな提案?」
「歩く時は、出来るだけ、手を繋ぐこととしよう」
「あなた、私と手を繋げる?」
「繋げるさ。ここは、日本じゃないもの」
「手を繋ぐ。OK。それから?」
「昔のことをあれこれ言わない」
「OK。それから?」
「ノートル・ダム寺院近くのカフェに入る」
「OK。それから?」
「ショコラ・ショーを飲む」
「OK。それから?」
「アパート近くのレストランに入る」
「OK。それから?」
「ワインを飲む」
「OK。それから?」
私は妻を見詰めた。
今の思いを、昔、付き合ってほしい、と言ったように、言葉に出して言わなければならない。
さあ、言え。
今がその時だ。
「今回の旅行は、離婚旅行では無く、再出発旅行とする」
妻は黙った。
私は妻を見詰めた。
妻も私を見詰めた。
妻の唇が動いた。
「OK、・・・、OK」