死んだ夫の帰還
「テフェリ……」
自身を呼ぶ夫の声に、テフェリは口づけで答えた。夫は――ドゥヴァンはさらに彼女を抱き寄せて、口づけは次第に深くなっていく。
「愛してる……」
それは、どちらがどちらに対して言ったものだったか。分からないけれど、ふたりは互いに身体の奥深くに手を伸ばし、熱を高めていく。
「ああ、ドゥヴァン……」
夫の背に手を回して抱きしめながら、テフェリは身体が覚えた違和感を押し殺した。彼の身体は、こんなに細かったかしら? 腕も、もっと力強かったのではなかったかしら?
違和感の原因はあまりにも多い。テフェリの名を呼ぶ声、頬を撫でる指先、触れ合う肌の色、熱さ――全て、彼女の記憶にあるものとは違う。
でも、それは当然のこと。ドゥヴァンの肉体はもう荒れ狂う海の中で砕け散った。ここにあるのは、彼の霊だけ。それも、人としてのそれではない。死霊となった彼は、神霊の試練を乗り越え、神霊の欠片を宿して精霊――トギとしてこの世に留まることになった。形のないトギは、人の身体に憑いて依代とする。だから、彼女を抱く夫の身体は、別の男のものなのだ。
トギとなった霊はもはや人であった時とは全く性質を異にしているのだという。依代の身体を奪ってこのようにテフェリを抱いてくれてはいても、ドゥヴァンが生きていた頃と同じように感じているのか、彼女には分からない。
――それでも、心と記憶は彼のものだから……!
目に映るのは違う男の顔。抱きしめるのも違う男の身体。まるで彼を裏切ったかのような罪悪感に痛む胸を必死になだめて、テフェリは夫を抱きしめた。
夫が肉体を得るのはこの一夜だけのこと。明日になれば、ワノトギに身体を返さなければならないのだから。
翌朝、テフェリは夜が明けきる前に起きた。隣に眠る男――夫なのかワノトギなのかは考えないことにして――を起こさないように、できるだけ静かに身支度を整え、次いで朝食の準備をする。
ワノトギが来訪するとあって、食材は豊富に用意されていた。昨日の漁で獲れたのであろう、新鮮で大ぶりな魚はさばいて香草を振りかけて焼く。海老や貝で出汁をとって汁物を作る。レンフィーの港町で、魚と引き換えに得た野菜も入れて。この貧しい離島では珍しいほど贅沢な一膳。でも、トギや精霊の力で恵みをもたらすワノトギに供するものとしては当然だ。
「美味しそうな匂いだ……テフェリ、いつもありがとう」
「ユミュールさま」
良い色に焦げ目がつき始めた魚の香りに惹かれたのか、それとも包丁の音がうるさかったのか。背後から掛けられた声に、テフェリは振り向き――そしてすぐに目を伏せた。
そこにいたのはこの家の主にして、島民の尊敬を集めるワノトギ、そして彼女の夫のドゥヴァンをトギとして従えている者でもある男――ユミュールだった。つまりは昨晩彼女を抱いたのはこの男の身体だということになる。
トギが肉体を支配する間、ワノトギの精神は眠りについたようになっているのだというし、ユミュールも何も覚えていないと、ああいう夜を過ごす度に請け負ってくれるのだけど。でも、だからといって気恥ずかしさと後ろめたさを覚えない訳にはいかない。ユミュールも同じように思っているのか、しっかりと洗顔して髪も整え、服も着替えた姿で現れてくれたのが幸いだった。
「あの……もう少しでできあがりますから。どうか、お楽になさっていてくださいませ」
「うん……ありがとう」
夜を共にした後に朝食まで作るのでは、まるで本物の夫婦のよう。でもそれは事実とは違う。ユミュールは夫を忘れられないテフェリを憐れんで逢瀬を許してくれているだけだ。彼女の方も、その礼として、それに島民の感謝の念を代表して彼の世話を焼くというだけ。
あえて堅苦しい言葉遣いを選ぶのも、その体裁を保つため、これ以上おかしな気持ちになって苦しんだりしないためなのだ。
朝食が完成した後も、テフェリは給仕に徹してユミュールに馴れ馴れしい態度を取らないように気を配った。
ユミュールの家を出ると、集落はもう働き始めていた。男たちはすでに漁に出て海岸には船はなく、残された女たちが網の修繕だとか魚の干物を作ったりだとかに精を出している。水を張った桶を運ぶ子供たちは、ヤシロを掃除する役目を言いつかっているのだろう。
恵みをもたらす精霊――ナトギを休ませ、祈りを捧げるよりどころであるヤシロを家々に備える習慣は、この集落ではごく最近に根付いたものだ。ユミュールをはじめとするコトトキたちが信仰を説くまで、ここでは長く精霊の加護など遠い世界のことだと思われていた。
このダフォディル地方を加護する神霊チム=レサの器が身罷って久しい。神霊亡き地には精霊の恵みは薄く、しかもこのような離島までは届くことはないだろうと、誰もが諦めていたのだ。
そうではなく、祈りや感謝によってナトギを招くことができるのだと説かれても、島民たちは最初は信じようとしなかった。コトトキ――理を説く者たちとはいえしょせん余所者だったから。しょせん、五体の神霊に守られたロウレンティアの者たちが言うこと、この島の窮状など分かりはしないと思っていたのだ。
それが変わったのには、テフェリの夫の死も深く関わっている。
夫を亡くした女たちが働く場に行く前に、テフェリは島長の屋敷へと足を向けた。ユミュールが島に滞在している間、彼の世話を主に焼くのは彼女の役目だから、不足がないかどうか毎日報告するように言われている。ワノトギさまの機嫌が、島長も気になっているのだ。
――でも、長もどうせ海や風のことを相談するのでしょうに。
二度手間ではないのかしら、とちらりと思う。それでも言いつけは言いつけだから――それに、夫だったトギと夜を過ごした後で、未亡人たちに混ざって働くのは気が咎めるから。テフェリは女たちの嫉妬と悲嘆の眼差しから、少しでも離れていたかった。
深々と頭を下げたテフェリに対し、島長は深く静かな声を掛けた。
「ユミュールさまは、よく休まれていたか」
「はい。朝食もよく召し上がって――明日には、風を呼んでくださるそうです」
夫の、ドゥヴァンの霊は風の神霊ヲン=フドワの欠片によってトギになった。それを宿すユミュールはヲン=フドワの力を使うことができる。季節や天候を問わずに船を動かすことのできるその力は、漁を生業とするこの島には何よりもありがたいものだった。
「本土からいらっしゃる時にナトギさまも連れてきてくださった。おかげでこの数日魚で網が重い」
「皆の祈りが盛んだからナトギさまも嬉しそうだと、ユミュールさまが」
神霊の器が不在の今、ダフォディルでは本来精霊の気配は薄い、らしい。霊力の低いテフェリには今ひとつよく分からないが、島長など波と風を読むことに長けた者は海の気配の違いでナトギの存在を――そして彼らを遣わしたワノトギの来訪を知ることができるのだという。
人の中では高い霊力を持つコトトキたちで島に定住した者たちもいるし、彼らの力も見識も島をよく助けている。けれど、神霊の力を宿したワノトギはやはり別格だし、唯一悪霊を滅せる力を持つがゆえにひとつところに留まることは許されない。だから、ユミュールの訪れはいつでも島を挙げて歓迎されるのだ。
「今度はいつまでいらっしゃるのか、聞いたか?」
「さあ、そこまでは……」
「ワノトギさまにはできるだけ長く留まっていただきたいもの」
「そうですね」
だから島長の言葉はもっともなもので、テフェリは深く考えないまま答えた。
「お前、ユミュールさまと結婚するつもりはないか?」
「は……!?」
だが、これにはさすがに驚いた。目を見開いて固まってしまった彼女へ、島長は波が寄せるように畳みかけてくる。それはそれは晴れやかな笑顔で。
「お前もあの方の世話をして長い。だから気心も知れているだろう? ワノトギさまと常に共に暮らすことはできないだろうが、妻のいる地となれば頻繁に帰ってきてくださるだろう」
「…………」
「ドゥヴァンが逝って三年にもなるし――」
島長が言葉を途切れさせた、その続きをテフェリははっきりと聞き取った。
ユミュールにはドゥヴァンの霊が憑いている。だからテフェリが再婚するのもそうおかしなことではない。
トギとなって、半ば神霊の世界のものとなって。でも、まだテフェリに愛を囁いてくれる。ユミュールと結婚すれば、もっと堂々と夫との時を持つことができるのだろうか。その誘惑は強かったけれど――でも、彼女は首を振った。
「ワノトギさまなんて恐れ多い。第一、ユミュールさまのお気持ちは――」
「実は前に来ていただいた時にもそれとなく聞いてみたのだ。あの方も、お前も気に入っているようだった」
「……そうでしょうか」
「そうだとも。あとはお前の気持ちだけだ」
そう言いながら、島長は彼女が頷くと疑っていないようだった。ドゥヴァンとテフェリは仲睦まじいと評判の夫婦だったから。どのような形でも傍にあれるのは幸せなことだと、信じているのだろうか。
島長の期待に満ちた目に、でも、テフェリは首を振って屋敷を辞した。少し考えさせて欲しいと言って。それも形ばかり固辞したのだと思ったらしく、島長の笑みは崩れることはなかったけれど。
島長の屋敷から出たテフェリの足取りは重かった。頭の中をめぐるのは、ただひと言。
――あり得ないわ……。
ユミュールの妻になる。考えれば考えるほど、それはあり得ないことだった。トギとなった夫と言葉を交わせることを他の未亡人たちは羨むし、彼女自身も望外の幸せだと分かってはいるけれど。でも、だからこそ、彼女の想いはただ死んだドゥヴァンだけにささげられている。夫ではない姿をした男を抱きしめるのも、心はドゥヴァンなのだからと言い聞かせて、やっと自身を騙しているというのに。ユミュールと結婚などしたら、彼にも抱かれなくてはならないではないか。夫の霊を宿した男に身体を許すなど、彼を忘れて再婚するよりもひどい裏切りに思えてならない。
いつしか彼女は砂浜にいた。思い悩みながら歩くうちに、足が自然と海辺へと向かっていたらしい。ため息をこぼしながら眺める水平線は、穏やかそのもの。ユミュールが遣わしたナトギさまが、波を抑えてくれているのだろうか。――あの日の海とは、まるで違う。
あの日。ドゥヴァンが帰らなかった日。ドゥヴァンだけでなく、島の多くの男たちが海に消えた日。
テフェリたち島の女たちは、荒れ狂う海を祈りながら見つめていた。今のように神霊に対してではなく、漠然と海に対してだったけれど。あの頃、島の者たちは精霊の加護を現実にあるものとしては信じていなかったから。
一晩中荒れた海は、朝になると嘘のように凪いでいたけれど、それでも男たちは帰らなかった。代わりに彼らが乗っていた船の破片が幾つもこの浜辺に打ち寄せられて、それで女たちは祈りを悲嘆に変えて夫の遺品を探し集め始めたのだ。もちろん、できることなら夫の亡骸を自身の目で見て、その最期を確かめたいと、誰もが思っていたけれど。でも、それはめったにない僥倖だった。それに死霊となるのを避けるためにどのみち遺体は海に流すのだから、二度別れを味わうのは二重の苦しみでもあっただろう。
ひと際大きい破片の影で何か蠢くものを見た時、女たちはいっせいに心臓を跳ねさせた。打ち上げられた魚や、それを目当ての鳥とも思えない大きさ――誰か、生きて流れ着いたものがいる証だった。一筋の希望に引き寄せられて彼女たちは駆け寄って、でも、その希望はすぐに潰えた。うめき声を上げて起き上がろうともがいていたのは、彼女たちの夫のいずれでもなく、島の外からきたユミュールだったのだ。
『テフェリ』
彼は集った女たちを見渡すと、真っ先に彼女の名を呼んだ。
『すまない。誰も守れなくて。――ここに、ドゥヴァンがいる』
そう言って彼が掲げた腕には、無数の蚯蚓腫れが走っていた。それは、死霊に憑かれた者の証。強い思いによって地上に留まった霊は、寄る辺を求めて生者に憑りつき、結果として相手を衰弱させ死に至らしめる。蚯蚓腫れは、その最初の兆候だった。
テフェリはユミュールの蚯蚓腫れを撫でて、取り縋って泣いた。彼女の指に反応するように蠢き数を増やす赤い筋は、きっとユミュールを苦しめたのだろうけど。その時の彼女にそれを気遣う余裕はなかった。今ユミュールを抱きしめることができるのは、あの無我夢中で縋った時のことを身体が覚えているのかもしれない。
彼女は悲しかった。夫が帰らないということも。死霊になってしまったことも。他人を――ユミュールを苦しめて殺そうとしていることも。そして、彼にそうさせたのが、おそらく彼女への想いだということも。
そして何より辛かったのは、ユミュールを救うためには夫の死霊は祓われなければならないということだった。死霊に憑かれた者を救えるのは、神霊の御力だけ。ダフォディルの神霊が不在である今、ユミュールは遥か他の地方の神殿まで赴いて神霊の試練を受けなければならなかった。試練の後に浄化された死霊は空や地に還るとコトトキたちは説くけれど、遥かな地で還った夫は、その欠片は、二度と彼女に触れることさえないのかと思うと気が狂いそうだった。
それでもユミュールが取り殺されるのを放っておく訳にもいかず、彼女は涙ながらに彼が故郷ロウレンティアの神殿へ旅立つのを見送った。周囲で村の者たちが囁くのを聞きながら。
――生き残ったのはあの方だけだったとは。
――島の男たちの方が力も強いし、泳ぎにも長けていたのに。
――やはりコトトキさまだったからか? 信仰ゆえにナトギさまが助けてくださったのか。
ユミュールをはじめとするコトトキたちは、島の男に混ざって漁に出ることが時々あった。島の暮らしになじんだ方が、信仰を説いても受け入れられやすいと考えたらしい。とはいえ、その意気は買うものの、高波に酔っては船底で寝転がるだけの彼らのことを、男たちは苦笑して眺めるだけだったのだが。
だが、こうなると話は変わる。海に慣れた男たちではなく、生き残ったのは霊力高く信仰篤いユミュールだった。長年の経験を覆すほどの加護を、精霊がもたらしてくれるのだとしたら……?
数か月後、島に戻ったユミュールは、ワノトギになっていた。先ぶれとして遣わされたナトギさまの、姿を見ることは島の者たちにはできなかったけれど、穏やかな波と風、網を満たした魚の重さでその恵みを実感することができた。
死霊に憑かれた者で、試練を乗り越えてワノトギになれる者はごくわずか。コトトキたちの中にも実際に会ったことのある者はいなかった。人よりももう神霊に近い、そんな存在の来訪に島中が沸き立つ中、ユミュールはまっすぐにテフェリのもとを訪れたのだ。
『ドゥヴァンは、ずっと私に憑いている。元通りの声や身体ではないが――少しの間なら、言葉を交わすこともできる』
夫を亡くした悲しみに浸る彼女にとって、それはあまりにも甘美な誘惑だった。夢見る心地で、震える手でテフェリはユミュールの差し出した手を取って。そして同時に、島は神霊への信仰を中心にして生き始めたのだ。
回想から戻っても、海は変わらず穏やかだった。単に季節柄ということなのか、ナトギさまがまだ鎮めてくれているのか、テフェリには分からなかったけれど。とにかく、ユミュールというワノトギとの結びつきはこの島になくてはならないもので、トギが人であった時の妻というテフェリとの関係は何をおいても利用すべきものなのだろう。
――私は……ドゥヴァンとまた会える……なら、良いのかしら……?
夫に心を残しながら妻になるのは、ユミュールに対する裏切りではないだろうか。彼の霊と共に過ごすためとはいえ、ユミュールの手を取るのはドゥヴァンに対する裏切りではないだろうか。
答えが分からないまま、テフェリの目は海を浜辺をさまよい――ふと、砂の合間に光るものを見つけた。
何が流れ着いたのだろうか、と思う。船の残骸が打ち寄せられたように、この浜には潮の流れの関係で様々なものがたどり着く。時に何年も前に帰らなかった男たちの遺品さえも。夫を亡くした女たちがよくここをうろつくのは、せめて思い出の品なりと得られないかとの希望に縋っているからだ。
すでに日は高く中天にかかり、これだけ仕事を離れてしまった後では、テフェリは冷たい目で迎えられてしまうかも。何か、拾うことができたなら多少は気まずさも薄れるだろうか。
そんな、軽い気持ちでテフェリはかがみ込むと砂をかき分けた。と、覗いたのは短剣の鞘のようだった。光ったのは、装飾に嵌められた石。金具は錆びてとうにぼろぼろになっていた。だから往時の姿は見る影もない――でも、石の色と形を見て心臓が跳ねる。それは彼女も良く知るものだったから。
鼓動が早くなるのを感じながら、さらに砂を掘る。短剣がついに全体の姿を現した時、テフェリの唇からは吐息が、目からは涙がこぼれた。
「ああ……」
それは、夫が携えていたものに違いなかった。彼の肉体はとうとう帰らなかったけど、今になって彼が最期まで身につけていたはずのものが妻のもとへと帰ったのだ。これは、何の予兆なのだろう。
呼び名を見つけることができない感情に駆られて、震える手で短剣を掴む。――否、掴もうとした瞬間。短剣から白い靄が立ち上りテフェリへと襲い掛かった。
「なに……!?」
靄は蛇のように彼女の腕に絡みつき、締め付ける。振り払おうとしても離れず、引き剥がそうとしても触れることができない。
「痛……っ」
触れることのできない靄のくせに。それは彼女にしっかりと喰らいついて肉の痛みを感じさせる。見えない獣が爪を立てたかのように、無数の蚯蚓腫れが赤く盛り上がっていく。かつてユミュールの四肢に現れたのと同じ、死霊憑きの兆候だった。
「ドゥヴァン! ドゥヴァンなの!?」
彼の短剣から現れた靄に、テフェリは必死に呼びかけた。そんなはずはない、これはおかしい、と軋む心に逆らって。
だってドゥヴァンはトギになったのだ。神霊の試練を越えて、その力の欠片を宿して島を潤してくれている。誰もが慕い感謝するトギとして、ユミュールに憑いているのが彼のはず。この白い靄――これが、死霊なのだろうか。でも、たとえそうだとしても、彼がテフェリに憑りつくなんて。
「痛い……!」
違う、と。心の中で叫ぶと、蚯蚓腫れがのたうってテフェリを苦しめた。それはすでに腕だけでなく足にも及んでいる。まるで彼女の言葉を咎めでもするかのようにずきずきと痛んで赤い筋が延びていく。この、何かを訴えるかのような疼きは――
「ドゥヴァン……」
夫の名を呼ぶと、不思議と痛みがわずかに和らいだ。そうだ、俺だとでも言うように。それでも全身を襲う痛みは耐えがたく、錆びた短剣を抱えて蹲る。と、目の前が黒く染まる。靄が視界をも覆ったような、と思えたその色は、荒れ狂う海の色だった。
黒い雲に閉ざされた暗い空に雷が光る。降り注ぐ雨粒は礫のように彼の身体を打ち据えていた。船は波と風に翻弄されて視界は絶え間なく揺れる。風を孕んだ帆は空高く舞い上がり、綱を掴んで帆を降ろそうとしていた者と一緒に波の間へ消えていった。
ついに甲板にも海水が満ちて船のあちこちから木材がへし折れる音がする。海に投げ出される男たち。暗い水に押しつぶされた仲間の死に顔が白く浮かぶ。海の中では涙も見えない。そして彼もすぐに息絶えた。
死んだ者のうちの幾らかは、妻や子への未練のために死霊となった。この思いを伝えたい――その一念だけに囚われた死霊は、一心に唯一の生者――高い霊力を持ち、懐いたナトギによって水面へと持ち上げられていたユミュールを目指した。死霊の靄が幾つも、争うようにユミュールへと殺到し、中でも最も素早かったひとつが勝った。彼は――ドゥヴァンは、跳ね飛ばされて。波間を漂って。ずっと。今日まで。
「ああ……」
痛みのためではなく、テフェリは涙を流していた。やっと夫を迎えることができた嬉しさ。それを上回る、彼の死を見てしまった悲しみ。でも、それは彼女への想いのためだった。今も、テフェリを苦しめるためというよりは愛しさゆえに駆け寄ったようなものなのだ。
――なぜ……?
と、嵐のように荒れ狂う胸を、鋭い恐怖が刺す。ドゥヴァンはここにいる。この短剣も、この記憶も、死霊となってなお残った妻への愛も、間違いようもなく彼のものだ。
ならば、彼女はなぜユミュールに――彼のトギに身を任せたのだろう。夫はずっと海に漂っていた。霊力の高い彼が、自身に憑いた霊の正体を見誤るものなのだろうか。
彼に、聞かなければならない。問い詰めなければならない。痛む四肢を引きずって、テフェリは集落への道をたどり始めた。
「テフェリ……?」
島長の屋敷の前で何やら有力者たちと話し合っていたユミュールは、テフェリの姿に気づくなり眉を寄せた。彼女はいったいどのような顔色をしていたのだろう。
「お話があります。ふたりきりでなければならないの。来ていただけますか……?」
「今は大事な話をしているところだ――」
痛みを堪えて無理に笑顔を作ったテフェリに島長は顔を顰めたが、周りの者に何事か囁かれると一転して笑みを作った。
「いや、お前ならば良いか。行ってきなさい」
「ありがとうございます」
結婚の話を承諾したとでも思ったのだろう。今朝がたそんな話をしたのも、もう遠いことのようだった。
「ユミュールさま、こちらへ」
「あ、ああ」
不審そうに眉を寄せたままのユミュールを連れて、テフェリは海辺へと戻った。先ほどの浜辺では人が来るかもしれないから、もっと崖の険しい方へ。こちらならば、貝を拾いに子供が来るようなこともない。
「……話とは?」
島長とは違って、ユミュールは結婚の承諾などとは思っていないらしい。それもまた、彼の嘘を裏付けるようだった。胸を刺す痛みが強くなるのを感じながら、テフェリは問いには答えず無言で服の袖をまくった。
「それは――!」
「浜辺でこの短剣を見つけて、触れたら死霊に憑かれました。足にも広がっています」
かつてユミュール自身をも侵した蚯蚓腫れ。その意味は、ワノトギには一目で知れたらしい。怪訝そうだった表情が一瞬で緊迫したものに変わり、大股でテフェリに迫ってくる。
「祓わなくては。すぐに、神殿へ――」
引きずってでも、と言うのか。伸ばされた腕を、でも、テフェリは払いのけた。
「これは、ドゥヴァンの霊です」
そして、ユミュールの顔がさっと青ざめるのを見て、すべてを悟る。
「知って、いたのですね……」
そうだろうとは思っていた。霊力のないテフェリにさえ、夫の最期の記憶ははっきりと見えたのだ。ユミュールならば、なおのこと。憑いた者の想いを我がことのように読み取っただろう。
「あなたのトギは、本当は誰の霊なのですか?」
「……ディーガルだ」
夫と共に海に消えた男の名を聞いて、テフェリは悲しみに目を閉じた。ディーガルの妻も子も、彼女は良く知っている。テフェリが授かった、夫の霊とのひと時――それは、本来は彼女たちが味わうべきものだったのだ。
「か、彼は何も知らない……! トギは普段は眠ったようになっているから。あなたに、あ……ああしたのはすべて私だ……!」
「そんなことは言っていません!」
夜のことを仄めかされて、羞恥と、そして怒りによって、テフェリの頬が赤く染まる。
「どうしてそんな嘘を吐いたのですか!? どうして本当のことを言わなかったのです!? 死んだと思ったドゥヴァンに会えたと思ったのに、今、彼の霊に遭って……私は――っ」
「愛していたから!」
涙に声を詰まらせたところに、ユミュールが叫んだ。
「ずっと、見ていた。漁の見送りも出迎えるのも、水を汲む姿、洗いものをするところ、ドゥヴァンに微笑みかけるところ――ずっと見て、触れたかった」
「……何を……」
「夫ある女性に言い寄る隙があるとは思っていなかった。だが、あの時目覚めて、死霊に憑かれたと気づいて、そしてあなたの姿を見て。……使えると、思ってしまった」
ユミュールの目を、テフェリが感じたことはなかった。だが、今うわ言のように語る彼の目は熱く昏く、このような目をずっと向けられていたのかと思うと寒気さえ覚えた。
「あなたが私に縋って泣いた。抱きしめて慰めることができた。その、一瞬だけで良いと思ったのに……」
言葉の続きは聞くまでもなかった。死霊が祓われて終わりだと思ったのに、ユミュールはワノトギになってしまった。ドゥヴァンだと嘘を吐いたディーガルの霊もトギになって、この世に留まってしまった。……だから、ユミュールは嘘を吐き続けるしかなかった。
「みんな、あなただったのね……!?」
ドゥヴァンだと偽って彼女を抱いて、愛を囁いたのは。無言でうなずいたユミュールの姿が、溢れる涙によって歪む。
――どうして、気づかなかったの……!?
全身を苛む蚯蚓腫れが、身体以上に心を締め付けているようだった。ユミュールの嘘に騙されて、夫を裏切った彼女への罰のようだった。
信じてしまったのは――神霊に認められたワノトギが嘘など吐くはずがないと思ったからだろうか。テフェリを見続けたていたというユミュールが、彼の口調をよく真似ていたからだろうか。いや、違う。どんな姿になってもドゥヴァンに会いたかったからだ。だから、甘い言葉に縋ってしまったのだ。
「……どう責められても当然だと思っている。だが、今は時間がない。早く――」
「触らないで!」
心は夫のものだと思えばこそ肌を許してしまったのだ。すべてが嘘だと分かった今、ユミュールの手は忌まわしく汚らわしいものでしかない。
涙の滲んだ目で睨みつけると、ユミュールは明らかに怯んだ様子を見せた――が、すぐに気を取り直してまたテフェリに近寄ろうとしてくる。
「そのままでは死ぬぞ! 神殿に行こう!」
「嫌! ドゥヴァンを祓わせたりしないわ!」
「……あなたもワノトギになれるかもしれない。トギとワノトギとしてなら、ずっと一緒にいられる……」
「やめて! あなたの言うことは聞きたくない!」
激しく首を振ったテフェリの足元で、小石が音を立てて海面へと吸い込まれていった。ユミュールの手を避けるうちに、彼女は断崖の淵に近づいていたのだ。
「ワノトギになれるのはごくわずかなのでしょう? 百人にひとり? それとも千人にひとりかしら。そんな賭けに乗ることはできない!」
「それでもずっとそのままでいることはできない。たとえ神殿に行かなくても――あなたが死ねば、彼は悪霊になってしまう。そうすれば、どの道私が消滅させなくてはならなくなる」
一度人を憑り殺した死霊は、悪霊に変じるという。それは、死霊よりもさらに恐ろしくおぞましいもの。好んで人を襲い、憑りつかれた者は神霊でさえも助けることができず死を待つしかないという。今はテフェリに憑いているドゥヴァンも、彼女が死んだ後は人を襲うようになってしまうのだろうか。
そして、ワノトギは唯一悪霊を消滅させる力がある存在だ。民のために力を使うためにこそ、神霊は欠片を授けるのだとか。多分ユミュールはワノトギの務めとして言ったのだろう。少なくとも、島のために彼が尽力してくれたのは事実なのだから。でも、テフェリの耳にはそれは脅しに聞こえた。ドゥヴァンを悪霊にさせたくなければ言うことを聞け、と。
「そんなこと、させないわ……!」
ドゥヴァンに人を殺めさせたくはない。そして、彼が消滅させられるのも嫌だった。
踵が宙に浮いてしまうほどの、崖のぎりぎりの淵に立って、テフェリは錆ついた短剣を抜き――首筋に突き付けた。もちろん刃もすっかり鈍っているが、先端は女の皮膚を抉る程度の鋭さを残している。
「――やめろ! あなたが死んでも何にもならない。死霊が増えるだけだ!」
「それで、良いの」
四肢を襲う痛みも忘れて、テフェリは穏やかに笑った。ユミュールが顔色を変えて悲鳴のような声を上げているのが楽しかった。それに、この期に及んでは痛みもドゥヴァンの抱擁のように思えたから。
「ドゥヴァンは見つかることも人に憑くこともなく三年も海をさまよっていたのよ。ましてここから落ちれば死体が見つかることもない。彼と一緒に私も悪霊になるので良いわ。ずっと彼と離れないで――共に、海に漂うの」
「やめろ!」
ユミュールの声はテフェリの手に力を込めさせただけだった。
短剣で喉を貫くと錆びた刃が肌を裂く感触が手に伝わった。溢れた血が喉を塞ぎ口から噴き出す。仰のいて倒れると、目に映るのは青空――そこに血の赤がよく映える。
つま先が崖を離れる。ふわりと宙に浮くような気がしたのも一瞬のこと。血をまき散らしながらテフェリは堕ちて。
すぐに水の音が高く響いた。
空の青は水底の蒼に取って代わられる。さらに視界を覆うのは黒い靄。悪霊になりつつあるドゥヴァンが、彼女を包み込んでいる。満ち足りた幸せを感じながら、テフェリは微笑んで目を閉じた。
本作品はファンタジー小説のアンソロジー企画「マスカダイン・クロニクルズ」の参加作品です。
企画HPには他の参加者様の作品も掲載されていますので、よろしければご覧ください。