【BL】ハニートラップ【夏のホラー2016】
※ボーイズラブです。
※18禁版は、ムーンライトノベルズに掲載しています。
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「それは、ハニートラップということでしょうか?」
感情を押し殺して翼は問いかけた。反論は決して許されない。一瞬の間の後、嘲笑のにじみ出た声が向こうから聞こえる。
『そう考えてもらって結構だ。お前なら、できるだろう? 1ヶ月以内に機密情報を盗み出せ』
「マルタイの情報を教えてください」
『マルタイは裏野ハイツに住んでいるという以外の情報はない。お前は人を惹きつける綺麗な顔をしているから、向うから近づいてくるだろう。健闘を祈る』
一方的に言いたいことを告げると、プツリと容赦なく通信が切れた。
対象者が誰かも知らずに、どうやって機密情報を盗み出せというのだろう? その機密情報についても、どんな種類のものか全く情報がない。
――砂漠で針を探すようなものだ。
翼は、憤りを逃すために奥歯をギリギリと噛みしめた。
□■□
裏野ハイツは、築30年の木造の2階建てのハイツで1階3戸の計6戸。間取りはリビング9畳、洋室6畳の1LDKで、さらに最寄り駅まで徒歩7分という好立地な割には家賃4.9万円と破格だ。何か訳アリ物件なのだろうか?
ちょうど一部屋空きがあるということだったので、早速、入居の手続きをとった。
どの部屋も表札は出ていない。
まずは、入居の挨拶ということで全ての部屋を回って住人の情報を集めることにする。期間は1ヶ月と限られている。対象者が誰かを早急に特定しなければならない。
翼は、101号室の呼び鈴を鳴らした。
「203号室に引っ越してきました横田です。これ、つまらないものですけどどうぞ」
「いや、悪いね。ありがとう。君は学生さん?」
「はい、近くのT大の法学部1年生です」
「あ、じゃあ後輩だ。といっても、僕は経済学部だけど」
男はニコニコと愛想良く会話を続けた。
101号室の住人は、おそらく50代。帰宅したばかりのようで、背広にネクタイという格好のままだ。背広には大手の生命保険会社の社章がつけられている。玄関わきの棚にもその社名の入った茶封筒がおいてあることからして、そこの社員であることは間違いないだろう。初対面の相手に対する会話の慣れ、そつのない人当たりの良さからいって営業っぽい。
――この男が対象者だろうか? 生命保険会社の営業の機密情報とはどんなものだろうか?
玄関には、女物の靴はなく、部屋の中にもそれらしき物はない。
あの会社で営業で50代ならば、そうとうな金額の給料をもらっているはずだ。こんなハイツで暮らしているということは、離婚して住まいを妻と子供に明け渡し、慰謝料や養育費を支払いながら生活している可能性が高い。
「田舎からでてきたばかりで、このあたりの事を知らないのです。色々と教えてください」
男女問わずどんな人をも落とすと揶揄される笑顔を顔に張り付け意味深に囁くと、男はごくりと唾を飲み込んだ。
□■□
102号室は、人のいる気配はあるもののカーテンは常にしまっている。
他の住人も姿を見たことがないらしく、何度も訪問しているが反応はなかった。
103号室は、30代夫婦と3歳くらいの男の子のファミリーだった。
休日には家族で公園にいるのをみかける。
妻はいつも穏やかな微笑を浮かべ、夫も優しそうで、どこにでもいそうな平凡な家族だった。
妻は、乳飲料の配達のパートをしていて、夫は製薬会社で研究開発の仕事をしているらしい。
開拓ではなく創薬部門ということだから、出口の製品となる新薬に近い。
製薬企業は、ハイリスクハイリターンで、莫大な研究費をかけて開発するが製品となる新薬はほんの僅か1つか2つだ。
しかし、そのほんの一握りの新薬が莫大な利益をもたらす。そう言った意味ではこの夫の情報は、最重要の機密情報と成り得る。
対象者の可能性が高いのは、この夫かもしれない。
201号室は、70代の気さくな面倒見の良いお婆さんで、ここに住み始めてもう20年は経つらしい。
他の住人の情報も詳しく、101号室の男や103号室の夫婦の勤め先、102号室の謎の住人(無職の40代の男らしいが)の情報はこのお婆さんから得ることができた。
ただ、隣接する202号室については、お婆さんの歯切れが悪く謎のままだった。
翼は、101号室の保険会社の会社員と103号室の夫に的を絞り、諜報活動を開始することにした。
101号室の男は、決まって21時ごろに帰宅する。
自炊はしないらしく、毎日、コンビニで弁当と缶ビールを購入している。
翼は、コンビニで待ち伏せをし、偶然を装って会話をするようになった。それは、何度目かの会話の時だった。
「カレーを作り過ぎたのですけど、消費するのを手伝ってくれませんか?」
翼の誘いに、男は容易く引っ掛かり、その晩、二人は一線を越えた。
怪しい光を瞳に宿し、男は呟く。
「君は僕のものだ。僕だけの」
男の狂気じみた言葉に、肌が粟立つ。
□■□
「棒倒しって言ってね、棒を倒さないように山を崩すんだよ?」
平日の夕方の公園。3歳児相手に遊び方のレクチャーをする。
妻子持ちの男に対しては、外堀から埋めるのがセオリーだ。
103号室の男に対しては、まずは子供と妻から攻略することにする。
翼は、その時まで、その辺に吐いて捨てるほどある、ごくごく普通の家族だと思い込んでいた。
一緒に過ごすうちに、すぐに違和感を感じ始めた。
妻は、初対面の印象通り穏やかな人だ。
夫も、優しい。
なのに、この違和感はなんだ?
まるで、与えられたシナリオをそつなくこなしているような、虚構を演じているような印象はどこからくるのだろう?
何日もかかってようやくわかった。
子供だ。
この子供が、不自然なのだ。
表層を装っているだけで、子供ならではの感情が全くない。
虐待児童に特有の、感情が何かの原因で抑制されているものとは全く違う。
ないのだ。
もともと存在しないのだ。
そう言ったプログラムが最初からなされていないような……。
子供の感情のない目がチラリと、こちらを探る。
3歳児の目ではない。
まるで、訓練された傭兵のような隙のない目。
善良な夫婦の子供は、こんな目でみない。
――このミッション、本当にいつもの諜報活動と同じなのか? 何かがおかしい。
翼は、言い様のない不安に背筋を震わせた。
□■□
頭が痛く、吐き気がおさまらない。
早く、ミッションを終えて、ゆっくりと休みたい。
翼は重い体を引きずるように、紙袋に入れたリンゴを持って103号室に向かった。
チラリと横目で見ながら隣りの202号室を通り過ぎる。
人の気配はするが、住んでいるのかいないのか、謎のままだ。
翼は、無理矢理、最高の笑顔を作って、103号室のチャイムを鳴らした。
「これ、実家から送られて来たので、おすそ分けっ!」
もちろん、本当はスーパーで購入したものだ。
ターゲットを103号室の夫に絞ることにした。
結局、101号室の保険会社の男は大した情報を持っておらず、対象者から除外した。
男からは、執拗にセックスの誘いがあるが、のらりくらりとはぐらかす。
対象者だから寝た。対象者から外れれば、セックスする必要はない。
冷たい態度をとり続ければ、そのうち諦めるだろう。
「あら、立派なリンゴ! パパも、まあくんもリンゴが大好きだから嬉しいわ。翼くん有り難う!」
「あれ? パパはまだ会社?」
優しい笑顔を浮かべながらお礼を言う妻に、用意していた言葉を投げかける。
まだ、帰宅していないのを知っていて敢えて、この時間を選んだ。
「うん、明日、朝イチで本社に出張らしいのだけど、その報告書がまとまらないらしくて。でも、もう帰ってくるって連絡あったわ。あとは、家で仕上げるって」
「そうなんだ。家の方が落ち着いてできるかもしれないね。朝早いの?」
「うん、六時台の新幹線らしいわ」
「うへー、それは大変だ。じゃあ、このリンゴでパパを労わってあげて。おやすみなさい」
明日、本社で上層部も交えた開発状況の進捗報告会があるのは調査済みだった。
この夫の出発時間を知りたくて探りに来たのだ。
会話も妻の表情も、空々しくて上滑りな気がするのは、自分のやましい気持ちのせいに違いない。
とにかく、必要な情報は手に入れることが出来た。
玄関の扉を閉めようとした時だった。
ナニモ カンガエルナ
「えっ?」
不意に聞こえた言葉に顔をあげると、部屋の中の子供と目が合った。
感情のない目で見つめられながら、パタンとドアは閉まった。
――なんだ、今の? 空耳? あの子の声じゃなかったような……。
翼は震える指先をぎゅっと握りしめた。
翌日、夫が家を出るのを確認して、後をつけた。
実は知られていないが、産業スパイに機密情報を狙われるのは、新幹線が圧倒的に多い。
指定席、しかもグリーン車に乗っていると、すっかり安心して無防備になる。
驚くことに、平気で網棚にパソコンの入ったカバン、さらには座席のテーブルにパソコンを放置したままトイレに行く人が後を絶たない。
リンゴに仕込んだ下剤が効いたのか、夫は、トイレから戻って来なかった。
その隙に、素早くパソコンを立ち上げてロックを外すと、中身をコピーした。
元通りに戻したため、情報を盗み取られたことには気付かないはずだ。
席に戻って確認すると、機密情報には違いないが、機密レベルは低い。
予想していたことだが、30代の若手では、役職的にも、最高ランクの機密情報に接触できないようで103号室の住人も対象者ではないという結論に至った。
1週間が無駄に過ぎてしまった。
残るは、102号室の無職の男、201号室のお婆さん、謎の部屋の202号室だけだ。
今度は、102号室の男をターゲットにする。
カーテンは常にしまっていて、部屋の外から様子をうかがい知ることは出来ない。
部屋にいるはずなのに、チャイムを押しても、出てくることはない。
「おばあちゃん、102号室の人、知ってる? 全然挨拶できなくて」
「私も、全然姿を見たことないねぇ。彼は、確か……そう、7年前から住み始めているけど、ずっと、部屋にいるわねぇ。そう言えば、毎年、年末の2日間だけは出掛けているみたいだけど……」
「へえ、実家にでも帰るのかな?」
「どうだろうね」
「そう言えば、おばあちゃんの家族は? 息子さんか娘さんは?」
お婆さんは、ぎょっとしたように翼の顔を見上げると、誤魔化すように会話を切り上げた。
「今は、離れちゃってね、なかなか会えないのよ。さあ、これから買い物に行こうかしらね」
お婆さんが、さりげなく、ちゃぶ台の上のものをエプロンのポケットに入れるのに気付いていた。
どうやら、写真のようだ。それも、古くてボロボロの。
このお婆さんも、何か事情があるのだろうか?
それにしても、今は102号室の男だ。
生計はどうやって立てているのだろう?
7年間、ほとんど家を出ない暮らしとはどんなものだろうか。
――こうなれば根競べだ。絶対に、外出の瞬間を狙ってやる。
24時間不眠不休で見張り続け、3日目の早朝、やっと102号室のドアの開く音を耳にした。
慌てて、後を追いかける。引きこもりの生活を続けている無職の男だ。
さぞかし、見苦しい外見に違いないという予想に反し、男は、すらりとした長身に、こざっぱりとした外見をしていた。
「あの……」
背後から声を掛けて、その顔をみた瞬間、体を電流が走るのがわかった。
――知ってる。俺は、この人を知っている。
体の奥底から込み上げてくる激しい感情に、体が震える。
初対面のはずのこの男に対して、何故か気持ちが掻き乱される。
「何? お前誰?」
男は、ジロジロと不躾な視線を投げかけてきた。
翼は理解しがたい感情に翻弄され、混乱していた。
「俺の事、知ってますか?」
知り合いのはずはない。
初対面だとわかっている。
こんな質問は、意味がない。
今までに感じたことがないほどの狂おしい感情が何かを知りたくて、つい問いかけてしまっていた。
「は?」
男は馬鹿にするように唇の端をあげて皮肉気な表情を作った。
当たり前の反応だ。突然、見ず知らずの人間にこんなことを言われたら、自分だってこんな態度をとってしまうだろう。
慌てて、言い訳するように言葉を継ぎたす。
「あの、俺、裏野ハイツの住人です。203号室に引っ越してきて……。102号室に住んでいますよね? ずっと挨拶にうかがっていたのですけど、留守で」
ずっと、居留守をつかわれていたとは、さすがに面と向かって言えなかった。
もっと、この男と話をしたい。この男の事を知りたい。
「今度、部屋に遊びに行ってもいいですか?」
焦る気持ちから無意識に口をついて出る。
その言葉に、自分でもひどく驚く。
――うわ、俺、初対面でこんなことを言って、ナンパじゃないんだから。不審者丸出し……最悪。
自己嫌悪に俯く。とてもじゃないけど、顔をあげられない。
叱られた子供のようにじっと足先を見つめていると、くしゃりと頭を撫でる感触とともに声が降りそそいだ。
「俺の気が向いたらな」
その言葉に慌てて顔をあげた時には、男は踵を返した後だった。
――手の感触が残っている。すごく大きい手だ。
ドクドクと高鳴る鼓動に息苦しさを感じる。
こんなにも気持ちが乱れたのは初めてだ。
ベテランの諜報部員の自分にはあり得ない状況だった。
カレハ ジブンノモノダ
「!?」
周りをみまわしても、声の主を見つけることは出来ない。
頭の芯がズキズキと痛み、胃がよじれるように痛む。
ダラダラと脂汗がにじみ出る。
翼は、トイレに駆け込むと胃液を吐き出した。
□■□
102号室の男は、境と名乗った。
部屋を訪ねても、相変わらず居留守を使われたが、2日に1回は早朝にコンビニにいくことがわかった。
そのたびに、追いかけて言葉を交わした。
一言、二言だけだった会話が、立ち話になり、翼の部屋に招き入れたのが切っ掛けで、朝食をともにとるようになった。
「どうして、普段は居留守を使うの?」
「別に、居留守じゃねぇよ。気付かないだけだ」
「気付かないって、どれだけ集中してるんだよっ。俺は、朝だけでなくて、もっと一緒にいたいのに……いやいや、それは深い意味じゃなくて、年上の頼れるお兄さんとして、好きなだけで、えっと、あ、好きってそんな意味の好きじゃなくて……」
思わず漏れ出た本心を誤魔化すつもりで重ねた言葉が、ますます墓穴を掘る結果となる。
言ってることが滅茶苦茶だ。
頭が真っ白になって、訳が分からなくなる。
「へぇ、もっと一緒にいたいんだ」
ニヤニヤと笑われて、顔が熱くなる。
――別に他意はない。情報を探るためだ。チャンスを得るため、ただ、それだけ。
心の中で、必死に呟く。
今まで、色恋に溺れることなく、冷静に体を張って諜報活動を行ってきた。
男女問わず、必要ならどんな相手ともセックスした。
かなりの経験を積んでいるし、相手を満足させる自信もある。
なのにどうして、この男に対してはダメなのだろう。
翻弄されて、気持ちをかき乱されてしまう。
手玉に取るのは、いつだって自分だったはずなのに。
「そんな顔をして、誘ってる?」
「ええっ! ば、ばーか、誘ってなんか……っ…ん…っ……」
反論の言葉を、唇で無理矢理封じ込められる。
触れ合うだけの子供だましのキスなのに、どうしてこんなにも……涙が出てしまうほど嬉しいのだろう。
彼に触れられるだけで、体が喜びに打ち震える。
不意に、男の体が離れた。
逃すまいとしがみ付いた手を、優しく振りほどかれる。
「もう、行かねぇと」
「俺も、一緒に境さんの部屋に行っていい? 邪魔しないで大人しくするから。絶対話しかけないから」
「ダメだ。他人がいると集中できないから」
「お願い。気配を消すから……」
「ダメだ」
「朝の1時間だけしか会えないなんて酷いよ。もっと、一緒にいたいのに」
涙が、勝手にボロボロと溢れ出てくる。
悲しい。
寂しい。
もっと、一緒にいたい。
何でもするから、一緒にいたい。
ただ、それだけでいい。
それ以上、何も望まないから。
――ミッションは関係なしに、ただ、一緒にいたい。一緒にいれるだけで幸せだから。
境は立ち上がると、振り向きもせずに玄関に向かった。
「俺だって、もっと一緒にいたい。けど、無理だ。1時間だけしかとどまれない……」
翼は、その声が微かに震えていたことに気付いた。
聞いたこともないような、胸が掻き毟られるような悲痛な声。
玄関のドアが閉まる音がしたあと、すぐだった。
オマエハ ダレニモ ワタサナイ
また、あの声だった。
境が出て行って、部屋には自分だけだ。
「なんだよ? 誰だよ? もう、やめてくれよっ!」
頭が割れるように痛い。
尋常じゃない痛みに、プツリと翼の意識は遠のいた。
□■□
気がついたら、夕方だった。
頭痛は、すっかり治っていた。
散歩を兼ねて、明日の朝食の買い出しに行こうと玄関を出た時だった。
「何、これ??」
翼の部屋の前には汚物がぶち撒けられていた。
そのままにしておくことは出来ず、黙々と片づける。
一体、誰が、何の目的でやったのだろう?
翼には、いくら考えても、思い当たる節はなかった。
片付けが済むと、境の意見を聞いてみようと思い立ち、102号室に向かった。
「境さん? 俺、翼だよ? いるんでしょ? 出てきてよ?」
部屋から返事はない。
「境さん? 翼だよ? なんで? なんで、出てきてくれないんだよっ?」
部屋の電気はついていて、人の気配はするのに、やっぱり境は出てこなかった。
涙が溢れ出てくる。
――なんで? こんな時くらい、話を聞いてくれてもいいのに……やっぱり、俺の事なんてどうでもいいんだ。
そう思うと、より一層悲しくて、涙が止まらなかった。
世界中のあらゆるものから見放され、自分の存在を否定されたような気持ちになる。
「翼くん? どうしたの?」
101号室から、保険会社の男が顔を出した。
「あっ」
急に我にかえる。
興奮して、みっともない真似をしてしまった。
ベテラン諜報部員らしからぬ、失態だ。
翼は、泣き顔を見られないように背中を向けると、ろくに返事もせずに逃げるように自分の部屋に戻った。
□■□
次の日の朝、何事もなかったかのように境は、やってきた。
いつものように、二人で朝食をとる。
ちょうど1時間、翼の部屋にいた後、自分の部屋に戻っていった。
翼は、もう、一緒にいたいとはせがまなかった。
汚物がぶち撒けられていたことも、話さなかった。
人を頼らず、自分で解決すべき問題だから。
翼は、すっかり目が覚めた。
信じられないことに、この自分が色ボケをしていた。
境に、すっかり骨抜きにされていた。
いつの間に、こんなダメ人間になってしまったのだろう。
情けない。
翼がやらなければならないことは、ミッションを成功させることだ。
対象者は、境だと考えて間違いない。
謎めいた男だ。
部屋から出ない引きこもりの生活をしている割には、鍛えあげられた体をしている。
――どんな手段を使っても、境の持つ、機密情報を盗み出す。
翼は、決意を固めた。
□■□
その後も、翼に対する嫌がらせは続いた。
次第に、悪質なものにエスカレートしていった。
「ギャー」
悲鳴に、慌てて外に出ると廊下には、口にするのも悲惨な状態のネコの死骸が置いてあった。
これは、もはや嫌がらせのレベルではなかった。
犯罪だ。
――こんなことが平気でできるなんて、まとまな人間ではない。
次は、お前をこのようにしてやるという脅しなのだろう。
そのうち、気が済んでやめるだろうと放っておいたのが、間違いだったのだろうか。
本格的に犯人捜しを始める必要があるのかもしれない。
決心もむなしく、次の日に事件は起こった。
階段の手摺りが細工されていて、201号室のお婆さんが転落したのだ。
「おばあちゃん、ごめんなさい。俺のせいで……」
関係ない人を巻き込んでしまった。
悔しさが込み上がる。
ちゃんと犯人を捜していれば、こんなことにはならなかった。
――卑怯者。狙うなら、俺だけを狙えよ……
幸いなことに、お婆さんは、命には別状がなく、尾てい骨にヒビが入っただけだった。
とはいっても、しばらく入院が必要だ。
頼まれて、入院に必要な荷物を部屋に取りに戻る。
預かった鍵で、部屋の中に入り、パジャマや、コップなど、収納場所が書かれたメモを見ながら用意をする。
そのとき、棚の上に古い写真があるのに気付いた。
この前の、翼の目から隠すようにポケットに忍ばせた写真だ。
何気なく、手に取る。
「えっ?」
驚愕に思考が停止する。
――なんで?
そこに写っていたのは、翼だった。
今の自分と同じ年齢。
翼には、その写真にも着ている服にも覚えがなかった。
そもそも、写真の日付は7年前。
そのころ、翼は小学生だ。
「一体、どういうこと?」
震える手で、他の写真を探す。
――なんで、お婆さんが俺の写真を?
棚の上には、もっと小さな子供の写真があった。
「ええ?」
『翼 3歳』とメモ書きされた写真に写っていたのは、103号室のあの子供だった。
――なんで?
翼が考えをまとめようとした時だった。
ナニモ カンガエルナ ナニモ カンガエルナ ナニモ カンガエルナ
いつもの声だった。
頭が痛い。
むき出しの神経を痛めつけるような凶悪な痛みに、またもや翼は意識を失った。
□■□
「翼くん、大丈夫?」
呼びかける声に、覚醒する。
心配そうにのぞき込んだのは、101号室の保険会社の男だ。
「あれ? 俺どうして?」
頭がぼんやりする。状況がうまく把握できない。
「201号室のお婆さんの部屋で倒れていたんだよ。それで、僕の部屋に運んだんだ」
「ありがとうございます。すみません。迷惑をかけちゃって」
男は、慌てて体を起こしかけた翼を制する。
「まだ、横になっていた方がいいよ。今日は、ここに泊まっていきなさい」
「そんな。もう、大丈夫だから」
「体調だけじゃなくて、君の身が心配だからいってるんだ。あの男は、君を殺そうとしているから」
男の言葉に、思わず眉をしかめる。この人、何を言ってるんだ?
「あの男って?」
「隣の部屋の男だよ。102号室の怪しい引きこもり」
男は、隣の部屋を気にするように、小声になった。
「俺、見ちゃったんだよ。あの男が猫を虐殺しているところ」
「えっ?」
「あいつが、犯人なんだ」
「そんな……境さんは、そんなことをする人じゃ……」
「あいつは、おかしいヤツだよ。ずっと引きこもりで、部屋で何をやってるんだかわかったもんじゃない」
急に口調がきつくなる。
いつもの人の良さそうな表情は潜め、別人のような顔つきだ。
「そう言えば、部屋の前で揉めてたよね。理由は何?」
男の目が狂気をはらんだものに変わる。
「あいつとも、寝たのかって聞いてるんだよっ!」
唾を飛ばしながら、捲し立てる。
「どんな風に、お前を抱いたんだ? 毎朝、毎朝、お前の部屋でやってたことは知ってるんだっ! この淫乱な体を好きにしやがって!」
男は、逃げようと立ち上がりかけた肩を掴み、翼の頬を思いっきり張り飛ばした。その反動で倒れ込んだ体を、今度は、容赦なく蹴りあげる。
「僕のものだ。お前は誰にも渡さないっ!」
涙や鼻水でぐしょぐしょになりながら、呪文のように叫び、翼の体を蹴り続ける。
もう、痛みを感じない。このまま死ぬのかもしれない。
オマエハ ダレニモ ワタサナイ
ああ、この声だ。
いつもの声と重なる。
そうだ、あれは、あの時の声だったんだ。
あの時の声が、記憶に残ったまま、頭の中で鳴り響いていたんだ。
「お前は、誰にも渡さない」
「彼は、お前のもんじゃない。離せ!」
「違う、違う」
「彼は、お前を愛していない。愛しているのは俺だ。俺たちは愛し合ってる」
「違う! 彼は自分のものだ!」
「やめろ! バカなことをするな! ナイフを離せっ! ああっ」
――俺は、あの時、この男に殺されたんだ。大好きな境さんの目の前で。
□■□
「翼?」
そこには、慈しむように見つめる大好きな人の顔。
「境さん?」
「大丈夫か? 全部、思い出したようだな。7年目にして、ようやく成功した」
目の前の顔から、涙が溢れる。
――こんな風に泣く人だったんだ。
初めてみる、境の涙に当惑する。絶対に、泣かない人だと思っていた。
「お前の探していた機密情報をみせるよ。これで、ミッションは終了だ。一緒に、現実の世界に帰ろう」
「え?」
手を引かれて、102号室の境の部屋に連れて行かれた。
部屋には、よくわからない機器がいっぱい並んでいる。
「7年前、お前は、ストーカーのあの男に殺された。幸い、脳は損傷していなかったから」
境は、そこで言葉をきり、翼の前髪をかきあげ、額にキスを落とした。
「俺の研究していたバイオロイドの体にお前の脳を移植した」
そうだ、境は世界でも有数のバイオロイドの研究者だった。
恋人である翼の体をモデルにして、バイオロイドの体を作成していた。
あの日、ついに体が出来上がったって言っていた。
「でも、お前は目覚めなかった。理論上は正常に機能するはずなのに、どうしても目覚めない。お前自身が目覚めるのを拒否してる……そう仮説をたてた俺は、お前の精神世界に入り込み直接、働きかけることにしたんだ」
「え? じゃあ、ここは?」
「ここは、バーチャルな空間。お前の頭の中の世界だ。俺が、お前の世界に同化できるのは1時間が限度。何度、試みても、あいつに殺されてしまってお前を助けることが出来なかった。俺の力が足らず、何回も何回も、あいつに……でも、今回、初めて間に合った。7年目にしてやっと……」
境は翼をぎゅっと抱きしめ、部屋の真ん中にある階段を指さした。
「あそこが、現実世界への帰り道だ」
翼は、目を見開いた。こんな階段があったとは。
「102号室と202号室って、部屋の中で繋がってたんだ。謎の部屋の正体は、出入口だったんだ?」
翼は境の手をぎゅっと握りしめた。
もう、この手を離さない。
あの階段の上には、現実世界がある。
もう、1時間だけじゃない。
これからは、ずっと一緒に過ごすことが出来る。
涙で視界がぼやける。
――この先、この涙を忘れない。俺のために流した境さんの涙も。




