第12話
勇者とお別れの日がやってきました。其の3。
この回で日本編は終了です。
アレクシェイドが、屋上へと続く扉を蹴り開けた。
夕時の涼しい風が、頬を撫でていく。
空の半分は、もう夜空だった。
夕陽のオレンジ色の残光が、西の空の端っこに微かに残っているだけだ。
屋上へ続く扉の鍵は掛かっていなかった。
いや、おそらく掛かっていたはずだが、こいつらのどちらかが魔法で開けたのかもしれない。俺の部屋の鍵も簡単に開けられたしな。お前らの前ではセキュリティなど無力に等しいな。この不法侵入者どもめ。だれか奴等を逮捕してしばらく刑務所で反省させてやって下さい。
宙にふよふよと浮いていた、裸足の白い美少女女神が振り返った。
駆け込んできた俺たちに微笑み、大きく手を振った。黙っていれば、ものすごい美少女で可愛いんだが。滲み出る疲労と苦労性オーラ、そして時々動きが某恐怖映画にでてくる少女っぽくなるのが、ちょっと残念な感じだ。
「勇者様、ハンヤ様! お待ちしておりま────ひきゃわああああ!?」
サラーシャがバランスを崩して地面に尻餅をついた。赤い瞳を見開き、唇を戦慄かせ、震える指先をこちらに向ける。
「未開の辺境の異世界にも、こんな……こんな恐ろしい魔物がいたなんて……!!」
こんな恐ろしい魔物、に間違われてるぞ【勇者】。
「未開で辺境の異世界で悪かったな。こいつはアレクシェイドだ。ただ、ホラーウサギの仮装してるだけだ」
サラーシャが、じっと白ウサギを見つめている。そして頷いた。
「確かに、アレクシェイド様のようですね」
「え! これで分かるのか!?」
「はい。私たちはこれでも女神ですから、どのような姿をされていても人を探すことができるのです」
そうだったのか!
そういえば、あのストーカー女神たちも、この白ウサギがアレクシェイドだって分かったしな。どこへ逃げても仮装しても隠れても無駄ってことか。さすが神様。怖え。
「でも、何故、仮装などされておられるのですか?」
「まあ、いろいろあってな。気にするな」
「はあ」
サラーシャは首をかしげながら、再びふわりと浮き上がった。
「おい。いい加減、俺を下ろせ」
俺は奴の脇腹を何度か殴った。
白ウサギが片腕を放す。俺はやっと地面に足をつけることができた。長かった。しかし。
「なんだ、これ……?」
アパートの屋上には、目一杯に落書き──いや、なんだかよくわからん白く光る文字で埋め尽くされていた。
そして。
中央には、大人を5人は一度に落とせそうな──
丸い落とし穴が空いていた。
穴は、中からほんのり白く発光している。
「おい。こら。人様のアパートの屋上に勝手に落書きした揚げ句、巨大な落とし穴まで作るとは、どういう了見だ。いくら女神でも、していいことと悪いことはあるぞ」
「落書きなんて! ひどいです、ハンヤ様! これは、神聖なる神文字です! 見ても分かる通り、こんなに書くの本当に大変なんですからね! それに、落とし穴なんかじゃありません! これは、神業【異世界渡り・復路】なのです!」
サラーシャが頬を膨らませて憤慨した。
神文字だかなんだかよくわからんが、人様の建物に落書きしたことには変わりないと思うが。どうすんだよ。これ。あとで、誰が消すの? まさか、俺? いやいやいや。俺、関係ないからね。うん。大家が来ても、知らない振りしておこう。そうしよう。
俺は気を取り直すと、腕に抱えた大きな紙袋を、ホラー白ウサギに差し出した。
袋の中には、溢れるほどのパンが詰まっている。
アレクシェイドが今日帰る事を話すと、店長と奥さんが用意してくれたのだ。俺が作ったパンと合わせると、こんなに大きな袋になってしまった。
「やるよ。餞別だ。俺と、パン屋の皆から。ちょっとだけ、減っちまったけどな。でもまあ、これだけありゃあ、1人で食うには十分すぎるだろ?」
白ウサギは、黙って受け取った。
これで、お別れか。
「向こうでも、元気でな。そうそう、もう、人の家に勝手に入るんじゃねえぞ。そのうち捕まるからな。腹出して寝るなよ。いくら異次元胃袋でも、食い過ぎはダメだぞ。今は良くても年取ったら絶対太るからな。それから──俺の作ったパン、美味いって言ってくれて、ありがとな」
白ウサギは、黙って聞いている。
着ぐるみを被っているから、奴が今どういう表情をしているのかさっぱりわからないが。どことなく、白ウサギはしょげた感じをしているように見えた。
「じゃあな。向こうで待ってる、お前の仲間とヒロインによろしくな」
短い間だったが、まあ、そんなに悪い事ばかりでもなかったよ。
誰かとしゃべりながら飯食ったりしたのも、久しぶりだったし。
俺は鼻下を擦った。
「それじゃあな──」
「行かせませんわ……!!」
美女の声が、二重になって屋上に響き渡った。
声をした方を振り返る。屋上の柵を越えて、ネコとハトが飛んでくるのが見えた。着ぐるみの頭が重さで前傾になって、暗い上目遣いに見えるのが怖すぎる。
「ライーラ姉様! フウーラ姉様! どうして、ここに……!?」
サラーシャが身を引き、青い顔で驚愕に震えた。
あの全身を覆う丸っこい着ぐるみ状態で、姉だとわかったのか! すげえな。なにか、女神的に通じる何かで分かったのだろうか。
ネコとハトが、ふわりと屋上に降り立った。
「あら、パシリサラーシャじゃないの。相変わらず、冴えない姿ねえ」
「こんなところにまでパシらされて。可哀想ねえ」
サラーシャは、悔しそうに唇を噛みしめはしたが、言葉を飲み込み、脅えたように一歩下がった。
「姉様たち……どうやって、最下層から……」
「そんなの、簡単ですわ。私たちの、この美しさがあれば」
「ええ。雑作もないことですわ」
「ね、姉様に、言いつけます!」
「まあ! そんなこと、させないわ。あなたも、最下層に連れていってあげる!」
「そうよ! 最下層で、私たちのパシリとして働くといいわ!」
「私、パシリなんかじゃありません! 姉様こそ! 色仕掛けもそろそろ限界なんじゃないですか!?」
「まああ!」
「若いからって、ちやほやされるのも今のうちよ!」
「ええ、そうです! 私はまだ若いです! 羨ましいですか? 姉様たちは、もうちやほやされるのも終わりかけですものね!」
「なんですってえ!?」
どうやら、姉妹喧嘩が始まったようだ。
言い合いはまだ続いている。なかなかどうして、サラーシャの方も負けてはいないようだ。よし、頑張れ。
今のうちだ。
俺は、白ウサギの背中を押した。
「行け、アレクシェイド! よく分からんが、向こうの世界に帰ったら、あいつらはお前を追って行けないんだろ? だったら、姉妹喧嘩してる今のうちに、行け!」
白ウサギが、嫌がるように身をよじった。何やってんだ。いまがチャンスだと言うのに。
「ほら、早く!」
「行かせませんわ、って言っていますのよ!」
「そこのあなた、未開の下賎な異世界人の分際で、アレクシェイド様に触れるなんて……身の程知らずにもほどがありますわ!」
「そうですわ! 許せませんわ! 私たちですら、触れたことなどないというのに!」
え。なんか、いきなり矛先がこっちに向いてきた。
なんでだ。
俺は部外者のはずなのに。
腕を掴まれた。
白ウサギに。
「ハンヤ。行こう。ここに残れば、あいつらに殺される」
殺される?
そんな、バカな。
「何、言ってんだよ! 女神様は見守るのと祝福することだけしかできないんだろ! 離せって!」
「あいつらは、駄目だ」
「駄目もクソもあるか!」
俺は白ウサギの手を振り払った。
……
…………
振り払えなかった!
デンドンデンドンデーン、という、人を絶望の淵に叩き込むような効果音を聞いた。
ような気がした。気のせいだ。きっと。ただの幻聴だろう。そうとう俺は混乱しているようだ。
もぎ離そうと手を引っ張る。動かない。
ぴくりとも動きゃしねえ! どういう握力してんだよ!?
「俺は、行かない!」
「行こう。殺されたいのか」
「殺されたくねえよ! でも、行けねえよ! 行ったら、明日、無断欠勤になるじゃねえか! せっかくの皆勤賞がぱあだ! それに、俺は、ここでパン屋になるんだ! 店長と奥さんみたいに、俺も、俺の店を、いつか開くんだ!」
「向こうで、開けばいい」
「阿呆か! 何、勝手なことを──」
「ひょわあああああ〜」
気の抜ける悲鳴が背後で起こった。なんなんだ。もう。さっきから。俺は今、人生規模で忙しいってのに!
振り返ると、白い美少女女神が、ネコとハトに吹き飛ばされていた。
弱!?
いや、もしかして、このネコとハトが強いのか? ネコとハトのくせに!
くそ、どうしたらいいんだ。
「アレクシェイド様から、離れなさい! 下賎な未開の異界人!」
星空が一瞬にして、黒い雲に覆われた。
アパートの屋上を覆う程度の規模だが。
雲の合間に、稲光が走る。
ネコとハトの周囲を囲むように竜巻が巻き起こり、背後に雷の玉が円形にいくつも浮かんだ。
いつかのテレビで観た古い屏風絵の、風神、雷神みたいな光景だった。こちらは鬼じゃなくて不気味なネコとハトだが。
「ハンヤ様〜 申し訳ございません〜 どうか、お逃げくださいいいい〜……」
白い美少女女神は、俺を心配する言葉を残して星空の彼方へと消えていった。
おい、どこまで飛ばされてんだ。飛ばされ過ぎだろ。星になってるぞ。お前、ちゃんと戻ってこれるのか。
「ハンヤ!」
白ウサギが腕を引く。
白く光る落とし穴は、もう目の前だった。一歩踏み出せば、確実に落ちる。
落ちた先は──
「とにかく! 俺は行かないったら、行かないんだ!」
俺は奴に背を向け、逆方向に足を踏ん張った。
「消えてなくなりなさい!」
美女の声が重なる。
「え、ちょっと! 消えてなくなれって──女神様って、人を見守る事と祝福することしかしないんじゃないの!?」
ネコとハトが、鼻で笑った。
「私たちが見守り、祝福するのは、私たちの世界の人のみ!」
「下賎な辺境の異界の人間のことなど、どうでもいいですわ!」
「どうでもいいって……そんな!」
そういうもんなのか!?
無数の雷の玉が連なり、夜空に浮いたネコとハトの回りを一周する。
そして。
バチバチと音を立てながら、俺に向かって飛んでくるのが見えた。
ヤバい。
あんなものをくらった日には、燃えカスすら残らない気がする。
雷の玉が屋上の手すりを擦める。予想した通り雷の玉の威力は半端なく、アパートの端のコンクリートが大きく抉れて吹き飛んだ。
あいつら、とうとうアパート壊しやがったよ!
大家さん、すみません。
アパートの屋上破損、俺の所為じゃないですから。
文句はこいつらに言って下さい。弁償代もこいつらに請求して下さい。
火花を四方に散らしながら、雷の玉が近づいてきた。
避けるのは、俺の平凡的な身体能力では、どうあっても不可能だ。
分かってる。
死んでしまったら、元も子もない。
夢さえ叶えられなくなる。
──大好きなパンも焼けなくなってしまうことも。
そんなのは、絶対に嫌だ。
ちくしょう。
「ハンヤ!」
アレクシェイドの声が、かなり焦っている。腕を引く力が強くなった。
分かってるさ。
こいつが、なんとかして俺を助けようとしてることくらい。
珍しく焦っているところからみると、俺たちの状況はかなり悪く、ひっ迫しているようだ。
二人まとめて助かる為には、もうあの落とし穴に飛び込んで逃げるしか手がないのかもしれない。
さすがの【勇者】も、神様相手には戦えない。
そうすれば、自分だけじゃなく──
俺も呪われるらしい。
「──くそ、わかったよ! こうなったら仕方がねえ! 死んだら、何もかも終わっちまう。だから、ちょっとだけ、緊急退避だ!」
「よし」
白ウサギが、安堵したように小さく頷いた。
声が少しばかり嬉しそうだったのは気のせいだろうか。この野郎。こっちは苦渋の選択をしたってのに。
俺は白ウサギに腕を引かれるまま、白い落とし穴へ飛び込んだ。
背後で、美女の悲鳴が聞こえた。
店長、奥さん、明日、無断欠勤になるかもしれません。すみません。
緊急事態なんで、許して下さい。
落下していく身体。
どこまで落ちていくのか、全く見当がつかない。
スカイダイビングって、こんな感じなのだろうか。したことねえから分かんねえけど。
とうとう、先を行くアレクシェイドの姿さえ見えなくなるほど、視界が真っ白に埋め尽くされた。
ウサギ穴ならぬ、女神の落とし穴に落ちて。
次回から異世界編の始まりです。




