第11話
勇者とお別れの日がやってきました。其の2。
逃走中。
次の話で日本編は終了です。
「アレクシェイド様。何故、お逃げになるの……?」
「私たちと一緒に、最下層へ参りましょう……?」
切なげな女の声が、背後から迫ってくる。
あんな風に甘く呼びかけられたら、大半の男は舞い上がって、たとえ行き先が地獄のような場所だとしても言う通りについて行ってしまうだろう。
たっぷりの甘さと妖しさを含んだ、背筋が震えるほどの美しい声。
ただ──
その声を発しているモノが、問題だった。
片目がぶら下がってるのにニヤニヤしている気味の悪いネコと、焼鳥屋で食われかけていたような半死のハトだ。
振り返ってあれを見た日には、100年の恋も冷めるだろう。というか、絶対悲鳴をあげて逃げ出す。あんな着ぐるみ好んで着てる美女なんか絶対嫌だ。怖い。しかもちょっとストーカー入ってるし。女神にストーカーされる勇者なんて、聞いた事がない。
夕陽が沈みかける薄暗い住宅街の中。
後ろからじわじわと、ネコとハトが距離を詰めてくる。
車道の上を、低空飛行しながら。
ありえない。なんで飛んでんだ。女神的な力なのだろうか。もう何でも有りだな。なんでもいいけど、早くこのありえない非日常から脱出したい。
辺りには、どこか寂しげで、どこか切ない音楽が流れている。
スピーカーの音がやや割れているのが、若干、薄ら寒さを滲ませているが。夕方になるとよく聞こえれてる、あれだ。下校の音楽。この近くに小学校があるのだ。
曲目はスタンダードに、遠き山に日が落ちて。夕暮れにぴったりの曲。あの曲を聞くと、何故か無性に帰りたくなるよな。
追い立てられるように先頭を脅威のスピードで走っていくのは、虚ろな赤い目をした嘘臭い笑顔の白ウサギ。
不気味としか言いようのないウサギの小脇に抱えられているのは、巻き込まれたらしい可哀想な一般人。
俺だ。
オレンジに染まる静かな住宅街の中を通る大通りは、今日に限っては阿鼻叫喚に包まれていた。
ランドセルを背負った少年少女は恐怖に直立して泣き叫び、会社帰りのお姉さんたちや奥様たちが悲鳴を上げる。可愛らしいチワワを三匹連れたジャージのおっさんも絹を裂くような悲鳴を上げた。頬に両手を当てて。最後のは見なかったことにしよう。
薄暗い夕闇を駆ける、不気味な三体の着ぐるみたち。
なにこれ。
どこのB級ホラー映画の撮影だよ。頼むから俺だけ退場させてくれ。
「おい! アレク、反撃、しない、のか!?」
呼吸も苦しい風圧に耐えながら、なんとか口を開く。
さっきから、住宅街を右へ左へ迂回しながら走っている。その所為で、なかなか、目的地である俺のアパートに辿り着かない。
女神に追いつかれないように走っているのだということは、俺でも分かった。確かに、直線コースなんかで競争した日には、伝説のスプリンター並の脚力をもってる【勇者】でも、すぐに追いつかれてしまうだろう。
なにせ、相手は飛んでいるのだから。しかもちょっと余裕が入っている。絶対に逃がさない自信があるのだ。
こいつが逃げ回るなんて。初めてだ。それも、一方的に追われるまま。
あんなに、在り得ないぐらいの力を持ってる、【勇者】が。
「反撃はできない」
「なん、で!?」
「あんなのでも、神の眷族だ。神と戦えば、神によって様々な天罰──呪いを受ける。この場合、俺だけじゃない。一緒にいる、お前もだ」
呪い。
「……成程」
俺は口を閉じた。
流石に、神様の呪いは受けたくない。
しばらくすると、道の脇に、やっと見慣れたアパートが見えてきた。
俺のアパートだ。
落ちついたチャコールグレーの煉瓦風壁面の、広めのベランダ付き3階建てアパート。なかなかシックな外装で、気に入っている。それに新しいのも良い。家を出て、住む場所を探して不動産屋を回っている時、丁度運良く、新築物件を見つけられたのだ。ラッキーだった。天井も高く、なにより台所が広いのが良い。こんな好物件、他にはそうそう無いだろう。
当分の間はここに腰を落ち着けて、店長たちの元でじっくりパン作りを学んで研究して、開業資金を貯めていくつもりだ。
だったんだが。
なんで、こんなことになってんだ。
白ウサギ──アレクシェイドが、何の前触れもなく地面を蹴った。
「うおあ!?」
突然遅い来る、内臓が浮き上がるような、気持ちの悪い浮遊感。ジェットコースターの急上昇の時に似ている。
遠ざかる路上。
ウサギは軽々と塀に飛び乗ると、更に蹴った。というか、ジャンプした。
俺の住むアパートの三階の通路に向かって。
「わあああ!?」
再び襲い来る気持ちの悪い浮遊感。どういう脚力してんだ。建物の3階に向かって二段ジャンプなんて。もうそれ、人間業じゃない。ウサギでも在り得ない。
驚異的な二段ジャンプに動揺して手の力が緩む。抱えていた大きな紙袋の口が傾いてしまった。俺は慌てて支え直したが、間に合わなかった。
【朝取り卵の淡雪カスタードクリームパン】が2個、こぼれ落ちてしまった。
契約養鶏場から毎朝持ってきてくれる新鮮卵を使用した、当店人気ランキング不動の2位をキープし続ける、絶品クリームパンである。しっかり泡立てられたメレンゲが混ぜ込まれたカスタードクリームは、一度口に入れると、まるで淡雪を口に含んだかのようにさらりと舌の上で溶ける。
「お、俺のクリームパン!!」
アレクシェイドが、逃げ回る中初めて動揺した声をあげた。袋から飛び出したパンを、虚ろな赤い目が追う。なんでストーカー女神様たちじゃなくてパンに動揺してんだよ。意味がわからん。
「やめろ危ない! 阿呆、前向け、前!」
綺麗な放物線を描いて落ちていく、2個のクリームパン。
しかし、一瞬でよくあれがクリームパンだと見分けたな。あの楕円形のきつね色した見た目だけだと、【大粒イチゴ盛りだくさんジャムパン】と全く同じだから、匂いを嗅がずに見分けるのは、俺でも難しいというのに。
目紛しく移動する視界の端で、アパートの入り口まで追ってきていたキモいネコと半焼けハトが、クリームパンを空中キャッチするのが見えた。
よし、ナイスキャッチだ! せっかく店長が心を込めて焼いてくれたパン、地面に落ちなくて良かった!
ネコとハトが立ち止まった。
匂いを嗅ぎ、徐にまた着ぐるみの頭部を僅かに上げる。
クリームパンを、赤く濡れた唇で、上品に一口かじった。
落とした人に対して何も言わずに。
「アレクシェイド様が持っている、あの袋の中のパン……ああ、やっぱり美味しいですわ! 今度のは、クリームが入っていますのね! 外はぱりっとして香ばしくて……」
「中は、ふわふわの初雪みたいなクリーム……。甘味も絶妙で、すばらしいですわ〜!」
ああ、確かに姉妹だな、おまえら。間違いない。人様の食い物でも、目の前にあれば全部御供え物なのか。
アレクシェイドは近づいてきた三階の手すりを片手で掴むと、ひらりと飛び越え、アパート三階通路に着地した。
「死ぬかと、思った……」
俺は安堵の息を吐いた。奴がよそ見した所為でアパートの壁に激突して落下、は免れたようだ。一瞬、走馬灯が脳裏をよぎりかけたじゃねえか、この野郎。
「俺のパンが……」
奴は通路に立ち、手すりの向こう側を眺めた。アパートの玄関口では、ネコとハトが幸せそうに並んでパンを頬ぼっている。クリームパンも気に入ってくれたらしい。あれ、美味いからな。毎日売り切れる人気商品だ。毎日買って行くヘビーユーザーもいるくらいだ。足止めには最適だったかもしれない。
俺は未練がましく立ち尽くす白ウサギの脇腹を殴った。くそ、やわらかい毛と詰められたスポンジで、打撃ダメージが全然通らねえ。
「いつまで未練たらしく見てんだよ! 急げ! 奴等が食ってる間に!」
「俺のなのに……」
「ああもう! いいから、急げっての!」
何度も脇腹を殴る。
が、中のスポンジが凹んで戻るだけだった。
ちくしょう、なんだよ、この、外部からの衝撃を吸収する無駄に手の込んだ作り。見た目に反して、やたらクオリティが高い。もしかして宮尾嬢作か?
アレクシェイドは渋々といった風に踵を返すと、通路を駆けぬけた。
俺の部屋を通り過ぎ、通路最奥へ向かう。
あれ? 俺の部屋、通り過ぎたんだけど。
屋上へと続く、錆びた螺旋階段が見えてきた。
奴は錆びた鉄格子の非常扉を開け、錆びた階段を駆け上がる。
屋上に向かっている。
何でだ。
「お、おい、アレクシェイド! 俺の部屋、通り過ぎたんだけど!」
「サラーシャは、この上で待ってる」
「は? なんで、アパートの屋上!?」
屋上で、あの美少女女神様が待っている?
なんでだ。
元の世界に帰る準備、してたんだよな? 今日の夕方まで仕度に時間がかかるって言ってたから、今までずっと。
じゃあ、今までずっとアパートの屋上にいたのか?
嫌な予感がする。とてもする。
俺は、あの時サラーシャに何処に行くのか聞いておかなかったことを、今さらながら後悔した。