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第1話

何がおかしいって……そりゃあおかしいところがないことがおかしいに決まっているだろ。



 それは違和感だった。


「いいんじゃないですか?」


 電話越しに聞こえる佑里の声は穏やかなものだった。穏やかで、平静で、柔らかくて、その揺れのなさブレのなさは半年前までの富永佑里を知っている者からしてみればありえないと感じるほどに。事実、この半年間ずっと一緒にいた俺でさえその佑里の変貌、激変には正直驚いていた。もちろんそれ(佑里が穏やかで、平静で、柔らかくなり、結果的に俺が殴られないこと)自体はとても良いことであると俺は思うし、バカでエロくてピーキーでアル中で自分勝手で加減知らずなヒステリー女だった彼女が、一般的でごくごく普通な女の子になってくれるのはかねてからの俺の願いだった。


 願い……いや、むしろ悲願と言ってもいい。


 何故ならそれは俺が何をしてでも手に入れたくて、しかし遂に触れることすら適わなかったものだったからだ。


「だって社会人になったら付き合いで飲みに行くなんて良くあることですよね?」


 パソコンでレポートでも書いているのか、佑里の声の後ろではカタカタとキーボードを叩いているような音が忙しく鳴り響いていた。


「たとえそれが合コンであろうがキャバクラであろうが風俗であろうが、別に文句言うつもりはないですよ」


 よし、出来た、と呟いた佑里は少し強めにエンターキーを打つと疲れたような溜息を吐き、近くに置いてあったらしい紅茶を口に含んだ。


 ちなみに余談だが、コーヒーがあまり好きではない佑里は、酒を飲んでいない時は基本的に紅茶を飲んでいる。特に苦いものが苦手というわけではないのだが、どうも匂いがあまり好きではないらしいのだ。そのため、基本的に酒であれば何でも口にする佑里もカルーアミルクだけは手を付けたことがなかった。そしてさらに余談だが、反対に俺はコーヒーが大好きで多いときには日に十杯以上飲む。しかし、そんなコーヒー好きの俺も佑里の前では極力コーヒーを飲まないようにしている。当然それは匂いが苦手と言っている佑里に対しての配慮もある。ただそれよりも一番の理由は、佑里に奇妙な真似癖があるからだった。その癖が原因で佑里は俺が吸っていたタバコと同じ銘柄のものを隠れて吸い始め、そして俺が吸うのを止めたことを知ると何の躊躇もこだわりもなく、同じように止めた。


(本当はタバコの臭いが髪の毛に付くのも肺に煙を入れた時のあの感覚も死ぬほど嫌いなんだから、真似をしてまで俺に合わせる必要なんてないのに)


「ていうか、わざわざ律儀にそんな報告をしなくたってあなたはわかっているはずじゃないですか」


 ――私は他人に強制したりはしない


 自由奔放。


 豪放磊落。


 どこまでも我が道を貫く彼女は、その有り様故に他人の自由意思を縛る言動を何よりも嫌う。


 ……


 ……


「知ってるよ」


 そんなことはお前と出会った時からわかっていた。


 ただ、俺はそれ以上にあの一年前思い知らされたのだ。


 富永佑里という人間はバカでエロくてピーキーでアル中で自分勝手で加減知らずなヒステリー女である反面、そんな行き過ぎた自分が、自由が時として誰かを傷付けてしまうということをしっかりと自覚しているということを。


 自分が自由であろうとすればするほど、誰かの自由を縛り上げ、強制してしまうということをハッキリと認識していて、その上でそれをなんとかしようと不器用ながらも必死に頑張っていることを。






 ――ただ、その力が……あなたのように誰かの幻想を叶えてあげる力が、私にほんの一欠片でもあれば、また未来は変わっていたのかもしれないね。






 一年前、俺の右腹を容赦なく包丁でぶっ刺し、そして自分の命も絶とうとしたときに零れ落ちた彼女の本音。


 自由が良かった。


 押し付けるのは嫌だし、押し付けられるのはどうしても気に食わなかった。


 しかし、そんなワガママで世間知らずな佑里ではあったけれど、


 それでも彼女だって誰かのために何かをしてあげたかった。


 期待されたら出来るだけそれに応えてあげたかった。


 先程の余談のエピソードを含め、自由な佑里が時折自分を蔑ろにしたり抑圧したりすることがあるのは、実はこの部分が大きく関わっているのだと俺は思っている。


 本当はそんなことをする必要なんてないのに……


「でも、人数合わせとはいえやっぱり女の子と一緒に飲みに行くんだから一応報告しておいた方が良いと思ってな」

「相変わらずマメですねぇ。私だったらそのまま隠れて飲みに行って、気に入った男の子がいたらパコパコとやっちゃいますよ」

「コラ。下品だし冗談でも彼氏に向かってそんなこと言うんじゃねぇ」

「あははは。まあ、それも私に気に入られる男がこの世にあなた以外に存在したらの話ですけどね」


 などと言いつつ、いざ俺が隠れてそんなことをしようものならどんな酷い仕打ちを受けるかわかったものではない。流血は必須で、下手をすれば臓器の一つくらいくり抜かれるかもしれないし、たとえ事前に報告しておいたとしても何か理由をつけて殴られるのは間違いなかった。


 ……


 ……・以前の佑里ならば。


「本当にいいのか。お前が嫌だったら今から先輩に断りの電話入れるけど」

「のーぷろですよ」


 やはり電話越しに聞こえる佑里の声は穏やかなものだった。


「それともあなたはこの場面で私に『ヤダヤダ、そんなとこ行かないで』と可愛く駄々を捏ねて欲しいんですか。そういうことであれば、あなたの部屋のクローゼットに隠されてた黒い猫耳を付けて語尾を『にゃん』に変えてやってあげてもいいんですよ」

「どうしてお前はどうでもいいところでサービス精神が旺盛なんだよ」


 いや、というか猫耳なんて持ってねーよ。俺の部屋にあるのは、ゴールデンウィークにお前と行ったディズニーランドで買ったネズミの耳と、少し布面積が少ない淡い黄色のエプロンだけだ。俺的には耳なんかよりも是非そちらの方を着けてもらいたいのだが……閑話休題。


「……無理してないよな?」

「無理? 何がですか?」


 キョトン、とした声。


 これは変わったということなのだろうか。


「あ、それはそうと亘さん」

「ん?」


 亘さん。


 付き合っているし、すでに俺は大学を卒業しているからその呼び方はおかしくはないのだが、卒業から半年が経とうとしているけれど未だにこれだけはなかなか慣れなかった。






「教員採用試験やっぱり落ちてました。でも、また来年も頑張りますよ」






 ――私、先生になる!!


 そう決意したのは、彼女が大人になったからだろうか。


 その変化は半年前彼女が言った『卒業』ということなのだろうか。


 ……


 ……


「そっか。応援してるから来年は受かるように頑張ろうな」

「はい!!」


 佑里は変わった。


 劇的と言っていいほどに。


 しかし、




 本当にこれは俺が願い、望んでいた結末なのだろうか。




「えへへへ、亘さん。大好きですよ」





感想などありましたらいつでもどうぞ。

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