SECT.8 赤髪の少女
全身が痺れるような感覚がまだ残っていた。
終幕の瞬間、割れんばかりの拍手が劇場内に響き渡ったせいで、脳髄が揺さぶられた。
「グレイス!」
興奮した様子のルゥナーが駆けてきて、そのままおれに抱きついた。
「すっごく奇麗だったわ! 本物のフレイアさまかと思うくらいっ!」
「ルゥナーもとっても奇麗だったよ」
とりあえず衣装脱いでいい? と聞くと、すぐにお客さんの見送りに出るから駄目、と言われ、諦めた。
動きづらいのに、と唇を尖らせていると、ルゥナーが笑う。
「ふふ、そうしているとフレイアの面影はないわね」
役者たちも楽団のみんなも、大道具などの裏方さんもみんなが互いの肩をたたき、舞台成功の喜びを分かち合っている。
「何はともあれ、これであなたの存在はかなりの速度で広がると思うわ。あれだけの存在感を見せつければ、噂にならぬはずはないでしょう」
「存在感? あった?」
首を傾げると、いつの間にか衣装をとうに脱いでいつもの神官服に戻っていたヤコブに頭を後ろから叩かれた。
「アホか。全員釘づけだったに決まってんだろ。全く、自覚がねぇのがまた怖いところだぜ。この天然娼婦が」
と、思った瞬間、ヤコブの後ろから手が伸びてきて、ぴしゃりと額をはたいた。
「やめんか」
手の主はアウラだったようで、くわえ煙草の中年女医が姿を現した。
「あ、アウラ! シドは?」
「すぐに宿へ送り返した。本来なら2時間もある芝居をあんな狭い席に座って見せること自体が体に悪い」
アウラはふぅ、と煙草の煙を吐き、唇の端に笑みを湛えて続けた。
「そうそう、涙を流さん勢いで感動しておったぞ、あの犬は。これは、帰ったら大変だろうな」
「……シド、怒ってない?」
そう聞くと、アウラは噴き出した。
「何か怒られるような事をした覚えがあるのか?」
「ない、と思うけど、シドが怒るのがどんな時なのか、おれにはまだよく分かんないんだ」
それをきいたルゥナーがくすくすと笑った。
「それを言ったら、またシドは怒るかもしれないわ」
「ええー? 意味分かんないよ!」
シドのお説教スイッチが入るのがいったいいつなのか、おれには全く予想できないのだ。
まあ、予想できたからと言って回避できよう筈もないのだが。
「さあ、劇場の外でお客様をお送りするわよ。グレイス、黒髪が少し見えているから直して」
「はぁい」
おれは衣装を整え、シャンと背筋を伸ばした。
「そうそう、そうしてるとちゃんとフレイアに見えるぜ?」
「ヤコブはいいの? もう衣装脱いじゃってるけど」
「当たり前だろ、俺様はお前さんと違ってあんま人目にふれんのはまずいんだヨ」
すっと柔らかな動きでおれの髪を整えたヤコブは、ぽん、とおれの背を押した。
「お前さんは違うだろ。ほら、せいぜい顔と名前を売ってこい。あ、そうそう、お前さんの名前は『グレイシャー=ロータス』で提出してあるからな。黄金獅子の名じゃねぇから気をつけろよ?」
ルゥナーと二人、手をとって劇場の出口へと向かった。
大きなホールになっている劇場の玄関口は、帰ろうとするお客さんたちでごった返していた。ここはミュルメクスで最も大きな劇場だと言うが、最も権威ある劇場と言うわけではない。
戦争前に少しの間だけ住んでいた王都の屋敷のように豪奢な飾りがあるわけではなく、どちらかというと造りは頑丈だが無骨な建物で、内装も音響以外の部分に配慮しているとは思えない、シンプルなものだった。
リュケイオン独特の細く複雑な路地の突き当たりに位置するこの劇場は、ほんの少しとはいえ、前庭が広場のようになっている。
その広場でお客さんたちを見送るためだ。
お客さんたちの前に出る直前、ヤコブが危ないから、と言って小道具の剣をおれの腰から抜き取った意味はすぐに分かった。
「あっ、リオート役のおねえちゃん!」
「フレイア! フレイア様だ!」
誰かが叫んだのをきっかけに、いっせいにおれとルゥナーに視線が集まった。
と、次の瞬間。
目の前の群衆がいっぺんにおれとルゥナーに押し寄せてきた。
「!!」
完全に油断していたおれは、為す術なくその中に飲み込まれる。
刃が付いていないとはいえ、細長い剣を腰なんかにさしていたら、誰かを傷つけてしまっていたかもしれない。
そんな勢いで人に飲み込まれたおれは例にもれず頭の中が真っ白になった。
「とっても奇麗でした!」
「勇ましくて、フレイアさまにぴったり! 踊り子審査、応援します!」
おれと同じくらいの女性が。
「まだ公演はあるんだよな? また来るよ!」
子供を連れたお父さんが。
皆一様に舞台の興奮冷めやらぬ様子で、舞台に上がっていた面々を取り囲んだ。
「最後の台詞で泣いちゃいました。あたし、明日も見に来ます!」
「公演はいつまで?」
「フレイア様の出番は増えないの?」
さまざまな声が飛び交う中で、ルゥナーは慣れた様子で一人一人に応対していく。
おれの両手も、渡された花束ですぐにいっぱいになってしまった。
その花束の向こうに、すっと現れた影があった。
その人物が現れたとたん、周囲の人々が場所を開けた。
大声をあげていた皆が静まり、ざわざわとしたざわめきに変わる。
絶対的な存在感を放ちながらおれの目の前に現れたのは、まだ十代半ば過ぎと思われる少女だった。
目を見張るほど鮮やかな深紅の髪を高い位置で二つに括り、髪と同じ朱色に黒で複雑な紋様を刺繍したセパレートの上下を身に付けた少女は、おれを鋭い視線で射抜いた。両手にはその美少女然とした容姿に似合わぬ鋼のサックを装備している。
そして全身から立ち上る隠しきれない闘気は、紛れもなく戦士のものだった。
「……ミリア様だ」
誰かの声がぽつりと響いた。
おれが首を傾げていると、ルゥナーがそっと横から囁いた。
「彼女は、3年連続で『踊り子』に選ばれているミリアリュコス=エリュトロンよ。彼女は今年も参加するはず。できることなら仲良くなっておきなさい」
「うん、分かった」
ルゥナーにだけ聞こえるように返事をし、おれは花束を隣にいたグリックに押し付けた。
目の前の少女の背は、おれより少し低いだろうか。
しかし瞳に灯っていたのは強い光で、その光は独特の気配を放っていた。
さらに彼女には、瞳に灯る力の他に、よく知る気配の残滓があった。
その気配を、おれはよく知っていた。
「……マルコシアスさん」
悪魔の血の気配がした。
おれの中にも流れている、魔界の剣士の気配だ。
なぜ、この少女にその気配の残滓があるのだろう?
心臓の鼓動が速くなる。
「フレイア役を演っていたのはお前か」
「そうだよ」
「名前は、何と言う?」
ラック、と言いかけてヤコブの言葉を寸前で思い出す。
「グレイシャー=ロータス」
「……」
赤髪の少女は、ほんの少し眉を動かした。
何かをいぶかしむ様な表情だった。
「グレイシャー、お前は『踊り子』の審査に参加すると聞いたが、本当か?」
「本当だよ。おれと、リオート役のルゥナー。二人で参加するつもりなんだ。よろしくね!」
にこりと笑うと、彼女はふいと目を逸らした。
あれ、嫌われちゃった?
「ねえ、えーと、ミリア?」
「軽々しく私の名を呼ぶな、グレイシャー」
「おまえだっておれの事呼び捨てにしてんじゃん」
「私はいいんだ」
「何だその理屈。意味分かんないよ」
頬をふくらますと、ミリアも眉根を寄せ、不機嫌そうな表情になった。
どちらが引く気もない雰囲気に、周囲を取り巻く人々の間で不安げな空気が流れた。
何しろ拳闘士の姿をした『踊り子』だという少女と、つい今しがた『戦女神フレイア』を演じていた役者がにらみ合っているのだ。
それも、どちらも『踊り子』候補。
「だいたいなんだよお前、アレ――」
そう言いかけた瞬間、顔の横からにゅっと手が伸びてきておれの口を塞いだ。
「はいそこまでだ、黄金獅子の末裔。お前さんもな」
おれの口を塞いだのと逆の手でミリアを指しながら。
豊穣神フレイ役の登場に、遠巻きに見ていた人々の間に再びざわめきが広がる。
「続きは『踊り子』の審査会場でいいだろ? 組手だってあんだし、好都合だ」
その言葉より先に、ミリアはヤコブの姿に目を見張った。
「フレイを演ったのはやっぱりお前だったのかっ……『ヤコブ=ファヌエル』」
え、何、知り合い?
と聞きたいが口が塞がれているので声に出せない。
きっとヤコブはおれがそう聞きたいのだってお見通しのはずだから、これはわざとだろう。
「俺様は豊穣神フレイだからな、戦女神の味方なんだヨ。悪いな、ミリア」
それを聞いたミリアの表情は、さらに不機嫌さを増した。
「……せいぜい、その女が最終審査まで残る事を期待するんだな」
ミリアはそう言い残して、踵を返した。
ヤコブに拘束されたままのおれを残して。
ミリアの後ろ姿が見えなくなり、お客さんたちもだいぶひいて。
ようやくヤコブがおれの拘束を解いた瞬間、おれは叫んでいた。
「もう、何で止めたんだよ!」
「まあ、それはオトナの事情ってやつだ」
「おれはもう23だ!」
「俺様から見ればまだまだ子供だ」
「私から見ても子供よ。相手は3年連続『踊り子』のミリアリュコス=エリュトロン。軍神アレスの覚えも良いと聞くわ。そんな子を相手に喧嘩を売ってどうするの! そうでなくともこんなところで『踊り子』候補が二人喧嘩なんてしたら目立つことこの上ないわよ? これはかえってシドのお説教ね」
「え、ええー?!」
せっかくいい気分だったのに!
それも、ミリアにアレイさんの事を聞けなかった。
彼女からは、マルコシアスさんの気配だけでなく、居城に充満している軍神アレスの気配も同時に感じたというのに。
そんなことも全部お見通しであろうヤコブは、おれの頭にぽん、と手を置いた。
「これからだ、これから。どうせ2週間もすれば嫌でも顔合わせんだから」
「そうだけどさぁ」
なんだか腑に落ちない。
でも、とりあえずミリアには負けないようにしようと、心の底で誓った。
アレイさんを取り戻すためにも。