SECT.4 手負いの忠犬
敵?
敵って、いったい何だ?
打ち負かす相手のこと? おれに攻撃を仕掛けてくる相手?
それとも。
首を横に向ければ、きらきらと光るセルリアンの瞳がある。
「ダイジョウブだよ、オレっち、もうグレイスを傷つけたりしないよ。もしシアさんの気が変わって、また命を狙う事になったら、その時は真っ先に言うから」
ああ、そうか。
唐突に気付いた。
フェリスがおれと似ているところ。
「……アレイさん」
まるで呪文のように大切なヒトの名を呼んで、頭の中を整理する。
おれとフェリスの似ているところ。
こいつは嘘をつけない。そして、自分の中に敵をつくらない。
おれがケテルも軍神アレスも敵にしたくないと思っているように、能動的に敵を認識しない。
敵だと認識するのは、自分や大切なヒトに刃を向けられた時と、自分の大切なヒトが願った時だけだ。
フェリスは、マルクトを慕いながらも悪魔に対して偏見がない。きっとおれと同じで、悪魔も天使も好きなんだ。天使を崇拝するからと言って悪魔を否定するようなことはしない。自分の感覚だけが真実で、周りがどうとかいうのは全く関係ないのだろう。周囲の『当たり前』に流されて敵を認識したりしない。
きっと、ガリゾーントのみんなを傷つけない、と誓ったフェリスの言葉は本当なのだ。
「仕方ないな」
だから、たとえ以前におれの大切なモノを傷つけていたとしても、いまは傷つけない、と言ったフェリスのことを敵だと思わないのかもしれない。
そう思ったら、なんとなく心が軽くなった。
「フェリス、今だけおまえを信じてやるよ」
「グラティアス、グレイス」
感謝の言葉を述べ、フェリスは首にさげていたコインをおれに差し出した。
第31番目の悪魔フォラスと第44番目の悪魔シャックス。
一瞬ためらったが、鈍く金色に光る二つのコインを受け取った。
契約していないおれに対して、この二つのコインは熱を持たず、首から下げると胸元が冷える感じがした。
代わりに、右腕に穿ったフラウロスさんの契約印が一瞬だけ熱くなった。
「怒らないで、フラウロスさん」
篭手の上から契約印を撫で、落ち着かせる。
「結論は出たな、黄金獅子の末裔」
「うん。ありがとう、ヤコブ」
お礼を言って立ち上がる。
なんだかとてもすっきりした。
「行こうぜ、フェリス。ヤコブはめんどくさいって付き合ってくんないから、ずっと体動かしてないんだ。あっちで組手しようぜ!」
「あれれ、掌返したみたいに素直だね、グレイス。オレっちはそんなとこ、好きだけど」
肩を竦めたフェリスも椅子から立ち上がった。
部屋を出ようとしたおれに、ヤコブは最期の言葉を投げかける。
「黄金獅子の末裔、その『敵を作ることのできない』心は、お前にとって最大の武器だ。たくさんの人間と悪魔を、そして天使や精霊さえも惹きつけるだろうヨ。そして、お前は多くの味方を手に入れる事になる。だからこんな風に、お前の周りには人がたえねぇ。立場も人種も何もかも越えて、全員連れて来ちまう。だからお前は、自分の持つ力以上に強い」
再び大きなマグカップを口に運びながら、ヤコブはまるで気合の入っていない声で告げた。
「だが、それはお前の最大の弱点でもあるんだ――と言うわけで、組手の前に、そこの迷い猫と二人、くたばってる犬のところへ行って叱られて来い。お前さんを叱るのは、俺様の役じゃねぇからヨ」
「……っ!」
しまった。忘れていた。
おれにはまだ、最期の難関が待ち構えているんだった。
おれは、大きく深呼吸してからシドの部屋のドアをノックした。
「どうぞ」
部屋の中からシドの声。
そのトーンが怒っているのかどうなのか、おれには判断つかなかった。
意を決して扉を開くと、シドとルゥナーが待っていた。
ほんのりと漂う香は、アウラが気を落ち着けるからと言って焚いた、ほんの少しすっとするシトロネラという植物の匂いだ。
「よっ、シド、元気か?」
「……手加減なしで突き刺したのはどこの誰だ、この馬鹿」
シドは藍色の瞳でちらりとフェリスを見た。
隠しもしない不機嫌さが現れて、思わずおれは足を止める。
「あれで死ななかったなんて、やっぱオレっちの予測通り、シドが一番手ごわかったってわけだ」
「グリフィス女爵、こちらへ」
フェリスの言葉を完全無視したシドは、ベッド脇の剣に手を伸ばしながら言った。
「……はい」
有無を言わさぬ口調で言い切ったシドに逆らう術はない。
おれはぎこちない足取りでフェリスから離れ、シドの方に寄った。
「貴様、いったい何故戻ってきた」
フェリスにそう問いながら、シドは重そうに体を起こした。
「何のためって、グレイスを見張るためだけど?」
「巫山戯るな」
静かに抑えてはいるが激しいシドの言葉に、びりり、と部屋の空気が揺れた。
「俺の目が届く範囲で、我が主に神官マルクト配下の者を近づけよう筈もない。即刻ここから立ち去れ」
「冷たっ! 前から思ってたけど、シドってオレっちにだけ冷たくね? 酷くね? なあ、グレイス!」
「いや、だって、フェリスが先にシドを刺したんだから当たり前なんじゃ」
「グリフィス女爵は口を挟まないでください」
「あ、はい」
閉口。
シドの藍色の視線に気圧され、おれは口を閉じてフェリスと距離をおいた。
「先日、グリフィス女爵と戦闘したことは聞いている。その際に悪魔と契約していたこともだ。天使の国に住まう貴様がいったい何を考えているかは知らんが、そんな危険な存在を主に近づけるわけにはいかない」
「でもグレイスはいいって言ってくれたよ? ほら、コインだってグレイスが持ってるからオレっちにはいま、何の力もない」
フェリスの言葉で、シドの敵意はまるごとおれに矛先を変えた。
おれは首に下げたフェリスのコインを見せ、一応の言い訳をはじめる。
「ええとね、フェリスをここに置く代わりに、コインを預かったんだ。ええと、ほら、人質? みたいなものだよ」
「グリフィス女爵、貴方自らこの男を手元に置く事を同意されたのですか?」
「うん。シドはフェリスに直接殺されそうになってるから嫌かもしんないから、出来るだけ近づけないようにするよ。おれは別にフェリスがここにいてもいいと思ってるんだけど……」
そう言うと、シドの纏う空気が一瞬にして極寒まで冷え込んだ。
「グリフィス女爵」
「あ、はいっ」
思わず姿勢を正してしまう。
「この男に命を狙われたのは貴方も同じでしょう? つい先日の出来事だったと記憶しておりますが、間違いでしたか? それとももうお忘れになったのですか?」
分かっていた事とはいえ……始まってしまった。
「左手の怪我も治っていない状態で、また新たな傷を受けて……もう少し警戒なさってください。いつも申し上げているでしょう?」
「……」
おれは未だ包帯の取れない首の傷に触れた。
フェリスにつけられたこの傷は、一歩間違えば大きな血管にまで達していただろう。
「だからさ、オレっちはもうグレイスと戦ったりしないって! もしシアさんが殺せって言ってきたら、ちゃんと言うから!」
「そこの馬鹿は黙っていろ」
う、シドが冷たい。
「ご、ごめんね、シド。やっぱり自分の事を狙う相手がいるのは嫌だよね……?」
そう言うと、シドは大きなため息をついた。
「私の事など捨て置いてください」
藍色の瞳がおれを貫いて、どきりとした。
「この男が、元グリモワール王国騎士団員だった私を、目的の為に排除しようとするのは道理です。それは事実であって、私自身の遺恨は関係ありません。それより、私が気にしているのは貴方の身の安全です」
「おれは平気だ」
「平気だ、じゃありません。自覚してください」
淡々とシドはおれを諭した。
「貴方が理解してくださるまで、何度も繰り返します。貴方は、自らの身を軽く見過ぎている。いまだってそうだ。同じ部屋に敵国の手先を招いて、あろうことかそれを容認している――お願いですから、危機感を持ってください」
いつものお説教とは少しだけ違う、どこか悲しそうな響きを含んだシドの言葉と真剣な眼差しに、おれは首を項垂れた。
「ごめんなさい……」
またおれは同じ事を繰り返した。
おれが周りのヒトを大切に思うように、周りのヒトたちもおれを大切にしてくれているんだって忘れそうになる。
「でも、おれはフェリスを敵だとは思えないんだ」
そう言うと、シドはふう、と息をついた。
「承知しております。そんな貴方だから、私は主に選んだのです」
シドは素足でベッドを下りた。
しっかりと地に足をつけ、手にした剣の鞘に手を当てる。
「ですから、もしこの男が貴方に敵意を向けるならば、私が全霊で以て返り討ちにして差し上げましょう」
すらりと抜いた刃を真っ直ぐフェリスに突き付けて。
「この場で、魔界の王リュシフェルとこの剣に誓え。我が主に決して手出しせぬと」
「ふーん、そんでシドの気が済むんならオレっちは構わないよ?」
セルリアンの瞳をきらきらとさせながら、フェリスはその場に跪いた。
「いいよ、オレっちは、シアさんからの命令がない限り、絶対にグレイスを傷つけない。魔界の王リュシフェルと天界の長メタトロンに誓う」
最後に刃にそっと指をあて、滑らせる。
つぅ、と玉のような血が指先に滲み出た。
「この血を証に」
にっと笑いながらシドを見上げたフェリスは、指に滲んだ血を自らぺろりと舐めた。
「これで満足?」
「……この場はな」
剣を収めたシドは、ベッドに戻った。
「……グリフィス女爵」
「はいっ」
「明日から、出来る限り私も貴方の稽古に付き合います」
「え?! でも、シドはまだ怪我が……」
「たとえ武術大会までに治療が間に合わなくとも、付き合います」
有無を言わさぬ口調で言い切ったシドに、おれは返す言葉を持たなかった。