SECT.2 迷い猫の帰還
次の日から、おれはルゥナーの指導のもと、練習を開始した。
テントをアレイさんがぶっ壊してしまった今、立方体の形をした宿の屋上にある広い空間が練習場所だった。何処からともなく吹き来る風は相変わらずお香の匂いがした。複雑に絡んだ香りが鼻腔をくすぐる。
屋上には何もなく、ただ白く四角い床があるだけだった。
武道大会まではたった一ヶ月、踊り子を決める審査開始まではたったの3週間しかない。すでに申し込みは済ませてしまい、あとはおれ自身がどうにかして踊り子らしくなるだけ。
シドは、ちょうど傷が癒えるころだから回復具合を見るためだと主治医のアウラを説得して武道大会への出場を決めたらしい。
その代わり、出場しても無理はしないことと、この一ヶ月間はベッドに釘づけになるというのが条件だったようだが。
「おれも武道大会、出てみたかったなあ」
「残念だったわね。でも、『踊り子』の方もきっと楽しいわよ? 何しろ軍神アレスに捧げる踊りだから、審査では実際に組手をさせられることもあると噂に聞くわ」
「単純に戦うんだったら自信あるよ。でも、踊りとかはやったことないからなあ」
「いまは言っても仕方ないわ。さあ、練習しましょう」
「はぁい」
しかも、練習すべきは『踊り子』に関するだけではない。
知名度のある方が『踊り子』に選出されやすい、というヤコブの情報から、同時進行でリオート=シス=アディーンの舞台をやる事になったのだ。
一週間後から始まる歌劇団ガリゾーントの公演で戦女神フレイアの役を演じ、姿と名を売る。
その一方で、3週間後から始まる『踊り子』審査に参加する。
モーリの言う通り、忙しくなりそうだった。
当のモーリは、セフィロト国の出国前に劇団のテントがなくなってしまったので、劇場を貸し切る為に走り回っている。ミュルメクスで最も大きな場所を借りるつもりらしい。
というのも、劇団ガリゾーントは、直接的な損失が大きかったためにセフィロト国からずいぶんと保証金をふんだくったらしい。せっかくだから、と新しいテントを注文して残った金額で大きな公演をしよう、というのがモーリの提案だった。
しかし、豊穣神フレイの役をやる予定だったアレイさんは不在、ロキ役のシドは重傷、フェリスは表向き失踪ということになっている。
重要人物がかなり欠けた状態で、公演はできるのだろうか?
「ねえ、そう言えばさ、アレイさんがやるはずだった豊穣神フレイの役は誰がやるの? それに、怪我してるシドともういないフェリスの役はどうするの?」
「あら、聞かなかった?」
ルゥナーは首を傾げた。
「シドがやっていたロキ役は、ヤコブ神父が引き受けてくださったのよ?」
「え、ヤコブが?」
意外だ。
あのヒトもアレイさんと一緒で、お芝居には全く興味がなさそうなのに。
「フェリスの役だったサヴァール=ヴァイナー将軍は、グリックが演るわ。シドとフェリスが来るまでは、うちの花形剣舞師だったもの」
グリックは歌劇団ガリゾーントでは数少ない立派な体格をした役者の一人。堂々とした体躯は、サヴァール=ヴァイナー将軍にぴったりだろう。
「悪いけど、グリックの方が、フェリスの百倍は似合ってるよ」
「そうね」
ルゥナーもくすくす、と笑った。
「フェリスの普段の様子からみたら、ずいぶん上手に演じ分けているなと思ったけれど」
「うん。おれも初めて見た時びっくりしたよ。でもさ、確かにフェリスは強かったし、大剣を扱うのもうまかったけど、将軍って感じじゃなかったもんね。どっちかというとさ、ロキの方が似合ってたんじゃない?」
「ええ、そうなのよ。最初はシドをサヴァール=ヴァイナー将軍に、フェリスにロキを当てるつもりだったのだけれど、どうしても、ってフェリスが言うから役を交代したのよ」
「ふうん、何でフェリスは将軍役の方がよかったのかな?」
首を傾げると、その瞬間、背後から声がした。
「そーりゃあ、将軍役の方がシドを殺しやすかったからだぜ?」
はっと振り向くと、そこに立っていたのは金髪黒ニットの男。
「よーお、グレイス、ルゥナー。元気っ?」
「フェリス?!」
おれは思わずルゥナーを背に庇っていた。
完全に油断していた。
フェリスの首に下がるのは悪魔のコイン。
おれがその気配に気づかないなんて――
「おおっと、攻撃しないでよ、グレイス。オレっちは争いに来たわけじゃないんだ。喧嘩したら今度こそシアさんに愛想つかされっちまうよ」
ひょい、と肩をすくめたフェリスは、黒ニット帽の下のセルリアンの瞳を細めて笑った。
心臓がばくばくと脈打っている。
だって、目の前にいるのは神官マルクトを慕うセフィロト国の人間。
しかも大剣でシドを貫いた――
「いったい何しに来たんだよ、フェリス」
落ち着け、落ち着け。
フェリスに敵意はない。本気になれば尋常でない殺気を放つ彼の事だ、闘うつもりがないというのは本当だろう。
大きく深呼吸をしてからもう一度フェリスを見ると、少しだけ冷静になれた。
ただ、酷く気まぐれなこの獣は、いつまた敵意を向けてくるか分からなかった。
「もうシドは傷つけさせないよ。もちろん、ルゥナーだってモーリだって、誰ひとりお前に傷つけさせない」
「ひひっ、強いね、グレイス。ダイジョウブ、オレっちはこの劇団の中では誰も傷つけないよ――天界の長メタトロンに誓う。それとも、魔界の王リュシフェルに誓った方が信じられるならそうするけど?」
「……」
天界の長メタトロンに誓う。
それがどれほど重い意味を持つのか、おれには分からなかったけれど。
ただその言葉を口にしたフェリスの心は本物のような気がしたから。
おれがほんの少し警戒を緩めたのが分かったのか、フェリスはにっと笑った。
「ん、グラティアス」
それは、セフィロト国の古代語で『ありがとう』。
聞き覚えのあるその言葉は、旧グリモワール王国領からセフィロト国を横断してくる間に、多くの人から聞いたものだった。
「モーリからリオート=シス=アディーンの舞台やるって聞いたんだけどさ」
「え、モーリに会ったの?」
「だってさ、オレっち、勝手にここを出てったじゃん。やっぱ戻ってきて最初、座長に謝るのが筋ってもんじゃね?」
モーリはフェリスのことを危険だと思わなかったのだろうか。
他の団員には伏せてあるが、モーリとルゥナーだけはフェリスがセフィロト国の間者であった事を伝えてあり、シドを傷つけたのもフェリスであることを伝えてある。
でも、モーリはフェリスを追い返したりしなかった。
ルゥナーがぽん、とおれの肩に手を置いた。
「モーリが何も言わなかったのならきっと大丈夫よ、グレイス」
「……うん、そうみたいだね」
少なくとも、いまは。
モーリは時々人の根底までも見透かしたような事を言う。まるで占い師のようなその言葉には不思議と説得力がある。
きっとモーリにはおれたちには見えない何かが見えているんだろう。
完全に、とはいかないが警戒をといた。
「何しに来たの? フェリス」
「何って、オレっちここの団員じゃん。帰ってきただけ」
「おい、ちょっと待てよ、フェリス。お前はシドのこと刺してんだぞ。そんなヤツがもう一回戻ってきたって」
「あん時はシアさんのためにグレイスを殺そうとしたからだよ。単純にアイツが邪魔だっただけ。今度は、だって、シアさんからグレイスを殺すなって言われんだから。それにオレっちの正体もバレてるから口をふさぐ必要もないし、誰も殺さないよ」
ひらひら、と手を振ったフェリス。
言っていることは破綻しているが、なぜかフェリスが言うと本当に聞こえるから不思議だ。
迷うおれの前に、ルゥナーが進み出た。
「フェリス」
「なあに、ルゥナー。今日もかわいいねぇ」
「ありがとう、フェリス」
賛辞にはにこりと微笑み返し。
「貴方がシドを傷つけたこと、絶対に赦さないわ。でも、私とモーリ以外は、貴方がシドを傷つけようとして傷つけたことを知らない。誤ってシドを傷つけて、ショックで逃走したとみんな思っているの」
「あら、そーなの? オレっちかなり覚悟して帰ってきたんだけど?」
「モーリが許容したのなら、私もいまのところは受け入れるわ。きっと団員の大半がそうするでしょうから」
ルゥナーがきっぱりとした口調で言い切った。
それでも、その声は震えていた。
「ありがと、ルゥナー。よかったぁ、ここに戻ってきて」
おれはどうしても腑に落ちなかった。
だってフェリスは敵で、マルクトを慕っていて、シドを傷つけて――
「シドには私から話すわ。きっとシドは自分の事よりグレイス、貴方の心配をするでしょうけれど」
「何で?」
「……そんな事を言っていると、またシドにお説教くらうわよ」
ルゥナーは不吉な事を言う。
そしてそれはきっと近いうち、事実になる。
フェリスは、あ、そうそう、とぽん、と手を打った。
「話は戻るんだけどさ、モーリに舞台やるって聞いたよ。でっかい劇場を貸し切るんだって?」
「ええ、そうよ。サヴァール=ヴァイナー将軍の役はグリックがやるわ。ロキ役は神父のヤコブ=ファヌエルという方が引き受けてくださった」
「豊穣神フレイはどーすんの?」
「まだ決まっていないわ」
公演一週間前だというのに、相変わらずだな。
他人ごとではないのだけれど、そう思ってしまった。
「最悪、豊穣神フレイの台詞は、戦女神フレイアが言うのよ。つまり、グレイス、代わりに貴方がやるの」
「えっ、おれ?!」
「そうよ。もともとフレイアとフレイの役どころは似ているし、一緒に舞台に出るのはラストシーンだけだったから。不自然にならないよう、モーリが台本を書き変えてくれるわ」
無理、とは言わなかったが、かなり厳しかった。これから舞台だけでなく、『踊り子』の試験もあるのだ。それなのに、台詞が倍増したら……!
「んじゃぁさ、オレっちが演ろうか?」
フェリスが肩をすくめた。
「最初の予定通り、オレっちがロキ役をやるよ。その神父サマが豊穣神フレイをやればいいんじゃね?」