SECT.23 だいじょうぶ
アレイさんの懺悔が終わると、いつの間にか部屋に入ってきていた女の子がおれの傍に跪いた。
「初めまして、ラック=グリフィス女爵。僕は、ポースポア=エウカリス。ミリアと同じ、オリュンポスの一人、アフロディテです。どうか、僕の事はポピー、と呼んでください」
「ポピー。はじめまして」
とてもやさしそうな笑顔の少女だった。波打つような金の髪が笑うたび、揺れる。
ポピーからはミリアと同じ、精霊の気配がした。
静かに両手を組み、祈りをささげるように目を閉じたポピーが、淡い金色の光に包まれる。
その暖かな光がおれの全身をも包み込んだ。
優しい力は体の隅々までいきわたる。
地面に叩きつけられ、ぼろぼろになった体がその光で癒されていった。
「アフロディテ、貴方の美しさと優しさに感謝します」
そう締めくくったポピーは、にこりと笑った。
「どうぞ、起き上がってみてください」
「え?」
さっきまで痛くて動けなかったのに?
おそるおそる手をついて起き上がると、体に痛みはなかった。
「……治ってる」
もしかしてポピーが持つのは第10番目の悪魔ブエルが持つのと同じ、癒しの力。
「ありがとう、ポピー!」
「治っても、すぐにはご無理なさらないでくださいね」
「アレイさんもポピーが?」
「僭越ながら治療させていただきました」
怪我をしたって言っていたけれど、元気そうなのはポピーが治したからだったのか。
「すごいね、ポピー」
「いいえ、僕の能力は……貴方たちだから使えるんです」
困ったように笑いながらポピーは両手を横に振る。
「おれたち、っていうのはおれとアレイさんのこと?」
「はい。あとは、そうですね、ミリアやアーディンにならば無条件で使用できるでしょうか。この力は癒しなどではありません。一種の『毒』です」
そう答えられて、おれは思わず左手を握りしめていた。
代償のない力はない。
悪魔の気が耐性のないヒトにとって毒であるように、ポピーの治癒能力もきっと、相手にとって毒となる。
「だから、誰もかもを救えるような素晴らしい力じゃないんです」
ポピーは少しだけ悲しそうに笑った。
返答しなかったおれを置いて、ポピーは立ち上がる。
「グリフィス女爵、貴方もクロウリー伯爵も、答えを先送りにするという選択をしなかった。別れるという選択もしなかった。僕らとは違って、とても強いヒトたちです。だから――」
ポピーはそこで言葉をきった。
たくさんの思いを込めた言葉を、簡単に紡ぐことは出来ないから。
「僕も祈ります。貴方たちが共に在ることを」
その時のポピーの表情はとても晴れやかで、まるで何か悩んでいたことから解放されたかのようだった。
「ポピーも何かに悩んでいたの?」
軍神アレスであることを隠すミリアと同じように。
とても大事な隠し事をしているような気がした。そしてそれにとても悩んでいたような。
そういうと、ポピーははっとした顔をした。
「本当に、貴方たちは不思議ですね」
台詞の意図が分からず首を傾げると、悩み事については内緒なので言えません、と笑いながら返された。
いったいなんだというのだろう。
でも、ポピーを見ていたアレイさんが優しい顔をしているから、いいや。
大きく伸びをしてベッドから抜け出る。
と、ようやく自分が演武の時のままの衣装だということに気付いた。
「さあ、着替えて武道大会を見に行きましょう! 夕方ごろにシドの試合があるはずよ」
ルゥナーがそう言って笑った。
「ほんとだ! シド、元気になったの?」
「もうすっかり元気よ。でもやっぱり一か月も横になっていたから、今回の大会は勘を取り戻すために出るようね。でも、きっとあなたが応援してあげた方が喜ぶわよ、グレイス」
「じゃあ行く! すぐ行く!」
服を着替え、アレイさんの手を取っておれは闘技場のバルコニーに駆け込んだ。
目の前では武道大会の第一回戦が滞りなく進められている。
先ほどの騒ぎはなかったかのように、観客は大会を愉しんでいるようだ。ミリアと軍神アレスの姿を探したが、ここには見当たらなかった。
鳴り止まない歓声に混じって、アレイさんの声がした。
「すまなかった」
声に振り返り、首を傾げると、おれのすぐ後ろに立つアレイさんは悲しそうな表情でおれを見下ろしていた。
「マルコシアスとグラシャ・ラボラスが片割れ同士だとしても、お前だけは傷つけたくなかった」
澄んだ紫水晶。
おれのよく知る色で、おれが一番好きな色だ。
「おれは平気だよ。ポピーに治してもらったし」
一歩、下がってアレイさんの腕の中に入り込んだ。
とん、と背中をあてて、ほとんど真上にあるアレイさんの顔を見上げる。
「ねえちゃんが死んじゃった時の事、覚えてる?」
「ああ、よく覚えてる」
ようやく声を震わせずに口に出せるようになった思い出は、今も鮮明におれの脳裏に焼き付いている。
グリモワール王国とセフィロト国との戦争の中、東の都トロメオを奪還するときの事だ。当時の神官ケテルの攻撃におれの育て親のねえちゃんが殺された。おれはねえちゃんが最後に願ったトロメオ奪還を遂行するため、殺戮と滅びの悪魔グラシャ・ラボラスにこの体を明け渡してしまったのだった。
「あの時、おれは滅びの力でアレイさんを傷つけたよ。自分の牙でアレイさんの肩を噛み砕いた。でも、それでも、アレイさんはおれを止めてくれたよ」
天界の長と最凶の悪魔との戦いに命を賭して飛び込んで、おれを連れ出してくれた。
当時を思い出したのか、アレイさんは眉間に皺を寄せた。
後ろからおれを抱きしめる腕に力が籠る。
「アレイさんがいなかったら、おれは何もかも破壊してた。おれがいま、ここにいるのはアレイさんがいるからだよ」
それだけじゃない。
これまで、おれは何度も何度もアレイさんに助けてもらった。
「今度は少しくらいおれがアレイさんのために何かしたいよ。だいじょうぶ、おれはこう見えても強いから、アレイさんがまた悪魔になっちゃったときは、おれが止めてあげる」
今度こそ、ラースに心を明け渡したりはしない。
あの瞬間、いつも導いてくれるアレイさんがおれに敵意を向けたのが本当にショックで、どうしていいかわからなくなってしまった。助けを求めた相手が刃を向けてくるなんて、そんなこと考えてもみなかったから。
でも、もうそんなことはしない。
たとえ今この瞬間、間近に片割れを感じ取ったラースが耳元で騒いでいるとしても。
左腕がもう上げられないくらいに痛んだとしても。
もしかしたら、アレイさんにはもう、左腕の事を気づかれているかもしれない。
「おれはアレイさんと一緒にいたいんだ」
でも、それだけがいまのおれの真実。
だからおれは武器をとる。
敵を倒すためではなく、大切なヒトを守るため。大切なヒトを一緒にいるため。
刃を向けるのが大切なヒトであったとしても。
「ねえ、だからアレイさん」
世界で一番安心できる場所で。
おれは彼に頭をあずけ、少しだけわがままを言うんだ。
「だいじょうぶだって言って?」
アレイさんがいればだいじょうぶ。
だから、アレイさんが大丈夫だって言ってくれたら、おれはまだまだ頑張れるから。
ひどく気まぐれな世界で、どれだけ残酷な選択肢を突きつけられようと、折れないことを誓うから。
「……ありがとう」
小さな声で、アレイさんは返事をした。
そしておれの髪に顔をうずめるようにして、耳元で小さく囁いた。
「大丈夫。お前と一緒なら大丈夫だ」
その時だけは、闘技場いっぱいの歓声も、左腕の痛みも、何もかも忘れて、ただアレイさんの声だけが聴こえた。
おれはこれから、この声を思い出しながら戦うんだ。
この先に、どんなに辛い未来が待っていても。