SECT.22 たとえその切っ先が
ルゥナーが出て行ってしばらく、部屋の扉がノックされた。
エレーミアが扉を開けると、そこに在ったのは、見慣れた紫水晶の瞳だった。
「アレイさん」
心臓が跳ね上がった。
彼はそのまま扉の手前で逡巡している。
おれに近寄って大丈夫なのか、ひどく迷っているように見えた。
見つめ合うこと数秒。
「さっさと入れ」
苛立った声と共に、アレイさんが前のめりに躓いた。
いや、躓いたわけではない。
後ろから誰かが蹴り飛ばしたのだ。
よろけたアレイさんの後ろから、咥え煙草の医者が現れた。先ほどの試合で審判をしていた、確かアーディンと呼ばれていたヒトだ。
近づくと、そのヒトから感じる天使の気配はますます強くなっていた。
でも、金に近い淡い茶色の髪色にはやっぱり見覚えがある。目元のあたりとか、煙草を持った時の手つきなんかは、おれがよく知るシドの主治医の女性にそっくりだった。
「こんにちは、アーディンさん。はじめまして」
「ハジメマシテ」
煙草を咥えたまま、棒読みで挨拶したその医者は、アレイさんの首根っこを摑まえて引きずるようにしておれのところまでやってきた。
アレイさんがこんな風に引きずられてるのなんて初めて見た。
あ、初めてじゃないな。ねえちゃんはよくやってた。
不意に想起した思い出は胸をちくりと刺したけれども、それよりもアレイさんがこんな風にヒトに気を許しているのがなんだか嬉しかった。
「連れてきてやったぜ」
アーディンはアレイさんをおれの目の前に放り出した。
転びそうになったアレイさんと、目が合う。
近くで見た瞳は、炎妖玉色の混じっていない、純粋な紫水晶だった。
ああ、よかった。
アレイさんから甘い匂いがする。あまり知らないこの香は、花だろうか。リュケイオンに入ってからずっとお香を焚きしめた匂いに付きまとわれているから、うまくわからなかった。
それなのに、その香りだけははっきりとおれの中に入り込んできた。
知らない匂い。
知らない友達。
でも、目の前にいるのはよく知るアレイさんの顔だった。ひどく端正で、でも何かが気に食わないわけじゃなく、困惑すると眉間に皺が寄ってひどく不機嫌そうな顔になる。
そのせいでみんなに傲慢なヒトだと誤解されやすいんだ。
本当はぜんぜん、そんなヒトじゃないのにね。
アレイさんは、体を起こせないでいるおれを見て、眉を潜めた――とても、悲しそうに。
だからおれは笑うんだ。
「だいじょうぶだよ」
きっちりと包帯が巻きなおされた左手をアレイさんに向かって伸ばした。
ほんの少しだけ鈍い痛みを遺す腕は、たったそれだけの動作で小刻みに震えた。きっともうすぐ、この腕はおれのものじゃなくなってしまう。
縋るように伸ばしたその手を、アレイさんが大きな手で握り返した。
悪魔の毒気に充てられぬ彼は、おれに気兼ねなく触れられるほとんど唯一の人間だから。
「すまなかった」
おれの手を額に当てて、アレイさんは謝った。
なぜだろう、アレイさんが謝るようなことなんてないのに。
目を伏せたまま、彼は続けた。
「俺の中には悪魔の力が内在している。マルコシアスの半身だ」
おれは首を傾げたが、まるで懺悔のようなその言葉は止まらなかった。
「クロウリー家の歴史を知っているだろう? マルコシアスは、始祖レティシアに血を分けた。その時はまだ、マルコシアスの両瞳は炎妖玉だった」
「ラースと同じだね」
そう答えると、アレイさんの手に力が籠った。
「そうだ。マルコシアスとグラシャ・ラボラスは――片割れ同士だからな」
知っていた。
おれもアレイさんも知っていた。
ヒトの形をしたラースは、驚くほどマルコシアスさんにそっくりだから。
部屋に短く沈黙が流れる。
「碧光玉の瞳はレティシア=クロウリーのものだ。悪魔の寿命は人間とは比較できない。マルコシアスは、彼女が亡くなる時、共に生きた証をその身に刻むため、炎妖玉の瞳と共に力の半分を捨てた。碧光玉の代償として放棄された半身は、クロウリーの血の中に」
美しい炎妖玉と碧光玉の瞳を持つ魔界の剣士が、最愛のヒトを亡くして、いったいどんな思いでそうしたのか、考えただけでも胸が張り裂けそうだった。
同じ時を生きることなどできはしないから、せめて共に在った証だけでも遺したい。
再契約で時を止め、子供が成長する姿をこのままの姿で見守ることになったおれだからその感情が痛いほどに理解できた。
そうすることでたとえ力の半分を失ったとしても。
そしてクロウリーの血の中に、マルコシアスさんの力が封じられた。
ということは、やっぱり。
「じゃあ、闘技場であの時、おれに敵意を向けたのは」
「俺自身だ」
顕在化したマルコシアスさんではなく。
本当にアレイさん自身がおれに敵意を向けていた。
正確には、アレイさんの中にいる悪魔の力なのかもしれないけれど。
おれの手を握るアレイさんの手も震えていた。
きっとまた、今日みたいなことになる日が来る。おれとアレイさんの魂の一端を握るのは、正反対の存在だから。
どんなに願っても、逃れられなくなる日はきっといつかやってくる。
そうしたら、おれはいったいどうするんだろう?
おれに敵意を向けるアレイさんを前に、いったいどうしたらいいんだろう?
「セフィロトを出てリュケイオンに入る時、俺は大怪我を負って倒れたところを軍神アレスに拾われたんだ。怪我の痛みを緩和するため、麻酔効果のある芥子という植物を焚いていたんだが……芥子は中毒性が高く、摂取しすぎると幻覚症状や、禁断症状にも襲われる」
先ほどからアレイさんの周囲に漂う甘い香り。胸内の焦燥を煽るような、不安感を増す香。
もしかして、これが芥子の匂い?
「俺も例外ではない。芥子の毒が体に残ってしまった」
目を伏せて、手を額に当てて。
懺悔のような告白は長く続いた。
「芥子の禁断症状は俺を悪魔に引き戻す。血の底に封じた悪魔が顕在化する。こればかりはもうどうしようもない」
あの時、アレイさんに悪魔の具現化を強いたのは、芥子という植物だったんだ。
芥子という言葉にはぼんやりと聞き覚えがある。
ねえちゃんが、子守唄にしていた童謡に出てくるからだ。いったい「芥子」というのがなんなのかはこれまで知らなかったけれど。
――新月の夜の狼 絹の毛並みの黒猫 片方が欠けた角のヤギ 鏡の湖 血色の薔薇と甘い甘い芥子
穏やかな旋律で歌われたこれらは、悪魔たちが好むものなのだと言っていたような気がする。
芥子は悪魔が好むもの。
だからアレイさんの中の悪魔を顕在化させてしまうのかもしれない。
「これからも禁断症状に見舞われるたび、俺はお前に剣を向けるだろう」
アレイさんの声はとても苦しそうだった。
これまで何度も自分の牙で大切なモノを傷つけてきたおれには、アレイさんがどんな感情でいるのかが痛いほどに分かって、胸のあたりがぎゅうっと締め付けられた。
「だから」
ふいに紫水晶がこちらに向けられてどきりとした。
「その時は、お前も迷わず俺に剣を向けてくれ」
思わぬ言葉に、おれは目を見開いた。
「そんなことできるはずないじゃん!」
「出来る」
アレイさんの声は迷いなかった。
「違うな。お前にしか出来ないんだ。知っているだろう――レメゲトン」
懐かしい職名で呼ばれ、心臓が跳ね上がった。
「俺とねえさんが戦場にいた時、お前は暴走したライディーンを一人でとめたはずだ。あの時、王都でライディーンを止められたのはお前一人だったからな」
「でもっ……!」
「今も、お前しかいない」
返す言葉なく、おれは唇を強く噛んだ。
分かってるよ。だってもう、レメゲトンは片手で数えられるかどうかくらいの人数しかいなくなっちゃったんだから。
それだけじゃない。
戦場で、おれ自身が理性を失った時、命を賭してラースの暴走を止めてくれたのはほかでもない、アレイさんだったのだから。
だからきっと、今度はおれがアレイさんを守る番だ。
今回はミリアやウリエルがいたから何とかなったけれど、この先、彼らはおれたちと共に旅立つわけではない。アレイさんと行動を共にしているのはおれ一人。被害を止めるのは、必然的におれ一人ということになる。
「大丈夫だ」
アレイさんは再会した時と同じ言葉を呟いて、笑った。
やっぱり、アレイさんはいじわるだ。
「アレイさんのばか」
おれが断れないことを知ってるくせに、お願いするんだ。
「いいよ。アレイさんが周りのみんなを傷つけそうになったら、必ずおれが引き留めてやる」
アレイさんは誓ってくれた。
絶対に死なない、おれの傍を離れないって。
アレイさんの誓いはおれの誓いだ。
おれは、このヒトと共に在るために、どんなに辛くたって剣をとる。
たとえ、大切なヒトがおれの喉元に切っ先を突きつけようとも。