SECT.10 軍神アレス
審査当日、おれとルゥナーは付き添いにモーリとフェリスを伴って、軍神アレスの居城へと向かった。
フェリスがついていくことに最後までシドは反対したのだが、最悪の事態――たとえば、軍神アレスが敵に回るとか――を考えた場合、フェリスが味方をしてくれるのが最も心強い。
無論、フェリスが味方になるという保証がないとシドは強く主張したが、ヤコブがなんだかんだと理屈をつけてシドを説得していた。
最後に、俺様はいかねぇけどな、と言ったところをみると、自分の役割をフェリスに押し付けたかっただけなのだろう。確かにヤコブがついていてくれると安心感が全く違うけれど、コインをおれが預かっているとはいえ、悪魔と契約しているフェリスがついてきてくれるのなら安心できる。
そうしていつものようにラフな格好で出かけようとしたおれだったのだが、衣裳係のリエッタに止められてしまった。
縫いものと刺繍が趣味のリエッタは、公演の衣装を直す合間、おれのために衣装を繕ってくれていたのだ。
いつものおれの服に近い、黒のショートパンツと黒のチューブトップ。黒に銀色の刺繍をした柔らかな布がまるでマントを広げたように腰のあたりで翻る。それをとめている大きなリボンは、後ろ腰のあたりで蝶結びに。背中は隠したいというおれの要望に合うよう、丈の短い上着を縫ってくれた。上着のデザインは、どこかグリモワール王国騎士団の制服に似ていた。
もしかすると、元漆黒星騎士団のシドが助言したのかもしれない。
両手には、銀色の刺繍をしたオープンフィンガーの長手袋、その上から手の甲だけを隠す篭手を付けた。
両腰にはいつものショートソードを装備したが、この衣装にはしっくりと似合っていた。
全身を黒でまとめたのに、どこか華やかで優雅。
何より、動きやすい。
隣を歩くルゥナーは、ひらひらと翻る淡い水色のワンピース。とてもシンプルだけれど、立ち姿それ自体が完璧なルゥナーはそのくらいがいいのかもしれない。髪はアップにして、濃い色のジャケットが全体を引き締めている。
ケルトの民族衣装に身を包んだモーリと、黒ニットのフェリスが、着き従うように並んでいた。
目の前には、軍神アレスの居城。
大きな白い柱が取り巻く円柱状の建物には、柱に負けず劣らず見上げるような大きな扉がある。
前回は、この扉に阻まれた。
あの時の絶望感が蘇りそうになって、思わず身震いした。
でも、今は会いたいという気持ちの方が強い。
真っ直ぐに扉を見据えた。
今日が踊り子試験の初日だと分かっているせいだろう。
ここへ来るまでも、この扉の前も、見物らしき人々にあふれている。
普段は閑散としている街の細路地でさえ、左右の家の窓から見下ろす人影が絶えなかった。
今も、劇場まで足を運び、応援してくれるといったヒトたちが少し遠巻きに見守ってくれている。ひらひら、と手を振ると、嬉しそうに手を振り返してくれた。
入口には、衛兵さんが二人立っており、踊り子試験に参加する旨を伝えると、横の小さな扉に向かって何かを囁いた。
そして、閉ざされた扉が開かれた。
中をのぞける程度ではなく、自分の身長の何倍もなる高さの扉が歓迎するように大きく動くのだ。
それだけでぞくぞくした。
扉が開いた瞬間、全身を襲った軍神アレスの気配に息をのんだ。
ここは軍神アレスの『場』なんだ。
周囲から歓声が上がる。
「がんばれよ!」
「俺たちがついてるぞ!」
ありがとう、と叫び返し、扉の向こうを見据えた。
「行きましょう、グレイス。遅れてしまうわ」
ルゥナーに促され、ようやく一歩、踏み出した。
アレイさんのもとへと向かうため。
薄暗い通路を真っ直ぐに歩いていくと、急にぱっと目の前が開けた。
「う……わぁ」
思わず感嘆が漏れる。
目の前に広がったのは、黒土をぴっちりと敷き詰めた闘技場だった。
おれの身長の数倍はあろうかという壁が円形にぐるりと周囲を取り囲む。壁は太陽の光を反射して純白に輝き、壁の向こうに整然と並ぶ客席に陽炎をもたらした。
ずっと外から眺めていた軍神アレスの居城に入るのは初めてだった。
ここで、太古から戦士たちがその腕を競ってきたのだと思うと、それだけでぞくぞくした。
気分が高揚する。
今にも剣を抜きはなちたくなるような不思議な感覚。
が、目の前に現れた影に、現実へと引き戻された。
「よ、ミリア」
現れた赤髪の少女に笑いかけると、憮然とした表情をされてしまった。
「何を嬉しそうな顔をしている」
「え、だってさ、軍神アレスの居城に入ったのって初めてなんだ! しかも闘技場に入れるなんて思ってもなかったし。すごいな、この場所」
舞台と同じ、こちらを四方から見下ろしている客席を見渡した。
「此処で戦うかと思うと、わくわくする」
それを聞いたミリアは、眉間にしわを寄せた。
「わくわくする、だと?」
「うん」
腰に差したショートソードに手を当て、目を閉じる。
視覚情報がなくなると、聴覚と、それ以外の感覚が鋭敏になる。
軍神アレスの気配が充満する中に、微かな悪魔の気配の残滓が感じ取れた。
「それに、ここにはおれの大切なヒトがいるんだ。だから、迎えに来た」
最初に会った時、ミリアから感じた気配は、この場所と同じだ。
「ねえ、ミリア。もしかしてミリアはここに住んでるの?」
「……なぜそう思う?」
「最初に会った時……あ、舞台初日の話だよ。あの日、ミリアからこの場所と同じ気配がした」
「気配だと?」
「『軍神アレス』の気配だよ」
それを聞いたミリアは、目を細めた。
「この間はヤコブに邪魔されたから聞けなかったから、もう一回聞くよ」
少し見下ろす位置にある、深紅の瞳を真っ直ぐに見つめて、おれは尋ねた。
「アレイさんはここにいるんでしょ?」
その問いに、ミリアの返答はなかった。
代わりに彼女はおれに近づき、耳元で呟いた。
「お前が本当に『踊り子』になれたら答えてやるよ」
一次審査に参加する『踊り子』候補は全部で50人。
周りを見渡しても奇麗なヒトばかりで、思わずきょろきょろしてしまった。
それも、奇麗なだけじゃない。
誰もかれもが腰や背に武器を負っていた。
「普通の踊り子は私くらいね……予想してた事だけど」
ルゥナーが肩をすくめた。
「やっぱりみんな、強いのかな?」
「そうね。それなりの訓練をしていると思うわ」
武道の心得があるのはなんとなくわかる。
が、いつもアレイさんやマルコシアスさんとばかり組手をしているせいだろうか。とても、負ける気はしなかった。
ただ一人、ミリアだけを除いて。
「一番強そうなのはミリアだな」
そう言うと、後ろに控えていたフェリスが同意した。
「ま、そーだろうな。この中でグレイスと張り合えるかどうかっつったらあの娘くらいだろ」
頷き合っていると、ルゥナーは首を傾げた。
「やっぱり分かるの? 誰が強い、とか、勝てそう、とか」
「そりゃあね。こう見えてグレイス、めちゃくちゃ強いよ。あの戦争で前線に立って、ティファレトを倒したのもディファンクタス牢獄を壊滅させたのも、ダテじゃないんだぜ? ホントならこんなとこで『踊り子』しようとしてる方が間違い。こんなレベルどころかクラス違いの候補が混じってるなんて、審査と関係ないオレっちでも同情しちゃうよ」
「え、じゃあ、あのミリアリュコス=エリュトロンはそのグレイスと同じくらい強いって……」
「そうだねぇ、3年連続で選ばれたただの『踊り子』ってわけにはいかないかもしんないけど」
フェリスの言葉を聞きながら、おれはミリアの気配に集中していた。
この場の気配と、悪魔の気配。
それから、居城を取り巻く軍神アレスの力の流れ――
「もうグレイスはほとんど答えに辿り着いてるみたいだけど?」
「んー、うん、まあね」
あの気配は、『本物』だ。
残滓なんかじゃない。場を引き連れているだけでもない。
どうしてこんなにも力を分散させているのかは分からないけれど。
「何? どういうこと?」
首を傾げるルゥナーに答えを教える前に、大きな太鼓の音が響き渡った。
はっとして客席の音の方向を見ると、赤髪の長身男性が客席から見下ろしていた。
深紅の衣に身を包み、軍神アレスの気配を纏ったその男性は、片側だけを三つ編みにたらし、無表情で『踊り子』候補たちを見渡した。
そして、その背後に佇んでいたのは。
「……アレイさん」
あれほど恋い焦がれた、大切なヒトの姿だった。