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息子が「妻は実務だけしていればいい」と申しますので、嫁は実家にお返ししました

作者: 更田遅筋
掲載日:2026/10/02

「母上。妻はどこに」


 玄関ホールに立った息子は、帽子も脱がずにそう言った。


「返しました」


「は?」


「お返ししました。実家に」


 息子は、壁を見た。先代の肖像画があった場所が、四角く白くなっている。それから階段の脇を見た。花瓶がない。花瓶を置いていた台もない。


「……何があったのです」


「お前の手紙が来ました」


「手紙は、確かに出しましたが」


「書斎にございます。お読みになりますか」


「自分で書いたものです」


「では、覚えておいでですね」


 息子は帽子を脱いだ。受け取る者がいないので、自分で持ったままだった。


(あら。気づいたかしら。いつもなら、ここでバティストが受け取るのに)


 家令のバティストは、今朝の馬車で発った。嫁と一緒に。


◆


 書斎の机には、手紙を一通だけ置いておいた。


 息子は座らずに読んだ。自分の字を、他人の字のように読んでいた。


「……母上」


「はい」


「これは、そういう意味ではありません」


「どういう意味でしたの」


「王都で、ロザンヌ嬢と出会った。この方と生きたい。妻にはこれまで通り屋敷の実務を任せたい。それだけです」


「そう書いてございますね。そのあとも」


 私は指で、下から三行目を示した。


 ――『あれが嫌がるなら、実家に帰してもらっても構わない。母上がいれば十分だ』


「嫌がりましたので」


「……嫌がったのですか」


「ええ。顔には出しませんでしたけれど」


「では、なぜ分かるのです」


「手紙を、あの子に見せました。読み終えて、半日で荷物を詰めました。この家に来てからの荷物が、鞄ひとつ」


 息子は手紙を置いた。置く場所を探して、少し迷った。机の上に、いつもあった書類の束がなかったからだ。


「母上。妻がいなくても、屋敷は回ります」


「はい、お前はそう書きました。母上がいれば十分だ、と」


「ええ」


「私は隠居でございます。あの子が来た年に、全部渡しました」


「渡した、とは」


「鍵と、帳面と、使用人の名前と、冬の越し方を」


 息子は窓の外を見た。十月の空は低い。


「……薪は」


「あの子が十月に手配しておりました。毎年」


「今年は」


「返す前に、あの子が『今年の分はまだです』と申しましたので、そのままにしてございます」


「なぜ手配させなかったのです!」


「返品に、仕事をつけて返すのは礼儀に反しますでしょう」


 息子は口を開けて、閉じた。


(いい顔。あの子を迎えに行った日と同じ顔。あのときは嬉しそうだったけれど)


◆


「返した、と仰いますが、具体的に何を返したのです」


「あの子」


「それは分かっています」


「持参金。使っていなかった分は全額。使った分は、花瓶と銀器と、お前の父の時計で埋めました」


「父の時計を?」


「私の寡婦産でございます。先代が私に遺したものですから、どう使おうと私の勝手。今朝の馬車に積みました」


「肖像画は」


「あれも私のものです。私の荷物として、同じ馬車に」


「馬車は」


「あの子が持参した馬車ですから、あの子のものです」


「厩番は」


「あの子の実家から来た者です。嫁入り道具と一緒に」


「バティストは!」


「同じでございます。お前は存知なかったでしょうけれど」


「……他の者は」


「あの子が雇い、あの子の持参金から給金を払っておりました。雇い主が去るなら、辞めるのが筋でしょう。皆、今朝までに紹介状を受け取っております。書いたのは私です」


 息子は、机に手をついた。


「母上は、嫁を返したのではなく、屋敷を空にしたのではありませんか」


「あら」


 私は少し考えた。


「同じことでしたのね」


「……新しく雇えばいい」


「どなたが」


「私が」


「結構なことです。使用人の給金の相場はご存知?」


「それは、バティストが」


「バティストは今朝、南へ発ちました」


「では、母上が」


「私は隠居でございます」


「母上!」


「お前が『実務』と書いたのです。やってごらんなさい。まず厨房に火を入れるところから。竈の火口が二つございますが、右のほうは煙が戻りますので、左から」


 息子は、厨房がどちらにあるか、一瞬考えた顔をした。


(この子、本当に知らないのね。この家で冬を過ごしたことがないから)


 そのとき、扉が叩かれた。


 開ける者がいないので、私が開けた。


 薪売りのジャンだった。帽子を取って、私の後ろを見た。


「奥様は」


「返しました」


「は?」


「実家に。本日より、伯爵がお受けになります」


 ジャンは息子を見た。息子はジャンを見た。二人とも、相手の名前を知らない顔だった。


「……伯爵様。今年の薪の件で」


「ああ。いくらだ」


「いくら、と申されましても。先に、束の数を」


「去年と同じで」


「去年の数を、ご存知で?」


「…………」


「奥様は毎年、束の数と値段を紙に書いてくださいました。伯爵様がお書きくださるなら、それで結構です」


 ジャンは紙と鉛筆を置いて帰った。


 息子はそれを見て、見なかったことにした。


◆


 そこへ、玄関のほうから声がした。高くて、よく通る声だ。


「ルノー様ぁ、お風呂はどちら? 誰もいないんですけれど」


 息子が目を閉じた。


「……ロザンヌ嬢です」


「お噂は伺っております。王都でお茶会を三つ掛け持ちなさるとか。お忙しい方ですのね」


「母上」


「お風呂は、薪を割って湯を沸かす者がおりませんと、水でございますよ。お伝えになっては」


「母上!」


「はい」


「茶化さないでいただきたい」


「茶化しておりません。事実を申し上げております。お前が『実務』と呼んだものの中身を、ひとつずつ」


 玄関の声は、まだ続いていた。お茶はどなたが。暖炉は誰が。私の荷物は誰が運ぶの。


 誰も、でございますよ。


 足音が近づいて、書斎の扉が開いた。


 金の髪に、旅のほこりがついている。目が大きい。王都で人気が出るのも分かる顔だった。


「ルノー様、ここにいらしたの。……あら、どなた?」


「母だ」


「まあ! お義母様! ロザンヌと申します。ルノー様から、お屋敷のことは全部お義母様がなさっていると伺って――」


「私は隠居でございます」


「え?」


「屋敷は、嫁がやっておりました」


 ロザンヌ嬢の目が、もっと大きくなった。


「……嫁?」


 息子を見た。息子は、帽子を見ていた。


「ルノー様。奥様がいらしたの?」


「……話していなかったか」


「伺っておりません。独り身で、お母様と二人暮らしだと」


(あら。この子にも嘘をついていたのね)


 私はロザンヌ嬢に椅子を勧めた。座る場所があるのは、この部屋だけだったからだ。


「ご安心なさい。嫁は、本日お返ししましたので。今はお前さまと、この子と、私だけ。……私も、夕方には発ちますけれど」


「あの……私、王都に帰ってもよろしいでしょうか」


「馬車は嫁のものでしたので、この家にはございません。けれど夕方、あの子の父上がよこした馬車が私を迎えに来ます。街道までお送りしますから、お乗りなさい」


 ロザンヌ嬢は、息子を見た。長く見た。


 息子は、何も言わなかった。


「……ありがとうございます、お義母様」


「お前さまの義母ではございません。この子とも、本日限りで」


 ロザンヌ嬢は玄関のほうへ戻っていった。荷物を、自分で運ぶ音がした。


◆


「母上は、誰の味方なのですか」


 息子がようやく座った。帽子を膝に置いて、それを見ていた。


「あの子の」


 即答したので、息子が顔を上げた。


「私は、母上の息子ですが」


「ええ。だから言えるのです」


 三年前の冬を、お前は知らない。


 道が閉じて、薬が切れて、使用人の一人の母親が倒れた。あの子は夜中に厩番を叩き起こして、雪の中を谷まで下りた。帰ってきたのは朝で、薬は持っていた。靴は捨てた。


 お前はその冬、王都の夜会で踊っていた。あの子は何も言わなかった。私にも、お前にも。私が知っているのは、靴を捨てた女中から聞いたからだ。


「母上?」


「なんでもありません」


 私は息子の前に立った。立つと、座った息子は小さく見える。昔からそうだった。


「お前が十年かけて覚えなかったことを、あの子は一冬で覚えたのよ。薪の値段も、竈の火口も、誰の母親がいつ倒れるかも。お前は王都で、それを『実務』と書いた。……冬を一度も越したことのない男が、冬を越した女を実務と呼ぶんじゃないよ、この馬鹿息子」


 言ってから、息を整えた。


 あら。出てしまったわ。嫁の前では、一度も出さなかったのに。


 息子は、何も言わなかった。言えなかったのだと思う。


◆


「それで、母上はこれからどうなさるのです」


「参ります」


「どこへ」


「あの子の実家に。嫁の母として呼ばれておりますので」


「母上の嫁ではありません。私の妻です」


「元、でしょう。手紙にそう書いたのは、お前ですよ」


「私はまだ、離縁の書類に署名していません」


「あの子の父上が、来週いらっしゃいます。書類を持って。署名なさい。あの方は商人ですから、話が早いですよ」


「断ります」


「では、冬を越しなさい。……お風呂は水ですけれど」


 息子は帽子を握った。帽子は、形が崩れた。


「……妻を返してください」


「返しましたのは、こちらでございます」


「違う。取り戻したい、と言っているのです」


 私は玄関のほうを見た。荷物を運ぶ音は、もう止んでいた。


「取り戻したいなら、あの子の実家に頭を下げに行きなさい。門番は、あの子が選んだ者ですよ。お前の顔を覚えているかどうか、私は存じません」


 それから、荷物を取りに部屋へ戻った。鞄はひとつ。あの子がこの家へ来た日と、同じ数だった。


 玄関ホールに、ロザンヌ嬢が立っていた。足元に鞄。手に、空の薪籠。


「お義母様。これ、どこに置けばいいんですか」


「存じません。置いて、お乗りなさい」


 ロザンヌ嬢は薪籠を床に置いた。


 馬車が門を出るまで、息子は玄関に出てこなかった。


◆


 ――北の屋敷。初雪の朝。


 ルノーは厨房に立っていた。


 竈の火口は二つあった。右と左。


 どちらだったか。


 去年の残りの薪を抱えて、右に火を入れた。煙が戻ってきた。咳が出た。


 ――右のほうは煙が戻りますので、左から。


 母の声が、煙と一緒に戻ってきた。


 左に火を入れた。火はついた。鍋ひとつ分の湯が沸くまで、ルノーは竈の前に座っていた。


 ロザンヌは王都に帰った。手紙は一通も来ない。


 母は南にいる。手紙は、来るはずがない。


 薪売りの紙は、まだ白いまま机にある。去年の束の数を、ルノーは知らなかった。訊く相手も、もういなかった。


 湯が沸いた。


 ルノーは書斎に戻って、便箋を出した。


 宛名に妻の名を書こうとして、綴りを一度、間違えた。


 十年、呼んでいなかった名だった。


◆


 ――南の町。あの子の実家。


 秋の終わりで、まだ暖かい。


 台所で、アニエスが茶を淹れている。女中が二人いるのに、自分で淹れる。癖なのだ。


 アニエス。北の屋敷では、誰もその名を呼ばなかった。息子が呼ばなかったから、私も合わせていた。合わせるべきではなかったと、今は思う。


「お義母様。お聞きしてもよろしい?」


「ええ」


「本当に、私を返したと仰ったの?」


「言いました」


 アニエスは少し笑った。


「ひどい言い方」


「お前の母上にも、そう言われました」


 アニエスの母上は、玄関で私を迎えて、開口一番こう仰った。


「返品など、受け付けておりません。うちは娘を貸しただけ。期限が来たので引き取りました。あなたは、きちんと返しに来てくださった方」


 それで私は、この家の客ではなく、家族の席に通された。


 そのあとで、母上は声を落とした。


「縁談の話なら、もう三つ。離縁の書類が整うまで、と待たせてあります。それに、この子が冬を見てから決めると言うので」


 冬を見てから。北の冬を越した女の言うことである。


「ねえ、お義母様」


「なあに」


「あちらの冬、どうなるのかしら」


「存じません」


 アニエスは茶を置いた。熱かった。湯気で睫毛が湿るくらいの。この子はずっと、この温度で淹れていた。


「……心配?」


「いいえ」


 アニエスは、窓の外の、まだ青い空を見た。


「私、冬が嫌いでしたの。ずっと」


「知っておりました」


「ご存知でしたの」


「ええ。だから返しました」


 アニエスは笑った。息子の前では一度も見せなかった笑い方だった。


 ――息子から手紙が来たのは、南に木枯らしが吹きはじめた頃だった。


 私は読まずに、アニエスに渡した。


 アニエスも読まなかった。宛名を見て、「綴りが違うわ」とだけ言って、暖炉にくべた。


 よく燃えた。


 南の冬は、短い。

最後まで読んでいただきありがとうございます。

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