息子が「妻は実務だけしていればいい」と申しますので、嫁は実家にお返ししました
「母上。妻はどこに」
玄関ホールに立った息子は、帽子も脱がずにそう言った。
「返しました」
「は?」
「お返ししました。実家に」
息子は、壁を見た。先代の肖像画があった場所が、四角く白くなっている。それから階段の脇を見た。花瓶がない。花瓶を置いていた台もない。
「……何があったのです」
「お前の手紙が来ました」
「手紙は、確かに出しましたが」
「書斎にございます。お読みになりますか」
「自分で書いたものです」
「では、覚えておいでですね」
息子は帽子を脱いだ。受け取る者がいないので、自分で持ったままだった。
(あら。気づいたかしら。いつもなら、ここでバティストが受け取るのに)
家令のバティストは、今朝の馬車で発った。嫁と一緒に。
◆
書斎の机には、手紙を一通だけ置いておいた。
息子は座らずに読んだ。自分の字を、他人の字のように読んでいた。
「……母上」
「はい」
「これは、そういう意味ではありません」
「どういう意味でしたの」
「王都で、ロザンヌ嬢と出会った。この方と生きたい。妻にはこれまで通り屋敷の実務を任せたい。それだけです」
「そう書いてございますね。そのあとも」
私は指で、下から三行目を示した。
――『あれが嫌がるなら、実家に帰してもらっても構わない。母上がいれば十分だ』
「嫌がりましたので」
「……嫌がったのですか」
「ええ。顔には出しませんでしたけれど」
「では、なぜ分かるのです」
「手紙を、あの子に見せました。読み終えて、半日で荷物を詰めました。この家に来てからの荷物が、鞄ひとつ」
息子は手紙を置いた。置く場所を探して、少し迷った。机の上に、いつもあった書類の束がなかったからだ。
「母上。妻がいなくても、屋敷は回ります」
「はい、お前はそう書きました。母上がいれば十分だ、と」
「ええ」
「私は隠居でございます。あの子が来た年に、全部渡しました」
「渡した、とは」
「鍵と、帳面と、使用人の名前と、冬の越し方を」
息子は窓の外を見た。十月の空は低い。
「……薪は」
「あの子が十月に手配しておりました。毎年」
「今年は」
「返す前に、あの子が『今年の分はまだです』と申しましたので、そのままにしてございます」
「なぜ手配させなかったのです!」
「返品に、仕事をつけて返すのは礼儀に反しますでしょう」
息子は口を開けて、閉じた。
(いい顔。あの子を迎えに行った日と同じ顔。あのときは嬉しそうだったけれど)
◆
「返した、と仰いますが、具体的に何を返したのです」
「あの子」
「それは分かっています」
「持参金。使っていなかった分は全額。使った分は、花瓶と銀器と、お前の父の時計で埋めました」
「父の時計を?」
「私の寡婦産でございます。先代が私に遺したものですから、どう使おうと私の勝手。今朝の馬車に積みました」
「肖像画は」
「あれも私のものです。私の荷物として、同じ馬車に」
「馬車は」
「あの子が持参した馬車ですから、あの子のものです」
「厩番は」
「あの子の実家から来た者です。嫁入り道具と一緒に」
「バティストは!」
「同じでございます。お前は存知なかったでしょうけれど」
「……他の者は」
「あの子が雇い、あの子の持参金から給金を払っておりました。雇い主が去るなら、辞めるのが筋でしょう。皆、今朝までに紹介状を受け取っております。書いたのは私です」
息子は、机に手をついた。
「母上は、嫁を返したのではなく、屋敷を空にしたのではありませんか」
「あら」
私は少し考えた。
「同じことでしたのね」
「……新しく雇えばいい」
「どなたが」
「私が」
「結構なことです。使用人の給金の相場はご存知?」
「それは、バティストが」
「バティストは今朝、南へ発ちました」
「では、母上が」
「私は隠居でございます」
「母上!」
「お前が『実務』と書いたのです。やってごらんなさい。まず厨房に火を入れるところから。竈の火口が二つございますが、右のほうは煙が戻りますので、左から」
息子は、厨房がどちらにあるか、一瞬考えた顔をした。
(この子、本当に知らないのね。この家で冬を過ごしたことがないから)
そのとき、扉が叩かれた。
開ける者がいないので、私が開けた。
薪売りのジャンだった。帽子を取って、私の後ろを見た。
「奥様は」
「返しました」
「は?」
「実家に。本日より、伯爵がお受けになります」
ジャンは息子を見た。息子はジャンを見た。二人とも、相手の名前を知らない顔だった。
「……伯爵様。今年の薪の件で」
「ああ。いくらだ」
「いくら、と申されましても。先に、束の数を」
「去年と同じで」
「去年の数を、ご存知で?」
「…………」
「奥様は毎年、束の数と値段を紙に書いてくださいました。伯爵様がお書きくださるなら、それで結構です」
ジャンは紙と鉛筆を置いて帰った。
息子はそれを見て、見なかったことにした。
◆
そこへ、玄関のほうから声がした。高くて、よく通る声だ。
「ルノー様ぁ、お風呂はどちら? 誰もいないんですけれど」
息子が目を閉じた。
「……ロザンヌ嬢です」
「お噂は伺っております。王都でお茶会を三つ掛け持ちなさるとか。お忙しい方ですのね」
「母上」
「お風呂は、薪を割って湯を沸かす者がおりませんと、水でございますよ。お伝えになっては」
「母上!」
「はい」
「茶化さないでいただきたい」
「茶化しておりません。事実を申し上げております。お前が『実務』と呼んだものの中身を、ひとつずつ」
玄関の声は、まだ続いていた。お茶はどなたが。暖炉は誰が。私の荷物は誰が運ぶの。
誰も、でございますよ。
足音が近づいて、書斎の扉が開いた。
金の髪に、旅のほこりがついている。目が大きい。王都で人気が出るのも分かる顔だった。
「ルノー様、ここにいらしたの。……あら、どなた?」
「母だ」
「まあ! お義母様! ロザンヌと申します。ルノー様から、お屋敷のことは全部お義母様がなさっていると伺って――」
「私は隠居でございます」
「え?」
「屋敷は、嫁がやっておりました」
ロザンヌ嬢の目が、もっと大きくなった。
「……嫁?」
息子を見た。息子は、帽子を見ていた。
「ルノー様。奥様がいらしたの?」
「……話していなかったか」
「伺っておりません。独り身で、お母様と二人暮らしだと」
(あら。この子にも嘘をついていたのね)
私はロザンヌ嬢に椅子を勧めた。座る場所があるのは、この部屋だけだったからだ。
「ご安心なさい。嫁は、本日お返ししましたので。今はお前さまと、この子と、私だけ。……私も、夕方には発ちますけれど」
「あの……私、王都に帰ってもよろしいでしょうか」
「馬車は嫁のものでしたので、この家にはございません。けれど夕方、あの子の父上がよこした馬車が私を迎えに来ます。街道までお送りしますから、お乗りなさい」
ロザンヌ嬢は、息子を見た。長く見た。
息子は、何も言わなかった。
「……ありがとうございます、お義母様」
「お前さまの義母ではございません。この子とも、本日限りで」
ロザンヌ嬢は玄関のほうへ戻っていった。荷物を、自分で運ぶ音がした。
◆
「母上は、誰の味方なのですか」
息子がようやく座った。帽子を膝に置いて、それを見ていた。
「あの子の」
即答したので、息子が顔を上げた。
「私は、母上の息子ですが」
「ええ。だから言えるのです」
三年前の冬を、お前は知らない。
道が閉じて、薬が切れて、使用人の一人の母親が倒れた。あの子は夜中に厩番を叩き起こして、雪の中を谷まで下りた。帰ってきたのは朝で、薬は持っていた。靴は捨てた。
お前はその冬、王都の夜会で踊っていた。あの子は何も言わなかった。私にも、お前にも。私が知っているのは、靴を捨てた女中から聞いたからだ。
「母上?」
「なんでもありません」
私は息子の前に立った。立つと、座った息子は小さく見える。昔からそうだった。
「お前が十年かけて覚えなかったことを、あの子は一冬で覚えたのよ。薪の値段も、竈の火口も、誰の母親がいつ倒れるかも。お前は王都で、それを『実務』と書いた。……冬を一度も越したことのない男が、冬を越した女を実務と呼ぶんじゃないよ、この馬鹿息子」
言ってから、息を整えた。
あら。出てしまったわ。嫁の前では、一度も出さなかったのに。
息子は、何も言わなかった。言えなかったのだと思う。
◆
「それで、母上はこれからどうなさるのです」
「参ります」
「どこへ」
「あの子の実家に。嫁の母として呼ばれておりますので」
「母上の嫁ではありません。私の妻です」
「元、でしょう。手紙にそう書いたのは、お前ですよ」
「私はまだ、離縁の書類に署名していません」
「あの子の父上が、来週いらっしゃいます。書類を持って。署名なさい。あの方は商人ですから、話が早いですよ」
「断ります」
「では、冬を越しなさい。……お風呂は水ですけれど」
息子は帽子を握った。帽子は、形が崩れた。
「……妻を返してください」
「返しましたのは、こちらでございます」
「違う。取り戻したい、と言っているのです」
私は玄関のほうを見た。荷物を運ぶ音は、もう止んでいた。
「取り戻したいなら、あの子の実家に頭を下げに行きなさい。門番は、あの子が選んだ者ですよ。お前の顔を覚えているかどうか、私は存じません」
それから、荷物を取りに部屋へ戻った。鞄はひとつ。あの子がこの家へ来た日と、同じ数だった。
玄関ホールに、ロザンヌ嬢が立っていた。足元に鞄。手に、空の薪籠。
「お義母様。これ、どこに置けばいいんですか」
「存じません。置いて、お乗りなさい」
ロザンヌ嬢は薪籠を床に置いた。
馬車が門を出るまで、息子は玄関に出てこなかった。
◆
――北の屋敷。初雪の朝。
ルノーは厨房に立っていた。
竈の火口は二つあった。右と左。
どちらだったか。
去年の残りの薪を抱えて、右に火を入れた。煙が戻ってきた。咳が出た。
――右のほうは煙が戻りますので、左から。
母の声が、煙と一緒に戻ってきた。
左に火を入れた。火はついた。鍋ひとつ分の湯が沸くまで、ルノーは竈の前に座っていた。
ロザンヌは王都に帰った。手紙は一通も来ない。
母は南にいる。手紙は、来るはずがない。
薪売りの紙は、まだ白いまま机にある。去年の束の数を、ルノーは知らなかった。訊く相手も、もういなかった。
湯が沸いた。
ルノーは書斎に戻って、便箋を出した。
宛名に妻の名を書こうとして、綴りを一度、間違えた。
十年、呼んでいなかった名だった。
◆
――南の町。あの子の実家。
秋の終わりで、まだ暖かい。
台所で、アニエスが茶を淹れている。女中が二人いるのに、自分で淹れる。癖なのだ。
アニエス。北の屋敷では、誰もその名を呼ばなかった。息子が呼ばなかったから、私も合わせていた。合わせるべきではなかったと、今は思う。
「お義母様。お聞きしてもよろしい?」
「ええ」
「本当に、私を返したと仰ったの?」
「言いました」
アニエスは少し笑った。
「ひどい言い方」
「お前の母上にも、そう言われました」
アニエスの母上は、玄関で私を迎えて、開口一番こう仰った。
「返品など、受け付けておりません。うちは娘を貸しただけ。期限が来たので引き取りました。あなたは、きちんと返しに来てくださった方」
それで私は、この家の客ではなく、家族の席に通された。
そのあとで、母上は声を落とした。
「縁談の話なら、もう三つ。離縁の書類が整うまで、と待たせてあります。それに、この子が冬を見てから決めると言うので」
冬を見てから。北の冬を越した女の言うことである。
「ねえ、お義母様」
「なあに」
「あちらの冬、どうなるのかしら」
「存じません」
アニエスは茶を置いた。熱かった。湯気で睫毛が湿るくらいの。この子はずっと、この温度で淹れていた。
「……心配?」
「いいえ」
アニエスは、窓の外の、まだ青い空を見た。
「私、冬が嫌いでしたの。ずっと」
「知っておりました」
「ご存知でしたの」
「ええ。だから返しました」
アニエスは笑った。息子の前では一度も見せなかった笑い方だった。
――息子から手紙が来たのは、南に木枯らしが吹きはじめた頃だった。
私は読まずに、アニエスに渡した。
アニエスも読まなかった。宛名を見て、「綴りが違うわ」とだけ言って、暖炉にくべた。
よく燃えた。
南の冬は、短い。
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