花の盛り
梅は 咲いたか
桜は まだかいな
柳ゃ なよなよ 風 しだい
山吹ゃ 浮気で
色ばっかり しょんがいな
置き屋の離れから、三味線をつま弾く音と、艶やかながらもわずかに掠れた声の端唄が聞こえてきた。
髪結いの佐吉は座敷で、芸者の小菊の髪を結っていた。座敷に出る前には、いつも佐吉に髪を結い直してもらうのが、小菊の常だ。
「あれは、梅若ねえさんの声だね?」
佐吉は、鏡台越しに小菊の顔を覗き込んだ。小菊の艶やかな黒髪は佐吉の手の中で川の流れのように梳かれている。小菊はその心地よい感触に眠気を誘われているようだったが、佐吉の声にふと目を開けた。
「……ああ、そうだよ」
小菊はそう言ってまた目を閉じた。
「相変わらず、いい声してるねぇ……梅も桜ももう終わっちまったけど」
佐吉の言葉に、小菊は小さく笑った。
「山吹はこれからだよ……ああ、もう。眠たくってしょうがない。佐吉さんの手は本当に、気持ちいいねぇ…」
独り言のように呟く。
「小菊ねえさん、寝ちゃあ困りますよ。後には市桃が控えてるんだから」
「わかってるよ。せかすんじゃないよ。無粋だねぇ、佐吉さんは」
小菊はぷっと頬を膨らませてみせた。丸顔で愛嬌のある小菊はこの置き屋では二番手の売れっ子だ。市桃はまだ座敷に上がったばかりの若い芸妓である。ちなみに、一番の売れっ子は、この端唄を歌っている梅若であった。ここの置き屋の芸妓は皆、花の名前を付けている。
「ところで、梅若ねえさん、落籍されるんだって?」
「……耳が早いね」
「最近、あまり座敷に上がらなくなったじゃないですか。とんと、私もご無沙汰で」
小菊は小さく笑った。
「日本橋の大店の若旦那。ずいぶん、姉さんに入れあげてさ。大旦那と大喧嘩して、蔵に十日も閉じ込められて、通えなくなったりしてさ。しまいには、近松みたいに心中してやるって旦那さんを脅したらしいよ」
「入れ込みましたねぇ。梅若姉さんを狙ってる旦那方は多いでしょうけど、そんだけ大事に思われてるんなら、姉さんも本望でしょうよ。めでたい話じゃないですか」
佐吉の言葉に小菊は目をつぶったまま、小さく笑った。
「どうだかね。……知ってる? 姉さんには、情夫がいたんだよ」
佐吉の手が止まる。
「そりゃあ、そこまで思い込まれたら、女としちゃあ、倖せなんだろうけど、ねぇ」
小菊は目をつぶったまま、呟く。
「いい男だったんだって。幼馴染で……。年季が明けたら一緒になるはずだったって」
「……年季明けって」
「来年くらいじゃなかったかな」
「もうちょっとじゃないですか」
「そうだねぇ。でも、死んじまったらしょうがないやね」
「……」
佐吉は小菊の髪を紐で縛った。
「しばらくお座敷にも出られないくらい、姉さん、落ち込んじまって」
「そりゃあ、そうでさね……」
「姉さん、ずっと、あの唄、弾いてたよ」
「梅は咲いたか?」
「そう。情夫が好きだったんだって」
佐吉は流れてくる三味とまもなく落籍される芸妓の端唄を聴きながら、小菊の髪を島田に結い上げた。
「花の命は短いからねぇ。咲いてる間に摘んでもらえたら、それはそれで倖せかもしれないけれど」
「小菊姉さんは、どうなんです?」
佐吉は一筋の後れ毛を掬い上げた。
沈黙が流れ、ふと、佐吉は目を上げると、鏡越しに小菊と目が合った。小菊の目が、わずかに笑ったように見えた。
「さて、どうだろうね。……あたしは、座敷が好きだよ。毎日座敷に出て、三味弾いて、唄って、踊って、男を喜ばせて。そして、次の日に、佐吉さんに髪を結ってもらって」
「……」
佐吉は黙って、掬い上げた後れ毛を島田に納めて、丁寧に櫛で撫でつけた。
艶やかな黒髪、白いうなじ、ふっくらした耳たぶ。ほんのちょっと指を伸ばせば、その滑らかな白い肌に触れることは出来るだろう。しかし、それが許されないことは花街の者にとっては周知のことだ。目の前の小菊の全てが、美しく、儚く見えた。
「小菊姉さんは、山吹だね」
「なに言ってんだよ。失礼な。浮気もんじゃないよ、あたしは。いつまでもどこまでも、咲き誇るんだよ」
小菊の声は笑っていたが、目は絡みつくように佐吉を捉えていた。佐吉はしばらくその瞳を見つめていたが、やがて、ゆっくりと視線を落とした。
「……だったら、あたしも、せいぜい励みますよ。毎日姉さんが咲き誇れるよう」
佐吉は小菊の肩に掛けてあった手拭いをゆっくりと外した。
「頼んだよ、佐吉さん」
小菊はすっと立ち上がった。佐吉の横を通り過ぎる時、風になびく柳のように佐吉の肩に触れていった。
梅は咲いたか……
桜はまだかいな……
了
十年以上ぶりに創作してみました。なぜか時代物を書きたくなり、ふんわりと脳裏に浮かんだ光景を短い短いお話に仕上げてみました。美しく儚い、でも、したたかでたくましい。そんな女性が、私は大好きみたいです。深夜のラジオドラマにしてみたい、ささやかな作品です。




