第四話「一瞬の勇気」
――入りたくない。
僕は猛烈にそう思った。
ここに入りたくない。それだけが頭を支配していた。
校門を前に、淡い明るい気分が一瞬で消えた。
心の奥で膿んでいた暗い感情が、じわじわと体を支配していく。
まるで、泥を塗られているような、蝋で固めらているような感覚。
上から楽しい記憶で押さえつけていた感情が、悍ましい気配と共に、体に染み込む。
どうしようもなく、僕はその場に縫い留められた。
忘れたかった記憶が、感情が、膿の隙間から顔を出そうとしていた。
――突如、手が掴まれた。
「なにしてるの? いくよ」
呼吸の仕方すら忘れていた僕の足が、驚くほど素直に、彼女の方へと動いた。
「えっ......」
無理矢理、境界を越えさせられるように手を引かれていた。
気づけば、もう下駄箱の前だった。
――あれ? 越えられてる。
校内に対して抱いていた感情は嘘のよう晴れて、目の前には不思議そうな顔で僕を見つめる古見さんだけがいた。
もちろん、顔を出した鬱感情が引っ込んだわけではないけれど、自分では決して踏み出せなかったであろう一歩は彼女によってすごくあっさりと達成した。
「古見さん......僕.......」
相変わらず不思議そうな顔をしたまま古見さんは言った。
「なに? 部活終わるまでに済ませたいから止まったりしないでね」
体についた泥を払うように僕は返事をする。
「うん」
彼女が何者なのか、僕にはまだわからない。でも、僕が壊れないでいられるのは、今は彼女のおかげだった。
久しぶりの学校は特に変化もなく、いつも通りだった。
僕はまるで初めて学校に来たかのように、キョロキョロと忙しなく辺りを見渡した。
古見さんはそんな僕の様子を不思議そうに見つめていた。
「何か気になる?」
「いや、別に」
僕は誤魔化す。なぜだか、古見さんには僕が不登校だった事実を知られたくなかった。
ふと、僕はプリントが机の中に溜まっているであろうことを思い出した。
夏休みの宿題もそこにあるのだろう。
「古見さん。クラスに忘れ物取りに行きたいんだけど......」
「ついていかないよ。一人で行けるでしょう?」
確かに普通はそうなんだけれど......。今の僕に古見さんに素直に言える強さはなかった。
きっと、校門を超えられたようにクラスにだって目を瞑れば入れるだろう。
「わかりました.......」
弱々しく返事をした僕は、古見さんの背中に見送られながら教室へと向かった。