第三十七話「逃走」
「砂藤さん......」
砂藤さんが生きていた。首を裂かれて倒れた彼女が生きていた。
「よかった、よかった」
ただその言葉だけを復唱する。
「大袈裟よ」
彼女はそう言って首についた血を拭った。血を拭い、あらわになった首元には一本の赤い線が見える。てっきりもっと深い傷だと思っていた僕はほっと胸を撫で下ろした。先ほど切られたばかりにも関わらず、もう傷跡から血は流れていない。深く見えたのは僕の錯覚だった。
砂藤さんが何かを見て、驚く。
「避けろっ」
反射的に身をそらした。その目の前を、小さなナイフが通り過ぎる。死ぬところだった。あれに当たってたと思うと悪寒が止まらない。
避けたのも束の間、僕はそのままバランスを崩し、勢いよく背中を打ちつけた。背中がジンジンと痛む。
市松さんが一人の襲撃者の足を蹴り、僕への進行を咎めながら叫んだ。
「早く! どこか遠くへ」
そう言った直後、彼の目線は砂藤さんの首元へ移る。たった一本の線。その傷をみて何を思ったのか、明らかに不審な表情を浮かべたのが見えた。
「ごめん」
咄嗟にそう言った。それすら言いたくなかった。こういうとき、本当は「ありがとう」というべきなんだろうけど、そんなことよりも申し訳なさが勝つ。何も持っていない僕はただ守られるだけで、そんな僕が狙われ、無防備でいるせいで彼らは苦労しているんだ。だというのに僕としたら悩んでその場に立ち止まっていた。いつまで彼らを苦しめるんだ——と、僕は自分に言い聞かせる。そうだ。これ以上迷惑をかけられない。
——そのためには、逃げないと。
足に思い切り力を込めて、僕は走り出した。自分でも驚くほど早く、風を感じながら走った。走るたびに再び人がいない事実を不気味に思った。先ほどまでのざわめきは? 人々は? 家族連れはどこに行ったんだよ。見える限り全てのテナントは明るいだけで人はいない。遠くに見えるゲームセンターも、クレーンゲームから聞こえる明るい声だけが響いている。あの時と同じだ。あの、最初に襲撃者が攻めてきた時と。
それに、砂藤さんの傷は明らかに不自然だ。あの時刀はもっと深く、抉り取るような軌道を描き、それ相応の血が舞った。なのに、起き上がった砂藤さんは生き生きとしていて、ただのかすり傷程度におさまっている。首を刀で切られてあの程度で済むわけがない。また、権限なのか——
地面が大きく振動した。
振り向くと、ハンマーを持った襲撃者が地面が割れるほど踏み切って跳躍し、宙を舞っている。嘘だろ、と僕は思った。都合のいい時だけ、敵にはフィクションが味方をして、本当に嫌になる。こんなの対処法なんてないじゃないか。
僕はただ、無我夢中で走った。手段がなくても、絶望したとしても、彼らの努力を裏切りたくはない。精一杯足掻いた、その結果が欲しかった。




