第一話「夏の代名詞と理不尽な君」
蝉の合奏のうるささに鬱陶しくなり瞼を開ける。
目の前に広がっていたのは、血みどろの地面でも、空の彼方でもなく、見慣れた自室の天井だった。机の上に“遺書”と書かれた封筒が丁寧に置かれていることを除けば、いつも通りの朝だった。
枕元にある携帯を触り起こし、時間を見る。7月21日、5時32分。なんらいつもと変わらない朝だから欲望のままルーティーンとなっている二度寝をしようと思ったけれど、面倒な事を思い出し、嫌々駄々を捏ねる体を起こした。
そうだ......遺書。
おそらく母親は僕の部屋に入ってこないだろうし、そもそもすでに仕事にいってるだろうから放置しておいても問題ないのだけれど、ばれた時の対応があまりにもめんどくさい。せっかくやめたのにもう一度終わらせたくなるぐらいだ。
あまり文才がない僕が一所懸命書いた文章を誰にも見られずに捨てるというのは僕がかわいそうだったが、そんな気持ちと共にハサミで切り刻みゴミ箱に捨てた。念の為切り刻む前にシャーペンで塗りつぶしておいたのでここまですればバレる事はないだろう。
一仕事終えて一息ついているとスマホが鳴った。古見さんからのメッセージがきていた。
――ああそうだ。忘れてた。
昨日の出来事。死ぬ直前に肩を掴まれ、世界の仕組みを語られて、生き延びた理由。
僕は、必要だと言われて、ここに残ったんだった。
ロック画面に雑に0を連打してパスワードを解除し、LaInの通知を確認する。
「早速だけど、今日からバグを探して欲しい」
デバッカーになった気分だ。いや、間違ってないか。現実世界のデバッカーだ。
正直、バグならもうとっくにたくさん見つけてるんだけどな。この世界、バランス調整って概念あるのか? きっと社員は全員窓際にいるのだろう。
なんと返信しようか迷いながら戸棚から保存していた菓子パンを取り出し袋を開ける。砂糖の甘い匂いが鼻をくすぐった。
……お腹が空いてる。なんだか久しぶりの感覚だった。
生きる意味があるだけでこんなにも意欲が湧くことに少し驚いた。
でも、昨日まで自堕落な生活を送っていた人間に外にでて仕事をしろと?
昨日まで死にたがってた人に? 段階というものがあるだろう。
めんどくさいな。後で返信しよう。
僕はLAINを閉じ、慣れた手つきでSNSを開いた。
僕が数年かけて調教してきたタイムラインには、イラスト、ジョーク、動画、日常の愚痴が延々と流れてくる。
古見さんに合わなくともSNSを見る事が僕の生きる理由になっていたのかもしれない。
カサカサの菓子パンを頬張りつつ、働き者の親指を働かせていると、突如インターホンの音が部屋に響いた。おそらく宅配か何かだろう。母親がまだ家にいるなら対応してくれるはずだし、いなければ置き配にしてくれるだろう。そう思って無視する。
再び手元に視線を落とした時、またインターホンの音が鳴った。今度は連続して3回も。
もしかして......と思い僕は自室の扉を開け、玄関へと向かう。嫌な予感は的中した。
画面には昨日と同じような目立つ格好をした古見さんが立っていた。
「どうして無視するわけ?」
玄関先で僕は詰められていた。たかだ数十分じゃないか。少し返事が遅かっただけで相手の家までくるとは誰も想像つかないだろう。
「いや、無視したわけじゃないんだ。なんて返事をしようか悩んでいただけで」
「でも君、SNS見てたでしょ」
内心驚く。やはり、僕にプライバシーという概念は存在しないのだろう。
「それも権限か?」
「違う。ただの勘。やっぱりそうだったのね」
しまった。完全に相手の術中だ。
――というか、そもそもどうやって僕の住所を知ったんだ?
「古見さん。そもそもどうして僕の住所がわかったんだ? 教えたつもりはないんだけど」
「ああ、ごめんなさい。それは権限」
やっぱりだ。僕にプライベートはないようだ。恐ろしい女だ。
「このまま待ってたら日が暮れそうだったから。仕方がなかった」
あまりに正確な予想に僕の反論は霧のように消えていった。
「そうかもしれない。でも考えてみてよ。昨日まで死のうとしてた人間が次の日から急に元気になると思う?」
「思わない。でもこの世界を救える。この物語の主人公になれるって思ったらやる気出るかなって思ったの」
「確かに、気は楽になったけど。それとこれは別だろ?」
「そう。じゃあ、早速行くよ」
何が“じゃあ”だ。何も解決していない。
神に目をつけられるとどうやら逃げ場はどこにもないようだ。もしかしたら趣味も、日々のささやかな楽しみすらも、覗き見られているのかもしれない――そう思いながら、僕は眉を顰めた。
炎天下の中溶けそうになりながら歩く。あの後、僕は仕方なく着替えを済ませこの強引な権限女についていった。初めて「基本的人権」の重みを実感した。
夏が好きだなんて言える奴の神経が、僕にはどうにも理解できない。暑いだけだろう? 重ね着すればなんとかなる冬よりもよっぽどタチが悪い。毎年皮膚を脱ぎたいぐらいだ。僕の白い肌は太陽光を吸収して悲鳴を上げている。冬までにはめくれてなくなっているかもしれない。
「あのさ、聞きたいことがあるんだけど」
「なに? 枢木君」
「古見さんは権限を持ってるんでしょう? それなら古見さんが一人で見ればいいじゃないか。それか手分けして探したほうがいいんじゃないか?」
古見さんは視線を逸らし少し悩む仕草をすると、再び僕の目をまっすぐ見直して口を開いた。
「そもそも君は一人ではなにもしないでしょう。あと、私の権限は万能じゃないの」
「君って、全人類の情報が手に取るようにわかるんじゃなかったっけ?」
「それはそうだけど、権限を持ってる私にもこの世界のバグは認知できないの」
「僕の権限と古見さんの権限は違うってこと」
「厳密にいうとそう。私は世界に少し干渉できるけど、それでも“住人”だから、世界の当たり前を疑うことはできない」
権限といってもそこまで万能じゃないようだ。僕は少し安心する。
「じゃあどうして僕はそんなお気に入りの君すら持っていない権限を持っているんだ?」
「わからない。一種のバグだろうね」
これもバグか。やっぱり僕は元々は主人公じゃなかったってことか? つくづく、嫌になる。
「バグなら君が直せるんじゃないの」
「言ったでしょう。個体個体を私は弄れない。しかも君のバグは思っているよりも複雑なの」
社会不適合者すぎて世界からも外されたってわけか? 深くため息をつき、気分転換のために辺りを見渡す。変な女子と並んで歩く道はいつもの通学路とは違って見えた。青い空も、たまに見かける野良猫も、公園も。
夏の暑苦しい空気と"静かな"街に流れる風の切る音。これぞ夏。これぞ青春だ、というとても僕には似つかない場面だと感じた。
「ところで枢木君。違和感は見つかりそう?」
「1つ見つけた」
古見さんの無表情にわずかな動きが生まれる。眉が、すこし上がった。
「僕が、女子と一緒に通学路を歩いてるってこと」
「……ふざけないで」
眉はすぐに釣り上がった。僕の渾身の冗談はお気に召さなかったらしい。
冗談抜きにそれぐらいしか非日常感はない。いつも通り夏は静かだし、鬱陶しいほど暑いし。
でも、朝は少し違ったかもしれない。蝉の声に起こされたと思ったら次はプライバシーを知らない女子に強制的に連れ出された。こんな夏になるだなんて思いもしなかった。
待てよ。
――僕は何に起こされた?
思考を遡る。女の子に連れ回され、その前には珍しく人からメッセージが届いて……。どうやって起きたんだっけ。
何かがおかしい。明確な違和感。何かが脳に引っかかる。
なんだ、何がおかしい?
それ以降、何か違和感を覚えた場面はあったか?
連れ出され、会話をし、夏を感じた。
夏はいつも通り静かで、空は鬱陶しいほど青くて......。
――いつも通り静かで?
おかしい。夏は......うるさいはずだ。
待て、夏はなんでうるさいんだ。
「古見さん。違和感が、見つかった」
「もう冗談はいいから」
「冗談じゃない。本当に感じてるんだ。でも、頭に引っかかってでてこない」
「本当? 教えて」
僕は鈍った頭に鞭を打って必死に考える。どうにも引っかかって答えが出てこない。すぐそこまで、手が届く範囲に答えがあるはずなのに。緊緊張で出る生あくびのようで、引っ込んだくしゃみのような、得体の知れない不快感が頭を支配する。
夏は何かうるさいはずなんだ。子供の声か? 違う。風の音か? 違う。何か、別の、生き物が放つ、自然の音。
――思い出した。
「蝉......」
僕はつぶやく。と同時に頭の靄は急激に晴れる。夏は蝉がうるさいはずだ。今朝もそれに起こされた。夏の代名詞である蝉が、なぜ抜け落ちていたのか。これが......バグなのか。
「セ......ミ?」
古見さんはまたもや眉を顰めている。どうしたんだ? 蝉は知ってるだろう。
「蝉だよ。蝉がいないんだ。ほら、鳴き声が聞こえない」
「セミ......。少し待って。調べてみる」
どうしたんだろう。蝉のイントネーションがおかしい。
もしかして、さっきまでの僕みたいに蝉が頭から抜けているのか?
僕は驚いた。ここまでバグというものが恐ろしいだなんて。日常に紛れ込む非日常。世界の不具合。それは物理法則や計算式、海や空の概念と同じほどに当たり前と同じように違和感がない。
これは、とんでもなく重大な異常だ。
いやでも、強く実感した。
気がついたときには、うるさいほどの蝉の声に包まれていた。
あたりを取り巻く蝉の合唱は、ついさっきまでそれが消えていたとは到底思えないほどだ。
古見さんが顔を上げ、ゆっくりと僕の方へと顔を向ける。
「蝉。君の言った通り消えてたよ。ありがとう」
そういう古見さんの表情は心なしか疲れているように見えた。
「よかった。思ったよりもバグって手強いな」
「そうなんだよね......。ほんと、引き止められてよかった」
「そのさ、古見さんは管理者っていうやつにあったことはあるの?」
「ないよ。ただ、急に頭の中に変な考えが浮かんだり、私の頭の中にゲームの設定画面のようなインターフェースがでてきたから気づいたって感じかな。私は違和感を感じられないから、あんまりわからないんだけど」
「その奇抜な服装は古見さんの趣味じゃなくて管理者に変えられたものだったりして」
古見さんはハッとした表情で固まる。
考えたこともなかったようだ。
「ねえ。私の服装ってそんなにおかしい?」
「おかしい。周りを見たらわかるでしょ? そんな格好をした人はファッションショーとかに行かないとなかなか見られないよ」
「私、ずっと普通の格好だと思ってた。思い返してみれば、私のクローゼットは友達のクローゼットと比べて極端にカラフルだった」
ただ......と古見さんは険しい顔で続ける。
「個人個人のファッションセンスの違い程度にしか思ってなかった。君がおかしいと思うってことは、もしかしたら本当にそうなのかもしれない」
「気づいてくれてよかったよ。奇抜な格好をした女性と一緒に歩いてると僕まで変なやつだと思われるところだからね」
「ちょっと服買っていい?」
古見さんは珍しく頬を赤らめてそう言った。ようやく人間らしい一面を見られて僕は心なしか嬉しくなる。
「選んであげようか」
「嫌だ。君は違和感には敏いけど、常識には鈍そうだから」
急に胸を突き刺され、嬉しさは、どこか遠くへと押し流されていった。